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伊賀氏とは

伊賀氏は初代を鎮守府将軍藤原秀郷とする藤原流である。
其の祖は6代前の大職冠藤原鎌足公であり、さらに21代前天児屋根命を太祖とする系譜である。
平安時代の末期、左大臣藤原との呼名から佐藤氏と名乗った。鎌倉時代、源義経公の臣佐藤継信、佐藤忠信兄弟、さらに佐藤義清(西行法師)などが出ている。
承久四年(1210)佐藤氏は伊賀の国守護に任ぜられ伊賀姓を名乗るようになった。
そして、九代伊賀伊賀守朝光の娘が鎌倉幕府の執権北条義時の後妻になったため、伊賀氏一族は鎌倉幕府の中枢として重要な位置を占めていた。
伊賀朝光の子伊賀光季、伊賀光宗の二人は幕府の政所執事、評定衆、頭人など要職を歴任し、公卿執権の式部太夫職も兼任した。また、伊賀氏の流れを汲む伊賀ノ局の子北条政村は執権職につく栄達ぶりであった。
しかし、鎌倉幕府も時を重ね、専制硬直化し、家人などからも信頼を失い、その機に後醍醐天皇の反幕運動(1320)は全国に広がった。
北条幕府の命を受け、足利尊氏が天皇方の制圧の為、京都に攻め上った時、十四代伊賀光長は軍の将として上京し、京都三条河原で討死した。しかし、北条幕府とともに滅亡は免れ、足利氏の信任を受け、足利家家人として、奉公衆、近習を務めた。
十七代伊賀頼兼は足利義満公の近習の臣となった。これは、全国に散在する伊賀氏の領地保全には都合よく一族の者は長田庄、紙工、建部などの地頭職についた。
十八代伊賀河内守頼氏は将軍足利義持公より四万五千石の御教書の下附を受け、長田庄の領主となった。そこで豊岡上に居館を設け大鶴山頂に砦を築いた。
応永末頃(1420)、十九代伊賀兵庫頭は虎倉城を築城しこれに移る。
二十代伊賀伊勢守は戦国動乱の始まりに、安定して長田庄を守り切って後の繁栄の礎を作った。
二十一代伊賀左衛門尉久隆(1523)は気字広大、統率力、戦略に優れ、知謀、勇猛の将が集まり、いち早く銃火器を効果的に用い、圧倒的戦力をみせ、備前虎倉の高名を広く世に伝えた。
然し、織田信長の天下侵略の野望は最終段階にはいり、毛利、織田の高松城の戦い(天正10年)の後、不幸にも毛利、織田の境界線が旭川ではなく高梁川と決まり、虎倉城及び長田庄は織田(羽柴)軍の領地となった。時は天正十三年の事である。二十二代伊賀家久は、虎倉城を豊臣秀吉に渡し、僅かの従者を連れ、芸州に下り、毛利家より、僅か三百石の食扶持を得てその部下となった。
その後は表立って歴史に登場することはなく今日にいたる。
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年表

