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初めまして!

初めまして!
伊賀氏は備前国中部の雄として文明から永禄、元亀、天正の動乱期にあって、天然の険峻な地形の堅固な要塞である備前虎倉城を築き、長田庄を中心によく守りよく戦い、伊賀左衛門尉久隆公の冶世、最も盛んで十八万石とも二十万石ともいわれ、其の麾下城も二十城に達するといわれる戦国備前の雄です。
後世、研究した歴史家は伊賀久隆をして、「久隆器字宏大、名将たるの資質を備え威風を望んで来り投ずる一騎当千の士、その膝下に満ち、遠近の城砦ことごとく彼に雌伏した。……斯くて久隆の鋭鉾……、宇喜多直家を凌ぎ遂に直家が嫉妬の毒にたをれるに至った……」しています。

時代の変遷、価値観の変遷から足枷と感じ「どうでもいいこと」位に思っていました。
逆に、若い頃は「家」が重く、嫌に感じ、経済的価値観重視から「田舎じゃなくて都会にしてよ。」って思ってました。
しかし、年を重ねると、先達の歴史を後世に伝えなければと思う様になりました。
我が家も伝えるべき息子は、教えられて育っていませんし、他の土地で育ち、他の土地で生活していますので、私の若い頃よりもっと、歴史継承、尊重の意識に欠け、価値観も持ち合わせていませんので伝承さえ危うい状況です。
また、時代のなかで、資料や武具等は亡失しており、口伝にて伝えられてきた内容も、時代の価値観からこれより後は期待できない状況です。

もともと、吉川伊賀家は嫡断の家系で女系で継承してきている事が多く、歴史認識が甘い状況でした。
私の曽祖父は吉川伊賀家の生誕ですから、曽祖父の時代は毎年旧暦三月十六日には前夜から家紋提灯を灯して虎倉へ歩いてまいっていたとの事ですが、近年親の世代では、「一度行ったことがあるが、、、」ぐらいになっています。
親の認識、伝えられた意識では、未だに私が虎倉へ行ってくると言えば「虎倉にいってはいけない。虎倉へいけば殺される。」という位ですから、、、。

私自信も虎倉へ行くというと親が心配して嫌がるので、虎倉城は上ったことがないと思っていました。
しかし、最近登ってみると、全て見たことがある光景なんですね。
ここ30年は確実に登っていませんから、忘却しているだけで、何度か幼い頃きていたのでしょうね。

私が、記録しないとと思ったのは、もうひとつ以下の事もあります。

平成〇年12月。NK株式会社、株主総会にての事。
当時、私はこの会社の取締役をしていました。先代社長が一年前に引退、後に開発部長が社長に就任して一年、私は営業部門、総務部門を持っていました。
会社は住宅設備関連でしたが、不況時代となり、売上高が減少し、操業以来初の赤字となりました。
当年赤字となりましたが、先代社長は堅実で先見の明があり、非常に能力の高い方で努力の人でしたから、地場の中小企業でも、無借金経営、資産も現預金だけで十億以上を有する優良企業でした。
私にもよく「お前の信用でどれくらい金が集められるかだ。銀行が借りてくれと言ってくるようになれ。」といっていました。しかし、先代が引退し、新商品開発も危うい状況でしたところへ、株主である一部上場のSK株式会社から解散請求が出されたのです。その2年前位にはSK株式会社から「SKから人をいれて経営してあげようか?」の打診がありましたが断っていました。
それに伴い、私は先代社長、一部株主から、退任退職するように勧められていました。
理由は、「今のメンバーでは新商品開発も困難。新規に能力のある人を入れ体制を作るのも屋台が大きくなりすぎ困難。沈む泥船に乗る事はない。自分に力さえあればどうにでも出来る。」との事でした。
しかし、当時の私としては、先代が引退し役員となりこれからという時でしたので、「はい。そうですか」とは思えませんでした。しかし、その時、「あれ、これって前になにかこの感触が、、、」と感じ、伊賀家久が浮かんだのです。これって、家久の時と同じでは、、、。

