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総社宮 石燈籠

加茂市場 総社宮に弘安四年に建てられた花崗岩の八角灯籠があります。
これは、蒙古襲来の一大事に際し、敵国降伏、皇軍の武運長久を祈願して直前に寄進されたもので、弘安四年の奉献であるので伊賀三郎左衛門尉光泰(式部大夫)によるものではないかと云われています。
銘文は摩滅して読む事は出来ませんが、総社宮は長田庄で、弘安の時代は最勝光院領として相模守北条貞時、陸奥守北条業時の下知を受けた事は東寺文書によって徴証せらるとの事です。
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日吉山王社殿棟札

日吉山王社には正安四年の棟札が残されています。
この時代の長田庄の地頭は伊賀弥左衛門尉頼泰で、伊賀氏と深い関係であったいわれています。

岡山県金石史
「所在 津賀村大字下加茂 日吉神社
 用材 松板
 寸法 長二尺四寸、幅七寸五分 厚七分

 表  日吉社造営大勧進沙弥構仏大工近次郎
    正安三歳次辛丑九月八日地引始之
    同十月十四日庚辰日棟上
    同十一月二十五庚申日神御遷宮
    嘉元元年歳次癸卯九月十四日備中吉備津宮請咒地鎮
    祝師僧信慶 書判 祢宜物部宗恒 書判
            祝師僧信慶大徳

 裏  日吉社祝正安四年歳次壬寅十月廿六日丙戌
             慈観坊判

    但し、裏は其の前後に亘る事項を追記せるものならん
    鎌倉時代初期より室町時代初期を通し、幕府の家人伊賀氏世々地頭職を以て此地に臨み、当社に対する尊信篤く社殿の造営など……」
    と記し、地頭伊賀氏の尊崇厚かった事を伝えています。

鷲林寺 梵鐘

鷲林寺は、天暦元年の創建と云われ旧和田村ですが、庄内を度々移転したと云われ、梵鐘は木山寺に移され、その後、昭和の大戦に供出されてなくなりました。

  梵鐘の銘文
 備前国津高郡長田庄中村牛頭山鷲林寺
 新撰鐘此方教体以音聲為佛叓天下
 叢林以禮楽為清規爰有耕然黙主
 比丘尼理常明此理故忽以年来所持天神
 筆之金字法萃経一部施入當寺令僧
 道林普化一字一銭少縁頓成千均大器
 可謂願力所全大切不奇寅夕鏗々扣
 推良哉依此上善々々祝延皇国万歳儒
 日増輝本寺両檀那益昌家門繁栄山門
 弥堅開山基業三途八難盡脱輪筈法界
 有情同證圓通仍唱伽陀以當銘記矣
 七軸金文較半銭 千鈎重器鎮長田
 聞聲悟道不寄特 驚起牛頭峰頂眠
 幹緑比丘 道休

 大檀那  藤原朝臣伊賀左衛門尉頼兼
         前伊賀太守沙弥直兼

 當寺比丘益極在宥謹誌
  太歳  明徳二辛未十一月日

これは、南北朝の統一となり五十九年間の争乱の時代も終わり足利義満の専制政治が始まる最も足利政権が充実した時代の幕開け頃で、備前長田庄は鎌倉時代以来、地頭職として任官する伊賀氏の領地であり、皇室御領として安定した地域で、伊賀頼兼は有利な立場にあり、この銘文はその頃の頼兼の意志を表明しています。

「地頭」と書かず一地域ではなく長田庄全体の領主としての立場を宣言しています。


一方、弟の直兼は伊賀家本貫地である伊賀の国の太守でしたが、南北朝五十九年間の戦いで荒廃し将軍近侍といえどもその領地は安全とは言えず、南北朝の動乱により、事実は将軍、天皇、護良親王などの御教書濫発によって領有は名目上のものとなってしまいました。鎌倉時代よりの領有で太守といえどもどうにもなりませんでした。

虎倉神社 (虎倉城日月宮)

応仁から文明にかけての頃、乱世に対抗するため、堅固な城地の必要性から虎倉城築城がおこなわれ「小倉」の地名を「虎倉」と改め、伊賀一門の主城として構えました。
その規模ははなはだ広大で何千何万もの兵を収容するに足りるもので、天然の峻険な山容が安易に近付くことを許さない非常に堅固な要塞です。しかも、外郭を東は宇甘川、西は加茂川の流れで天然の外濠とし、備前備中美作の交通の主要路を押さえる重要な土地でした。
城地の鎮守として摩利支天社、天神社愛宕勝軍地蔵を祭祠しました。
兵庫頭行隆は晩年にいたり、隠居し道印と号し、伊賀(服部)伊勢守勝隆が相続しました。