年                表
940天慶2  平貞盛、藤原秀郷らと共に下総国で平将門を討つ。
1156保元1  保元の乱
1159平治1  平治の乱
1160永暦1  源義朝、尾張国内海荘で謀殺される。源頼朝、伊豆へ配流。
1185文治1  源頼朝、鎌倉幕府を開く
1189文治5  奥州平定。
1205元久1  北条義時、執権就任。
1210承元4  形部丞光郷、佐藤朝光相共々に伊賀国守護となり、伊賀姓を名乗る。
1219承久1  伊賀局、北条義時の後妻となる。
       伊賀宗光、政所執事となる。
1221承久3  承久の乱   伊賀光季討死。
1222貞応1  伊賀光氏、光泰、頼綱、光高、長田庄の地頭職につく。
1224貞応3  伊賀氏の変 女婿一条実雅の将軍擁立に失敗。   宗光が所業なる故に配流、所領五十カ国召し上げられる。
1256康元2  伊賀宗光卒去。
1273文永10 5月27日、北条政村卒去。
1281弘安4  弘安の役。元軍、暴風雨により敗退。
1331元弘1  元弘の変。後醍醐天皇隠岐へ流さる。
1333元弘3  赤松則村挙兵。
       伊賀光長、足利尊氏と共に軍の将として上京。
       足利尊氏、六波羅探題を攻略、新田義貞、鎌倉を攻略、幕府滅亡。
1335建武2  中先代の乱。
1336建武3  南北朝分立
       伊賀光長、京都三条河原にて討死。
       足利尊氏入京するも敗北し九州へ下向。
       湊川の戦いにて楠木正成戦死。
1338延元3  石津の戦い、北畠顕家戦死。
       足利尊氏、征夷大将軍就任。室町幕府開府する。  伊賀氏はこの頃、足利氏の御家人となる。
1362貞治1  紙工地頭、伊賀掃部亮高光、讃岐へ渡り、細川清氏を討ち、伊賀城により讃岐伊賀氏の祖となる。
1365貞治4  赤松氏備前守護となり、浦上氏守護代として三石城による。
1391明徳2  明徳の乱。山名氏衰える。    伊賀頼兼、幕府奉行衆となり、足利義満公の近習の臣となる。頼兼、紙工に在すが後豊岡へ。
1392明徳3  南北朝の合体。
1399応永6  応永の乱。大内義弘、堺で敗死
1400応永1  伊賀河内守頼氏豊岡より元兼に移り、福山城を拠点として足利義持公より四万五千石の御教書を受ける。
       伊賀兵庫頭行隆、虎倉城を築城。
       伊賀出雲守光昌、田土に大原城を築城。
1419応永26 応永の外寇。朝鮮の兵船、対馬に来襲。
1429永享1  尚巴志、琉球王国を建国。
1461嘉吉1  赤松氏滅亡。   伊賀氏功により備中、美作可増併せて十五万石となる。
1464応仁1  応仁、文明の乱がおこり、備前細川方につく。赤松氏復帰する。
       伊賀伊勢守勝隆相続する。
       仁熊氏大畑城、新山氏新山城、土井氏勝山城による。
1471文明12 赤松氏守護代の松田氏備前金川に築城する。
1483文明15 福岡合戦、松田氏衰える。
1495明応4  伊勢宗瑞(北条早雲)、小田原城を奪う。
1497明応6  浦上氏家臣宇喜多能家 松田氏と戦い、初めて史上に現れる。
1503文亀   浦上、松田、中山、金光、中島、須々木、伊賀など備前国の領有をめぐり小競り合いが続く。
1523大永3  毛利元就、家督継承。安芸郡山城に拠る。 伊賀伊賀守勝隆隠匿し、伊賀左衛門尉久隆相続する。
       伊賀伊勢守備中の押として一子仁熊左京進を伴い、藤沢城に入る。
1541天文10 武田晴信(信玄)、父信虎を追放。
1542天文11 斎藤道三、国主土岐氏を追放。
1543天文12 鉄砲伝来。
1549天文18 松平竹千代、今川家人質となる。
1553天文22 川中島の戦い
1555弘治1  厳島の戦い、毛利元就、陶晴賢を破る。
       織田信長、清州城に移る。
1556弘治2  毛利元就、尼子晴久を破る。
1560永禄3  桶狭間の戦い。信長、今川義元を破る。
1561永禄4  長尾景虎、関東管領就任。
1562永禄5  信長、松平元康、同盟する。
1567永禄10 信長、美濃国を攻略、岐阜城に移る。
1568永禄11 織田信長、足利義昭を奉じて入京、天下制覇に王手。
       伊賀氏、宇喜多氏ともに松田氏金川城を責める。7月7日落城。宇喜多氏盛んとなる。
1570元亀1  毛利氏、上京への開拓として備中への侵攻が激しくなる
       宇喜多氏、岡山城に移る。
       姉川の戦い
       伊賀氏、岡山へ館を置く。
       石山戦争
1571元亀2  信長、延暦寺を焼き討ち。
1572元亀3  信玄、三方が原の戦いで家康を破る。
1573天正1  信長、将軍義昭を追放。
1574天正2  毛利氏、虎倉へ攻め来る(虎倉合戦)。伊賀氏毛利勢に大勝する。
       秋、伊賀、毛利、宇喜多連合する。
1575天正3  備中松山城落城、三村氏滅ぶ。
       長篠の合戦。信長、家康武田勝頼に勝利する。
1576天正4  信長、安土城を築城。
1577天正5  信長、右大臣に任官。
1578天正6  宇喜多氏織田氏に欸を通ず。
       宇喜多直家、虎倉乗っ取りを企て伊賀久隆に毒を盛る。
       九鬼、滝川、木津川の戦いにて毛利水軍を破る。
       荒木村重、有岡城ろう城。
       上月攻め山中鹿之助高梁阿部の渡しで討たれる。
1579天正7  宇喜多直家、毛利、将軍方に与する美作三星城を攻め落とす。後藤氏滅亡。
       三月十六日、伊賀左衛門尉久隆卒去。
       竹中半兵衛、三木城包囲陣にて死す
       伊賀家久、毛利方へ応援を求める。
       天正七年十一月、毛利方、忍山城を攻撃、落城。
       伊賀家久、忍山城合戦に参加。勝尾山に陣をとり忍山城の東、勝尾山、十二本木、日応寺の峰伝いを固め、救援にくるであろう宇喜多直家を待ったが来ず、金川城を夜討して五十余騎を討ちとる。
1580天正8  三木城陥落。別所長治死亡。
1581天正9  二月、宇喜多直家病没、十歳の宇喜多八郎が相続する。
       八浜合戦。宇喜多基家死す。
       秀吉、鳥取城を攻める。
1582天正10 武田勝頼、自害し果てる。
       伊賀家久率いる虎倉勢は忍山城を本拠とし、備中への防衛ラインを築く。
       備中高松城の合戦。(~5月)
       清水宗治、自害
       織田信長、本能寺にて明智光秀に討たれる。
       山崎の合戦(秀吉、明智光秀を破る)
1583天正11 賤ヶ岳の戦い(秀吉、柴田勝家を破る)
1584天正12 羽柴秀吉が天下を掌握。  高松条約の実施により虎倉城が接収される。
       伊賀家久、虎倉城を退城し、忍山城を本拠とし、備中吉川へ退去する。
       小牧、長久手の戦い。
1585天正13 足利義昭、秀吉より一万石を贈られ、将軍職を辞す。
       東西境界線折衝がもつれ、備前備中の境から高梁川となり、伊賀家久は所領を失う。毛利輝元より防長へ三百石与えられ西下する
       長宗我部元親、秀吉に降伏。
1586天正14 秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を賜わる。
1587天正15 秀吉、九州平定。
1588天正16 1月虎倉城、炎上
1590天正18 小田原攻め(北条氏滅亡)
       奥州平定。伊達政宗服属。
1592文禄1  文禄の役(~93)
1597慶長2  慶長の役(~98)
1598慶長3  秀吉、没。
1600慶長5  関ヶ原の戦い。
1603慶長8  家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。
1615元和1  大坂夏の陣
       一国一城令
       一国一城令により虎倉廃城となる。

伊賀氏データ

伊賀氏の家紋は
  代表紋は「上り藤」です。
  インターネット等では、「左三つ巴藤」があげられていますが、見たことありません。
  鎌倉時代はそうだったのでしょうか?
  基本は藤原ですので、やはり「藤紋」、アレンジして上り藤に中になにかあるものが多いようです。
  ただ、足利や北条とのつながりから、一部近いものを用いていたかもしれませんが、、、。
  「加茂大祭」の各社の「棒使い」等には、源家や足利の二つ引き等が使用されていますのでそれらも使用していた可能性はありますね。