それがきっかけで、再び家の歴史を振り返ることになりました。それに歴史ブームにもなりましたし、、、。

とにかく備前に勢力を誇った伊賀氏はその偉業の割には、知られておらず、表立つことはありませんでした。
それはひとえに沈黙し、ひたすら隠してきたからなのでしょうね。

しかし、昔はエリアが狭いですし、昭和ひとケタ生まれの人位までならほとんどの人が知っていましたし伝えられていましたので、外へ向いて言う事もありませんし言うとややこしい問題が近寄ったり、生じてもいけないのでひた隠しでした。

しかし、近辺でも身内でも知っている人は少なくなってきている今日です。
今まで何代も沈黙を守ってきましたが、今、記録しないと後悔すると思いました。
伊賀氏一族と他関係者、歴史ファン、その他オープンにて情報交換、交流できればと思います。


どうぞ、皆さまご教授下さいませ。
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伊賀氏および虎倉城 関係 人物辞典

本文は制作時間の都合上、随時更新、追記とさせていただきます。(順不同)



明石景親(浦上→宇喜多)
    飛騨守 宇喜多家重臣
    明石氏は、赤松円心の裔で播州明石郡に封ぜられたので、その氏を名乗った。
    後、浦上宗景に仕え叙爵して飛騨守と号し、浦上氏滅亡後は宇喜多直家に属し、客分待遇を受けて、先祖よりの所領四万石を領し老臣以上の待遇を受ける。
    宇喜多家中随一の大身といい、和気郡働城、次いで磐梨郡熊野保木城、其の後、児島郡麦飯山城主となった。
    この飛騨守の娘が伊賀家久の妻で、嫡男は掃部頭全登で、父に次いで宇喜多家の国政を執った。

明石掃部頭全登(宇喜多)
    宇喜多家家臣。
    関ヶ原の役には西軍の先鋒を勤めたが、奮闘するも西軍が敗れてしまう。敗戦後は備中へ潜居し、大阪城両度の戦役には一万人の将となって善戦したが、終に敗走、行方知らずとなる。南蛮へ渡ったともいわれ、或いは美作に住すともいわれる。

赤松政則


伊賀公季
    木工頭

伊賀公助
    三河守

伊賀公宗

伊賀文郷
    隼人正

伊賀光郷
    刑部丞

伊賀四郎左衛門尉朝光
    伊賀前司  従五位下

伊賀光季
    左衛門尉 京都所司代 検非違使、判官

伊賀式部大夫光宗(光西)
    二郎 左衛門尉、政所執事、式部大夫引付衆

伊賀局
   伊賀朝光の娘で北条義時に嫁ぐ
   伊賀光宗らと共謀し、「伊賀氏の変」をおこした。子は、北条政村

伊賀朝光の女
   結城朝光の女

伊賀光資

伊賀朝行
   将軍頼経の近習、伊賀氏の乱により鎮西に流罪となるも翌年八月には許され復職。
伊賀光重
   将軍頼経の近習、朝行とともに伊賀氏の乱により鎮西に流罪となるも翌年八月には許され復職。
   しかし、五十二か所の所領の内、残されたのは八カ所のみ。
伊賀光高
   光季の子
伊賀光時
   光季の子
伊賀光義
   光季の子
伊賀季村
   光季の遺領、常陸国 塩籠荘を相続する。
伊賀光泰
   光宗の子、備前長田荘が与えられ、これにより、備前長田庄の領有が始まる。






宇喜多能家(浦上→宇喜多)

宇喜多直家(宇喜多)

宇喜多秀家(宇喜多、豊臣)

宇喜多詮家(宇喜多)

浮田忠家(宇喜多)
     安心

宇喜多春家(宇喜多)
     金川城主。伊賀家久の攻撃を受ける。

浦上宗助
浦上則宗



桂源左衛門(毛利)

河原六郎右衛門(虎倉城→毛利)

河田七郎(虎倉城)

河原源左衛門(虎倉城)