伊賀氏の馬印は
  朝日の縁取り、金の扇です。


伊賀氏の旗印は
  八矢車です。



伊賀氏の宗派は
  「天台宗」です。
  現在は、変わっている家庭もあるかもしれませんが、基本は国宗であった「天台宗」です。
  したがって、現在も旧領地を探るには、天台宗の分布をみればほぼあてはまっていると思います。
  ただ、宗派を無理に押し付けていたのではなく、他宗派も認めていたようですから、全てが「天台宗」でなければならないとした訳ではなく、他宗派の地域も保護した古刹寺の宗派もあります。

伊賀氏は信仰に熱心でした。
  領内各神社に神領地を寄進したり、加茂大祭を盛大に執り行って地域振興と安泰祈願を奉じています。
  また、荒廃した神社仏閣の再興は熱心に行い、また、新規に神社仏閣の造営も行っています。
  
伊賀氏は祭事を重視した?
  吉備中央町には、現在も続く岡山県の無形文化財として、県の3大大祭の内の2つである「加茂大祭」「吉川八幡宮当番祭」が現在も継続されています。
  「加茂大祭」は、伊賀氏滅亡後は一時寂れていたとの事ですが、その後復興され、現在も華やかで是非、一度ごらん頂きたいものです。「棒使い」などをみると、この地が武芸にさかんであった事がうかがえます。
  「吉川八幡宮当番祭」は約1カ月にわたる長期のお祭りで華やかさはありませんが、古式ゆかしく、おごそかな神事です。ただ、派手さに欠け、観光的にみせる要素が少なくイベントとしては夕方の一時のみですので、少し寂れてきていることが残念です。

伊賀久隆公花押



伊賀氏は摩利支天を信仰し、守護神として大切に扱っています。
  当家も本年、50年振りに社を新築しました。
  当家の「摩利支天」社は西庄田の伊賀家旧屋敷跡の西端に鎮座されていましたが、昭和37年の大火後に別地に屋敷を移転し、「摩利支天」の場所を除き、敷地を30メートル程切削しましたので社だけが存在する小高い土地として独立していました。当然、月日が経つにつれ周囲の竹が猛勢をふるい荒廃しかけていました。
 また、光林山神護寺より寄進された、石燈籠もいつかの台風によって倒れ折れてしまいました。

 この「摩利支天」は昭和の大火により屋敷が全焼した際、すぐそばの椎の木は火柱となって燃え上がり、摩利支天社の下も火が這い、周囲もすべて灰となりましたが、摩利支天のいわれどおり、社は燃えず、御幣だけが外へ飛び出していました。未だに、周囲からは其の時の焼け跡が出ますが、すごいことです。
 そして、この度、2011年3月11日に社を新築し、石燈籠も補修でき、祈祷しました。くしくも、東北に大震災の起こった日でした。
 祈祷を始めると、空は一転真っ暗になり、何事かとあわてるほどカラスが異常に泣き始め、横殴りの雪が吹雪となりました。
 みんなが、異常気象に驚きましたが、祈祷が終わるとうそのように、天気となりました。
其の時、東北では大変なことになっていたんですね。
とにかく、しんじられない位すごかったんですね。

平安期の伊賀氏

伊賀氏の発祥は、佐藤左衛門尉木工頭公季が伊賀守に任命された時にはじまります。
平安時代中期白河天皇の承暦年間の頃です。
公季は木工頭として京都御所に仕えた官人です。公季の六代祖は武蔵守鎮守府将軍藤原秀郷です。
藤原秀郷は天慶三年(940)下野国の横領使に任ぜられ広大な土地を領し、軍事力もずば抜けて、強大な藤原の党の中核でした。
秀郷がなぜ、関東に在任するようになったかは、天応元年(781)太政官首席を務めていた左大臣兼太宰帥藤原魚名(北家)は罪状なきまま、だしぬけに大臣をやめさせられ、累は三人の子息にまでおよんだ。魚名の子孫が下野権守、下野大掾などを歴任しており、関東に赴いて地方受領として秀郷にいたるのです。

その藤原秀郷が、鎮守府将軍になったのは、天慶年間(938~940)の関東の大乱を収めた功によってです。
天慶二年十一月、平将門は常陸の国府を襲撃、進んで下野、上野を占拠、三年に入ると坂東八カ国を占領し、新皇とせん称し、坂東八カ国独立の形成となりました。この報告を受けた平安宮廷は「京官大いに驚き、宮中騒動す」と騒然としました。
この状況で、常陸堟 平貞盛と下野横領使 藤原秀郷は四千人の兵を集め、機を伺い、天慶三年二月一日戦いは切って落とされました。
壮絶な騎馬戦と、焦土戦が繰り返され「火の煙は昇りて天に余りあり、人宅は尽きて地に主なし」といわれる激戦です。
二月十四日、戦いで矢を受け落馬、さすがの平将門も落命し、幕は下りました。

その功により、藤原秀郷は従四位下となり、横領使から一躍下野守、武蔵守となりました。
以後、二代にわたり、鎮守府将軍になるなど子孫繁栄の基礎をつくり、全国の秀郷流の祖となったのです。

武士階級の内、藤原氏を称する者はほとんどこの藤原秀郷を祖とするもので秀郷流藤原氏と呼ばれます。
藤原秀郷は俵藤太といいます。近江国田原荘より興るといい、相模国田原を発祥の地ともいいます。
「秀郷龍神の請により、竜宮に行き竜神の敵を討ち宝俵を得る云々」

平貞盛、藤原秀郷両名の功で将門の乱は鎮圧されたがこの乱の加勢のため、武蔵介でこの時京都にいた坂東武者源経基も関東に向かっていたが、途中で乱が収まったので帰京。翌年の天慶四年、瀬戸内海で起こった藤原純友の乱を平定しました。これにより、それまで権門勢家に従属していた武士階級が独自の勢力をもつようになり、それぞれ、源、平、藤の武士の棟梁と仰がれる祖となったのです。

鎌倉時代の伊賀氏

源頼朝は、朝廷より守護、地頭の設置の権利を獲得し、今までの支配層である権門、勢家、庄公の何れからも、兵糧米を徴収し、文治元年(1185)鎌倉に幕府を開きました。
承元四年(1210)形部丞佐藤光郷の子 従五位上佐藤伊賀守朝光は伊賀の国の守護に任ぜられました。
以後、伊賀姓を名乗ります。
そして伊賀朝光の娘が執権北条義時の後妻となったため、この頃から伊賀氏の勢力は盛んとなりました。

「吾妻鏡」
元久二年六月 義時の後妻(伊賀局)男子京兆(北条政村)を出産す。

承元四年十二月 伊賀二郎光宗、 中原太夫仲業、問注所の寄人を相兼ぬるべき由仰せ含められる。
建保三年九月十四日  佐藤伊賀前司朝光 頓滅す。
  佐藤朝光
   従五位上行伊賀守藤原朝臣朝光散位光郷の男
   母は下総守邦業が女
   正治元年左衛門少尉に任ず。
   建永元年四月二十五日使の宣旨蒙る。
   建永二年四月十日  叙流
   建永二年五月二十三日 辞職
   承元四年三月十九日 伊賀守に任ず。
   建暦二年十二月十日 従五位上
建保四年八月   故伊賀守朝光追福のために永福寺境内に造立の塔婆供養す。 導師は荘厳房律師行勇、施主は義時の室、ならびに光季、光宗等也。

 建暦二年九月  伊賀光季常陸国地頭職並びに明主を安堵さる。(本補地頭となり常陸国の伊賀氏の祖となる)
 建暦三年五月  和田義盛討伐の賞として、上野国岩門荘を伊賀光宗に、常陸国佐都荘を伊賀朝光に贈る(陸奥国伊賀氏の祖)
 建暦三年八月  将軍実朝新御所に入御の行列の前駆に伊賀仲能、後ろに伊賀朝光、同光季があり。

建保七年二月   伊賀光季 京都警護のため、上洛。京都守護職、検非違使。
承元元年七月   光季の使者京より到着す。
         曰、「源頼茂後鳥羽院の叡慮に叛くによって討たると。」
承元元年九月   伊賀光宗政所執事に補す。二階堂行光病のため辞退の替わりという。
承久元年十月   伊予一条実雅朝臣、右京兆(北条義時)の嫡女(母は伊賀朝光の女)に婚す。

承久三年五月   後鳥羽上皇と幕府の間は源実朝死後、反目していたが、ついに鳥羽離宮内の城南寺の流鏑馬ぞろいと称し、諸国の兵を招集し、在京の武士千七百余騎が集まった。その中には幕府側の守護の一人、大江広元の子、親広も院方に加わり、其の他諸国の家人の中にも院方に加わる者があった。
  親幕府の西園寺公経、実氏は直ちに逮捕、拘禁され伊賀光季は、京都高辻の屋敷を襲われ、抵抗したが戦死し、承久の乱となった。

  伊賀太夫尉光季、去ぬる十五日の飛脚関東に下着す。申していわく「この間院中に官軍を召し集めらる、よって大江民部少輔親広入道、敷喚に応ず、光季、西園寺公経の告を聞くによって、障りを申す間勅勘を蒙るべき形勢あり」と。
  未刻、公経の家司三好善主税頭長衡の去ぬる十五日の京都飛脚下着す。申していわく、「昨日公経ならびに西園寺黄門実氏は、二位法院尊長に仰せて、弓場殿に召し籠められ、十五日午の刻官軍を使わして伊賀光季を誅される。」

吾妻鏡
「(法皇は)十四日の晩景、大江親広入道を召し、また右幕下父子を召し籠めらる。十五日の朝、官軍きそい起こりて、凡そ一千七百余騎、同日大夫尉雅信、佐々木広綱、三浦胤義、佐々木高重等勅定を承り八百余騎の官軍を引率して、伊賀光季の高辻京極の館に襲いて合戦す。事火急にして、光季並びに息男寿王冠者光綱自害し、火を宿蘆に放つ南風激しく吹き余烟延びて数十町に至る」

北条九代記
「昨日までは、鎌倉殿の御代官とて伊賀判官光季都を守護してありしかば、世の覚え時の綺羅肩を比ぶる人もなく目出度栄へしに、一朝に滅亡して忠義の道を顕しける志こそ由々しけれ」

この乱は、尼将軍北条政子の決断対応によって、幕府大軍が上京、僅か二ヶ月で平定され、後鳥羽上皇はじめ三上皇は配流、味方した公卿武士の処断、その所領没収となり功績のあった武士に与えられました。これが新補地頭であり、これによって幕府の権力は西国にまで及ぶ事になりました。
備前国は伊福郷が相模国足柄郡の松田氏に与えられ、備前松田氏の基礎となったのです。
 備前長田庄は皇室御領で後鳥羽上皇の荘園であったが、伊賀次郎左衛門尉光宗の子、光泰などに与えられました。これが、備前長田を領有する始まりです。
 備中国では、新見荘に新見氏、有漢保に秋庭氏、美作国では吉野郡湯郷に後藤氏が夫々補任されました。一方、京都で討死した伊賀太郎左衛門尉光季に対しても、残された息達に本領が安堵されたのです。

吾妻鏡
「貞応二年、六月二十八日、故伊賀太郎判官光季が息四人(光高、光時、光義、寛光 )二品(北条政子)御亭に参ず、此十才に未だ満たざる幼童なり、廉下に召してこれを見る奥州(義時)その砌に候じたまふことごと光季が顔貌に相似るの由、御悲涙を催され、亡父の跡を継ぎて忠直を励ますべきの由、直々に仰せ含めらる。