小早川隆景(毛利)






高橋四郎兵衛(毛利)
   作州皿山を宇喜多勢が攻めた際の毛利方の守将





北条義時

北条政村
伊賀局の子。幼名 京兆、伊賀朝光の孫にあたる。鎌倉騒動の後、評定衆、引付頭人、連署、執権職を務めた。






細川高国

花房助兵衛職之(宇喜多)

穂井田元清(毛利)

   虎倉合戦時、南部方面隊として虎倉城へ迫る

菱川右京亮勝行(虎倉城)
   虎倉重臣。豪勇で知られ、幾多の助勢に出陣している。虎倉古参株の武将。百坂城主。

菱川与兵衛(虎倉城)
   菱川右京亮の長男。百坂城主。
   昔の曽我兄弟にも佐藤兄弟にも劣らぬと評される勇士。
菱川与九郎(虎倉城)
   菱川右京亮の二男。小森城主。
   昔の曽我兄弟にも佐藤兄弟にも劣らぬと評され、虎倉の名代として数々に出陣、功を挙げる勇士。

肥田左馬助(毛利)
   作州皿山を宇喜多勢が攻めた際の毛利方の守将




松田左近将監

松田孫次郎

松田左門盛明



山名政豊

山名俊豊

山県三郎兵衛(毛利)






伊賀家久、決意の戦い!

ツイッター投稿 まとめ

「天正七年、伊賀家久 悲涙の復讐戦」

天正六年九月、宇喜多直家は饗応を装い、伊賀久隆に毒を盛り、虎倉城の乗っ取りを画策しました。直家は計画どおり事を行いましたが、久隆は危うく逃れ嫡子与三郎も裸馬をかり、追手を振り切り無事虎倉城へ帰城しましたが翌年3月、久隆は毒の影響により血を吐いて亡くなりました。

父久隆が亡くなった事により、家久は涙が止まりませんでしたが、悲しみのなか、虎倉城を守り、憎き宇喜多直家に復讐する事を誓いました。

しかし、いくら虎倉城といえども、ただ一家のみで大勢力宇喜多に対抗するには限界を感じ、毛利方へ父久隆が亡くなった事と今後一味する事を約し、援軍の要請をしました。

伊賀与三郎家久が加勢を乞うたのに対し、小早川隆景は「当家へ味方する幕下の急難を救ってやらねば、後日当家へ随身し、味方に加わる者も無いだろう」と即刻、軍勢を出すように催促し、小早川左衛門佐隆景、毛利冶部大夫元清、宍戸備前守が一万騎を引き連れ出陣しました。


そして伊賀家久の出陣

 家久は悦び勇む春の駒繋ぎとめたる木々の枝の本の下影寒からで霧ふきとく谷川の木々の緑も秋深く流れて廻る虎倉山、白波高き岩橋は是も大手の要害なり、陣ぶれの日取りに従う八矢車の旗押し立てる大手先朝日縁どる馬印金地の扇涼やかに、黒皮おどし紺色は鶴峯、河原、土井、新山、床几に掛かれば物頭には吉川、片山、松本、小坂諸士の面々物の端固め、嘶く馬の数々は実にも城主の出陣なり。留守の備えは太郎次郎、神原久重(惣右ヱ門)後見の役目も重き長裃、三宝に熨斗、あわび、昆布、勝栗、かわらけ、書院先に馬のいななき家久は五候かざりし小桜に極彩色の陣袴黄金作りは久隆の形見と帯し二尺六寸、采配手に取り床几に掛かる。鍬形打ちたる甲を捧げ、側に控える侍は、皆旗本の備え武者、太郎次郎「今日は目出度き御出陣、御勝軍の吉待ち奉る」と聞ゆれば家久打笑みさらばといいて馬引き寄せてゆらりと乗ったる武者の骨柄孝有り義有り忠勇のあり合う者共引き連れて、後も見ずして出でて行く、云々。