嘉禄元年九月十三日  四郎季村は故太郎判官光季が遺領(常陸国塩籠荘)を拝領す。
 

鎌倉騒動(伊賀氏の変)

貞応三年八月二十九日  北条義時後室禅尼、政子の仰せによって「伊豆国北条郡に下向し、かの処に蟄居すべし」と泰時を悪み我が生みたる四郎政村を世にたてんとする科によるなり。伊賀式部丞光宗、信濃に配流せらる。
舎弟四郎左衛門尉朝行、同六郎右衛門尉光重等、相模守時盛、武蔵守時氏の預かりとして京都より直に鎮西に配流せらる。
嘉禄元年八月  伊賀四郎左衛門尉朝行、同六郎右衛門尉光重、厚免を蒙りて配所より帰参す。これ尼将軍政子のご追福によって恩赦を行わる処なり。その後も要職に復す。
嘉禄元年十二月 式部大夫光宗法師、法名光西、厚免を蒙り配所より帰参す。本領八か所これを返し賜るなり、以後要職にあり、度々の和歌会にのぞむ。

これは、北条義時が急死して後継者問題となった際、北条義時の後妻伊賀の局は実兄の伊賀光宗、三浦義村と図って実子の政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍にたてようと企てたというものです。これを、北条政子はいちはやく察知し北条泰時をたて対処落着をみたが、伊賀の局は伊豆へ、他は前述へ配流されました。後、許されて要職に還りさくが、所領五十二か所の内八か所のみとなりました。

北条九代記
 京都に飛脚を遣わされしば、相模守時房武蔵守泰時取るものも取り敢えず、六波羅をたって、貞応三年六月二十六日の晩景に鎌倉に下着あり、二位の禅尼対面あり、前の大膳太夫入道覚阿申しけるは世の安危人の疑うべき時なり。両人執権の議定あらば静謐すべし、早くその沙汰を御受け申し給へとあり。去んぬる十三日より今日に及びて、世上の巷説まちまちなり武蔵守泰時は弟等に打亡さるべき運命にて、京都を出でて下向せらるあさましき事をみんと風聞あり。元久二年より以来義時執権たること二十年に及べり、然るに義時後室は伊賀朝光が娘なり、此の後室の為、武蔵守泰時は継子にて当腹に政村を生みたりければ、後室は泰時を悪しまれ我が生みたる四郎政村を世にたてばやと常々思われたり、後室の弟伊賀式部丞光宗に心を合わせ三浦駿河前司義村を語らい、若君頼経公を押し退け、泰時を打殺し、義時が聟宰相中将藤原実雅卿を関東の将軍とし、政村を執権になし我が弟光宗に武家の成敗を致させばやとぞ思い企てらる。是によって、四郎政村の館の辺り物騒なり、されども泰時、少しも驚き騒ぎ給わず、二位の禅尼聞きつけて便を以て政村が館の騒動をぞ静められける。相模守時房の一男掃部助時盛武蔵守泰時の一男武蔵太郎時氏を京都に上洛せしめられたり、鎌倉中何とはしらず、近国の武士馳せ集まりて大名小名の家々に群参す、二位の禅尼安からず思い給い、七月十七日ひそかに駿河前司義村が家に入り給う。禅尼仰せける様前陸奥守義時の卒去につきて、武蔵守泰時鎌倉下向ありける所に、世の中静かならず、陸奥四郎政村、式部丞光宗等しきりに義村が家に出入りして密談の事あるの由、風聞す。若し、泰時を謀り参ぜん為か、義時忠勤の大功承久逆乱の治運干戈静謐せし、其跡を継ぎて関東の棟梁たるべき者は、武蔵守泰時なり誰かこれを争わんや、政村泰時の両人和平の諌を加えられるべし、政村を扶持して反逆を企てられば言語道断の事なるべし。斯く申すを用いらるべきか、用いまじべきか申しきるべし、とありければ義村申しけるは、陸奥四郎政村は全く逆心なし。式部丞光宗等は用意ありと覚え候。仰せの趣畏りて制禁を加え、候わん此の事遁避仕るまじと誓言を以て請合申す。二位禅尼必ず和平の事打置き給うなとて、御所にぞ帰り給う。夜明けて後、三浦義村は泰時の方へ参りけるに最殊となく出合いて、対面あり義村申されける様(中略)泰時政村御両所に付きて何れを疎かに存ずべき、只願う所は、両所御和平候えかし式部丞は日頃計略の事候か義村風諌致し候えば、漸く帰伏して候とぞ申しける。武蔵守泰時更に喜怒の色なく、我は政村に聊かも野心なし、何事によりて別意を致さるべきとぞ申されける、義村安堵して帰りける。
同年七月八日、二位禅尼の御前に相模守時房前大膳大夫入道覚阿関左近将監実忠参られて世上の事共御沙汰に及ぶ。禅尼仰せけるは光宗等が奸謀隠れなし、宰相中将実雅に於いては、卿相以上を左右なく罪科に処し難し、京都に於いて罪名を伺い奏すべし、陸奥守の後室並に光宗等は流刑たるべし。其の外の与党は罪科までもあるべからず、とこそ定められけれ。

南北朝時代の伊賀氏

鎌倉幕府も終焉を迎える頃は、重臣の畠山氏、和田氏、千葉氏など諸家が滅亡、北条家の専制支配は頂点に達し、身内や守護さえ不満をつのらせるようになりました。一方、御家人は零落し領地を失い、非御家人(寺社に仕える武士、貴人に仕える武装した従者、武力をもつ荘官、僧兵等)が経済力をつけ、台頭して、御家人の領地を買い取ったりするようになりました。悪僧、悪党が横行し、乱暴、略奪をほしいままにはたらき世間を騒乱させていきました。政治が腐敗し、不満が満ちて治世の転換を求める機運がたかまりつつある状況でした。
そして、伊賀氏はこの頃はまだ中央に在していましたが、北条家の身内としては離れた存在であったようです。