伊賀与三郎家久は日応寺まで出て、小早川隆景卿に接見し忍山城攻略の先手を務めたい旨を申したが、「今回の忍山城攻撃は芸州勢にて行うので一旦帰陣し、次の出陣の際、忍、金川などの宇喜多勢の城の攻略をするように」と申しつけました。


伊賀家久は宇喜多直家が後詰に来るであろうと後詰押を買って出て勝尾山に陣を取り機会の到来を臨みましたが、反して直家は出陣しませんでした。そのころ、直家は「しりはす」という病気にかかり床にふす事が多くなっていました。


忍山城戦は、吉川経言が「一番乗り」を果たし、岡剛介、浮田信濃等は討ち死にし落城しましたが、伊賀家久は宇喜多直家が来ないので鬱憤が晴らせずされどこのまま引き揚げるのも口惜しくて、金川の城に夜襲をかけましたが、其の時は宇喜多春家がよく守り家久はたいして成果を上げられず引き揚げました。


其の後、再び金川城に夜襲をかけ、もう少しで落ちるという時、夜が明けて来たので、明ければ家久の軍勢は少勢で見透かされてしまうので首五十七を討取って引上げました。

伊賀一族として


最近、伊賀一族に、不名誉な事がありました。



詳細は申し上げませんが、この吉備の地において、伊賀氏は古くより、己が為、一族のため、地域のため、ひいては日の本のため、血と汗と泥にまみれ、名門としてその存在を誇示してきたはずです。

その祖先の栄光と労苦の歴史を現代の我々は風化させることなく未来につながなければなりません。
決して、泥を塗るようなことはあってはなりません。

気位ばかり高くてはダメです。
気品と五常の精神性を持ち、世のため人のために尽くせる存在であってほしい、と思います。


くれぐれも、伊賀氏一族として、虎倉城の末裔として、人に後ろ指さされるようなことなく、品位を持って、先祖の栄光を汚すことのないよう切にお願い申し上げます。

忍山城跡

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岡山市北区上高田の忍山城へ行ってきました。
この城は虎倉城の支城で、築城は伊賀久隆、城主は伊賀伊賀守家久です。

伊賀久隆が宇喜多直家に毒を盛られる事件後、嫡子伊賀与三郎隆家(後の伊賀家久)は復讐を誓い、まずは、宇喜多方の岡郷介の守備する備前備中の境目城で大井⇔建部往来の拠点であるこの城を奪い返すため、毛利方の小早川隆景に忍山城攻略の応援を依頼しました。
自らが先陣を切る旨を申しましたが、小早川は「忍山城は毛利方で攻める」とし、伊賀家久は勝尾に潜み、宇喜多直家がやってくるのを待ち受けました。しかし、直家は出陣せず、家久は宇喜多直家を討ちとることができませんでした。
 後、伊賀家久は、宇喜多方の金川城を夜襲し、城兵五十七の首を討ちとり鬱憤をはらしました。

そして、毛利方に味方した伊賀家久は備中高松城戦後、備中吉川の地に居し、この忍山城主として、大井、吉川他3万石を領しました。
(この忍山城襲撃時は、最盛期で約20万石ともいわれます)

そして、伊賀家久には最大の苦難、備中高松城戦に突入していきます。

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岐阜城(稲葉山城)と伊賀氏

岐阜城(稲葉山城)と伊賀氏についての記載です。

http://enya-kk.seesaa.net/article/415971725.html

そして、伊賀氏は、稲葉やあの安藤守就の安藤として美濃に勢を根付かせました。

この関係を知ると、竹中が稲葉山城をわずかの手勢で押さえた背景も見えるかも、、、。

若狭と伊賀氏

こちらは、若狭の伊賀氏について記載されています。



http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-04-03-03.htm

信濃における伊賀氏

あまり知られない信濃における伊賀氏の資料です。  「宗教法人 福満寺」管理の伊賀藤原時盛願文 

https://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/kyoiku/goannai/kaigiroku/h26/teireikai/shiryo/documents/987-5-3.pdf#search='%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%85%89%E8%B3%87'
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