元弘の変

元弘元年、御醍醐天皇は討幕計画をたて、以後、南北朝争乱の時代へ突入していきます。
  元弘二年三月  後醍醐天皇を隠岐へ配流。
  元弘二年十二月 楠木正成、赤坂城を奪回。
  元弘三年一月  赤松則村(円心)挙兵。
      二月  千早城攻防戦 続く。
      三月  赤松則村 六波羅軍と戦う。
      四月二十九日 足利尊氏、北条氏の命を受け、隠岐脱出の御醍醐天皇の軍、千早城の楠木正成の軍の討ち手として上京、丹波へ進出し、篠村に陣をとるが、そこで諸国の武士に反幕の兵への参加を呼びかけ、篠村八幡の社前に反北条の挙兵のための自筆の願文を収めた。

 伊賀光長は足利尊氏とともに上京していたが、「足利尊氏公京に攻め上りしに従う」と足利に従い、この時から足利氏と深いつながりが出来たようです。
  元弘三年五月二十二日 新田義貞、鎌倉を攻略。北条高時ら自刃し北条氏滅亡。
  元弘三年六月  御醍醐天皇、伯耆より帰京。建武元年 天皇新政。

しかし、建武政権も意気込みよく発足したが、旧慣無視の法命や、護良親王自ら発した令旨の乱発や、足利尊氏の天皇無視の行動など混乱につぐ混乱を招き、のっぴきならない状況となりました。
1335年、中先代の乱で足利直義が護良親王を殺害する事件が勃発。これを機会に足利尊氏は建武政権を離脱しました。1336年(建武3)三月、足利尊氏は鎌倉より入京、御醍醐天皇は叡山へ逃れる事態となり、新田義貞、北畠顕家の軍と交戦し、足利軍は敗北、丹波へ退いたのです。この戦いで伊賀光長は京都三条河原にて討死しました。

御醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行われ、その戦功によって、伊福郷地頭松田氏は備前守護となりましたが、足利尊氏が天皇に反旗を掲げるや、山陽、四国の武士団も挙って足利氏に従い党に加わりました。松田氏もこの時、足利方に加わりました。後に、南北朝対立による戦乱は激しく、貞治四年の頃は南朝勢は備前でも勢力強く、遂に松田氏南朝の軍を支え得ず敗退し、替わって播州の赤松氏が南朝勢を一蹴。その功により赤松氏が備前守護となり、その被官浦上氏が守護代として和気郡三石城に居城し、国政を取り仕切りました。これによって松田氏も赤松氏の党となり、国中、赤松氏の令がおよんでいました。
正平七年(文和1)、山陰伯耆の山名氏が南朝に帰属し、備作地方は抗争に明け暮れました。正平十七年(貞治1)頃になると、北朝優勢となり、山名氏もまた、幕府に帰順し、備作地方はすべて幕府側となりました。

 美作守護
 正平18年(貞治1) 山名義理
 備中守護
 正平5年(観応1)  南遠江守
   11年(延文1) 細川頼之
   17年(貞治1) 高師秀
   20年(貞治4) 宮下野入道
   21年(貞治5) 渋川義行

明徳の乱(1390)
 山名氏は山陰から近畿地方にかけて十一ヶ国を領有し、全国の六分の一を占有したので六分の一殿と呼ばれた大身でした。しかし、この年一族の惣領権をめぐって内紛が生じました。この機をチャンスとして幕府が干渉し大乱の様相となりました。足利義満は奉行衆の軍事力を動員して制圧に成功し、山名家に山陰三国を残して後を没収しました。もちろん、この戦いに伊賀頼兼は参加し戦功をあげました。この事から伊賀氏の勢力が美作、備中へと及ぶようになりました。

この頃の伊賀氏は、伊賀兼長は美作守であり長田荘地頭になっており、その子伊賀頼兼は将軍足利義満公の近習になっていました。
 当時、守護は、任国内の地頭、御家人を自己の組織内に組み込もうとしましたが、地頭、御家人は、将軍に対しては同じ直臣であり、守護の幕下に収まる事を嫌い、直接幕府の指揮下に入ろうとし、幕府もまた、自らの武力を必要としたので、これをもって直轄軍を組織しました。この事から近習、奉公衆などと呼ばれる存在が出来、普段は在京していたのです。
足利義詮は手許に強力な武力をもっていなかったので度々の敗走を繰り返しましたので、足利義満は近習奉行衆の組織をますます充実させ、政権を不動のものにしました。

伊賀氏もそのような立場にあり、備前守護松田、赤松の領国経営には伊賀氏は組み込まれていませんでした。
 足利義満の直轄軍三千騎といわれ、将軍の下に大きな力を発揮した、近習、奉公衆は各地に領地をもっていたので、将軍によって領地が保護されていたのです。

 戦国期の領地授受についても世家相続記に、
  伊勢守勝隆相続の時、天下ヨリ其節知行所被替召備前国所々三分ノ貮ニ被仰付候云々。
  又、伊賀守久隆相続の時、右ノ領地久々違変ナキ所ニ天下ヨリ知行ノ場所ヲ被替仰云々。
  又、伊賀守家久相続の時、其ノ時従天下右之領地被替仰其後ノ領分ハ云々。
という様に、その知行は将軍から直接伝達されていた事を記しています。


 

伊賀高光と讃岐伊賀城

正平十七年(貞治1 1362)備前国住人、伊賀掃部亮高光、細川頼之に従い、讃岐に押し渡り、南党の将細川相模守清氏を討ち、四国の南朝系の勢力は衰えました。
 姓氏大辞典には、
「讃岐の伊賀氏、讃岐山田下村に伊賀城あり伊賀掃部助高光之に居る。高光は備前国の国人なり、貞治元年高屋役に功あり、細川頼之賞するに山田下村を以てす。」とある。

 太平記
 讃岐には細川相模守清氏(四国南朝方将)と細川右馬頭頼之(備中守護北朝方)数月戦けるが、清氏遂に討たれて、四国無事閑まりにけり。其の軍の様を伝聞に、右馬頭頼之は山陽道の蜂起を静めんとて備中国に居たりけるが、(中略)備中、備前両国の勢千余騎を卒し、讃岐国へ押渡り(中略)七月廿四日(貞和元年)相模守の城、白峰の麗に押寄る、相模守はいつも己が武勇の人に超えたるを頼みて、寄手の族の手をみると均しく木戸を開かせ、一騎駆出給へば相従ふ兵三千余騎、数千騎が中へ破って入り、寄手千余騎の兵共相模守一騎に駆分けられて馬人共に辟易せり。爰に、備中国住人陶山三郎と備前国住人伊賀掃部介と二騎、田の中なる細道をしづしづと引けるを、相模守追付けて切らんと諸鎧を合わせて責められける所に、陶山が仲間そばなる溝にをり立って相模守の乗給へる鬼鹿毛と云ふ馬の草脇をぞ突きたりける。この馬さしもの駿足なりけれ共、時の運にや引かれけん。一足も更に動かずすくみて立たりける。相模守が近付て敵の馬を奪はんと手負ひたる体にて馬手に下り立太刀を倒に突いて立たれたりけるを真壁孫四郎馳寄って一太刀打て当倒さんとする所に、相模守走寄って真壁を馬より引落し、ねじ頭にやする。人飛礫にや打つと思案したる様にて中に差上てぞ立たれたる。伊賀掃部介高光は懸合する敵二騎切て落し、鎧に余る血を笠符にて押拭い何くにか相模殿のおはすらんと東西に目を賦る処に、真壁孫四郎を中に乍提其の馬に乗らんとする敵あり、穴かしこし凡夫とは不見、是は如何様相模殿にてぞおはすらん、是こそ願ふ所の幸よと、伊賀掃部介畠を直違に馬を真闖に馳懸てむずと組んで引きかつぐ、相模守真壁をば右の手にかひ抓て投棄、掃部介を射向の袖の下に押へて頭を撥んと上帯延て後に回れる腰の刀を引き廻されける所に、掃部介心早き者なりければ、組むと等しく抜きとりける刀にて相模守の鎧の草摺をはねあげ様に三刀刺す。刺されて弱れば刎返して頭をぞ取たりける。さしもの猛将勇士なりしかば続いて助ける兵もなし。森次郎左ヱ門と鈴木孫七郎行長と討死しける外は、一所にて打死する御方もなし。其の身は深田の泥の土にまみれて頸は敵の鋒にありと云々。

この戦いで、細川相模守清氏の敗死によって四国にあった南朝方の勢力は一掃され、幕府方の勢力に統一されました。
この功によって、伊賀掃部介高光は、讃岐国山田下村を賜い、伊賀城により代々伊賀氏が居住し今に続くのです。

この伊賀高光は何処の伊賀氏か次の説と云われる。
 東寺文書の中に「紙工保地頭職、伊賀六郎左衛門光隆と書かれている人物は、弘安十年頃の人であるがこの子か孫にあたる人物が「掃部介高光」ではないか、代々その直系に通し名をつける習慣から見てそう考えてよかろう」

此処で伊賀掃部亮高光は松田の家人とも赤松の家人とも書いてなく、幕府直属の御家人として出陣しているのです。


この戦いをイメージすれば、細川清氏はまさに巨大な体躯、で圧倒的な強い武人だったのでしょうね。まるで、原哲夫先生のワールドでしょうね。

室町時代の伊賀氏

明徳三年、南北朝統一され五十九年間の争乱の時代もようやく落ち着きをみせ、足利義満の三十五年間の安定繁栄した専制政治の時代となりました。
南北朝時代は伊賀家の本貫地である伊賀国は、度々の戦で荒廃したのに加え、将軍、天皇、護良親王などがそれぞれ御教書を濫発したため、太守といえども事実上、領有は名目に過ぎないものとなっています。
しかし、そんな時代にあって、伊賀頼兼の領有する長田庄は鎌倉時代以来伊賀氏の領地であり、一族が地頭職を任官した皇室御領として安定した地域でした。

 昭和の大戦に供出され現存していないが、鷲林寺の梵鐘の銘文に伊賀頼兼の立場、意志が伝えられます。
  備前国津高郡長田庄中村牛頭山鷲林寺
  新撰鐘此方教体以音聲為佛叓天下
  叢林以禮楽為清規爰有耕然黙主
  比丘尼理常明此理故怱以年来所持天神
  筆之金字法萃経一部施入當寺令僧
  道林普化一字一銭少縁頓成千均大器
  可謂願力所全大切不奇寅夕鑑々扣
  推良哉依此上善々々祝廷皇国万歳
  日増輝本寺両檀那益昌家門繁栄山門
  弥堅開山基業三途八難盡脱輪筈法界
  有情同證圓通仍唱伽陀以當銘記矣
  七軸金文較半銭  千鈎重器鎮長田
  聞聲悟道不寄特  驚起き牛頭峰頂眠
  幹緑比丘  道休

  大檀那  藤原朝臣伊賀左衛門尉頼兼
          前伊賀太守沙弥直兼

  當寺比丘増極在宥謹誌
    太歳 明徳二辛未十一月日

これには、「地頭」と書かれておらず、長田庄全体を鎮めると、一地域のみでなく長田庄全体の領主としての立場を宣言しています。
一方、直兼は伊賀国太守でありながらも事実上は名目になっており、どうにもならなかったようです。
やがて、伊賀頼兼は総家として長田庄の四地域に別れた同族の地頭職を束ね諸家に対抗すべく努力されました。
頼兼は初め、紙工(しとり)に居館をかまえていましたが、その後豊岡村へ移り、大鶴山に砦を築きました。

時代は、安定の足利義満の時代を頂点とし、次第に統制が困難となり、将軍義教が赤松満祐に殺されるという大事件が勃発、世はあげて下剋上といわれる時代に突入したのです。
応仁元年(1394)東西両軍に分かれて天下の大乱となり、やがて「戦国」と呼ばれる時代となるのです。

足利義持、義教期の戦乱
  上杉禅秀の乱
   鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉氏憲(禅秀)の対立に際し、関東御扶持衆が討死、九州でも反乱が起こった。将軍義持は、管領畠山、細川、山名などに鎮圧を持ちかけるが事ははこばず、応永三十一年ようやく持氏の忠誠の誓書によっておさまりました。関東管領でさえ領国を空けるといつ地頭、国人の反乱が起きるかわからない状況なので、管領も積極的に動こうとはしなかったのです。それに、この争乱で北関東の「京都御扶持衆」の佐竹、小栗、宇都宮の三家が持氏によって滅ぶというたよりにならない事態となりました。

将軍義持は、この事態に当然御家人の強化を画策しました。
その一つとして、伊賀河内守頼氏に、備中竹荘、吉川、大井などを加増、四万五千石の御教書を下したのです。
伊賀氏はもともと守護の立場を考慮する必要のない立場であり、赤松、松田の郎党ではありません。
これを受けて応永の頃、豊岡から元兼に移った伊賀河内守頼氏は隠居し道印と号し、伊賀兵庫頭行隆が相続しました。
戦の砦として、大規模な山城の福山城を築きこれに拠りました。





また、河内守頼氏の弟の出雲守は、備中への備えとして、田土の大原に築城し、大原氏を名乗り後神原氏と称しました。
兵庫頭行隆は応永末期に小倉に築城し、これを虎倉城と称しました。
その当時、長田庄は東寺領でした。

嘉吉の変
時代は足利義教の時、其の将軍就任に反対した鎌倉公方足利持氏が反乱、上杉憲実と幕府追討軍により翌年持氏は自害し反乱はおさまりましたが、将軍義教は専制的で守護の家督介入や守護追討を行ったため、反感多く、1441年、播磨国守護赤松満祐が将軍足利義教を謀殺する事態となりました。これに対し、幕府の対応はお粗末で追討も遅れ、政治的軍事的空白が生まれ、侍所別当山名持豊が重い腰を上げたのは二カ月後のことでした。
この戦いで山名氏の力はさることながら、備前、備中、美作の国人地侍の動向は戦を大きく左右しました。
伊賀兵庫頭は奉行衆で御家人ですから、当然、最初から幕府の為に戦いました。
その功により、美作、真嶋郡の木山、鹿田あたりまで進出しました。そして、備中、備前、美作合わせて十五万石を領有するようになりました。
守護大名がいるのに、どうして伊賀氏は十五万石ももらっていたのか不思議に思うかもしれません。
当時、室町期の大名は戦国大名のように、自分の力で侵略によって領地を増やしていた訳ではありません。
将軍の力は弱くはなってもまだ強力でした。
京都駐在の諸大名はせいぜい三百騎程度であり、領国の統制も危うく、古来からの国人や地侍などに脅かされている状況で、将軍の御教書に頼らざるをえないのでした。
したがって、直接の将軍奉行衆などは、守護といえども一筋縄ではいかない存在でした。

赤松氏滅亡の後、山名教之が備前守護となり、赤松の残党を追捕し備前邑久郡福岡の城に小鴨大和守を守護代に置きました。元赤松の郎党であった松田、難波、宇野や東備前の土着武士は皆浪人となり機会を伺いました。
そして、細川氏の口添えもあり再び赤松氏が返り咲き、備前新田荘を与えられた事によって浪人していた赤松の武士がその下に集まり、和気方面で山名氏と抗争を繰り返しました。

寛正五年長田庄は萬寿領になりました。永徳元年白河上皇の御願で創建された寺です。

応仁の乱
細川氏と山名氏は両雄並び立たずの言葉どおり、次第に不穏な形勢となり、細川勝之、山名持豊の間の小競り合いが京都で続き、天皇も幕府も一方に加担し、諸国の守護豪族が応援に上がるようになりました。
なかでも、大内、斯波両氏が是に加わり、京都の町に火がかけられ炎上を繰り返しました。
東西両軍の加担者は一時細川東軍十六万、山名西軍十一万の大軍となり、それが京都で対峙し十一年間、戦乱と飢饉でまさに破滅の地獄絵図と化したのでした。

「足軽をする」とは、本来、放火、略奪など後方撹乱活動をしていたがのちにそのような行為を行う軽装の雑兵を意味するようになりました。

この戦乱の結果は結局誰が勝ったという事なしに終わり、浮上してきたのは、守護代、下級荘官、国人、地侍などであり、次の戦国舞台に登場することになります。

 近畿有数の荘園領主であった興福寺門跡の尋尊はかく述べる。
「天下のことはさらにめでたい事など一向にない、近国とはいえ近江、美濃、尾張、遠江、三河、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内などまったく将軍の下知に応ぜず、年貢なども一向に進上する事のない国々だ、その上、紀伊、摂津、越中、和泉はまだ国中戦乱の地方で、これも年貢の進上など問題にならない、けっきょく将軍の下知がおよぶ国といえば播磨、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国ばかりだ、だがそれらの国々でも守護が将軍の下知を奉じているだけで、じっさいにその下知が実施される段になると、守護代以下の在国の者共がいつこう承知しない、だから、結局のところは、日本国中ことごとくもって将軍の御下知には応じないということだ」

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