文明三年(1471)城地東方の鎮守として虎倉日月宮を創建しました。
後、大永七年(1527)伊賀久隆の時、虎倉神社と改称し甲冑一領旗章六流寄進しました。更に後年、元和八年には、虎倉城の忠臣三十七人の霊魂を合祀しています。
 尚、虎倉落城後も正月には甲冑を帯し、槍刀弓矢を携え虎倉城に上がり弓始めの式を行っていたと伝えられています。

領内各神社への領地寄進

加茂総社宮記に
「大永年中時の地頭虎倉城伊賀左衛門久隆公より祈願として本社未社等建立し、祭礼元の如く加茂八社神興観式を為す、神領百石を宛行う」
とあり、すたれていた加茂大祭を復興させたのは大永年間でした。

  リンク

You Tube 加茂大祭 奴踊り 棒使い
http://www.youtube.com/watch?v=Jjh6OJcM9No


   
   You Tube 加茂大祭 ダイジェスト
http://www.youtube.com/watch?v=xEs8IBl-PnU


 伊賀久隆は信仰心が深く、領内各神社に神領地を寄進しました。
 正徳三年の記録では各社以下のとおり神領地を所有していましたが、太閤検地以後、これらは取り上げられました。
  総社宮  三十六丁
  天王宮  七丁八反
  八幡宮  七反
  天満宮  七反
  其の他 十社
  刀、槍等の奉献多数

この信奉を見ても正に武に生きる者の宿命と緊張、生へのあくなき追求と絶対に負けられない命をかけた勝負の定めをつくづく感じさせられます。
  摩利支天は武の信奉として、木山寺(家久も奉献)は勝負運の寺として有名です。


 化気大明神は、伊賀氏の氏神として尊崇され、元は本宮山山頂にありました。
 
   祭神   神武甕槌神 経津主神
        天児屋根命 姫大神
と申伝ふるに依り故に御祭典に御供奉申候
 氏神春日大明神と申伝へ古に「イザサオウ」と申伝ふる白き鹿に乗り神瀬村へ御越しましまして来ます申伝へ鹿の角御座候
 其の後、虎倉城主伊賀様御代までは神田四十五畝並びに畑五反五畝御付被成候、御宮奉行には鈴木半之助殿と申伝を被為付其屋敷今に御座候、伊賀様づくしへ御越し被為成候、太閤様御代に神田被召上げそれより今に御納付仕候得共其地作穂作入りより少しづつ差上申候  云々

 この化気神社の祭神四柱は、奈良の春日大社と全く同じ祭神で、藤原氏の氏神であるところから特別崇敬して宮奉行をつけ神田を寄進し、鎧具足を奉納しました。


 円城寺
  元は本宮山頂に気喜神社と共に祀られていましたが、弘安年中に現在地に移り、円城寺となりました。

  十六の僧防があり 寺領  三百貫

  伊賀久隆、円城寺を造営しその棟札に
   願主  権律師隆知  元亀二歳辛未四月吉日
  大檀那  伊賀三郎五郎 藤原久隆
  大工作主 藤原弥六左衛門

清水寺

天文十三年、伊賀久隆公は備中湯山の清水寺を再建造営しました。

 備中下竹荘湯山龍角山清水寺勧学院縁起

「敬白 勧進沙門修造備中国上房郡龍角山清水寺本堂、仰当山者比叡山之末流仁安三年大檀那平相国清盛公草創也、彼本尊大慈大悲観世音菩薩出大唐天台玉泉寺而鎮座於此地、以来運歩人隆除三毒難、正和五年国主再建焉侶磐若坊法師、又応永十八年安芸守沙弥掃部助修理之、又天文十三年備前小倉城主伊賀左衛門尉久隆公傾首霊前因茲為治国利民再建之…………」

このように、伊賀久隆は神仏への信仰が厚く神社仏閣の再建も積極的に行っています。

また、清水寺には丸山城主末裔の墓があります。

  湯山清水寺の伝説によれば、江戸時代初期、備中国住人で伊賀氏の末裔、吉川四郎左衛門久直の一子角太夫久益は、一族菩提のため二十九歳で入信、一心に仏道修行し、延宝四年六月十三日より断食の行に入り、七月四日、寿七十五歳で入定したと伝えられています。
  大信入戒知蔵禅師

日吉神社

天文十八年(1550)、伊賀久隆が日吉神社を再建しています。

天文十八年巳酉二日九日日吉山王棟札
 御津郡津賀村大字下加茂 日吉神社
  用材  松板棟札
  寸法  堅三尺○三
      横五寸五
      釼先高七分

表敬白奉造立棟上日吉山王社後宝殿
 御本殿家益伊賀藤左ヱ門尉同若子様
 御立願解同脇本願高屋俵兵衛尉重国判
  同敷地四至傍事重谷之内前ハ谷河限り
  山は南はやけをのはなを限り
    東は日吉谷中をのはなを限り
    北はまさ谷限
    同備前国長田庄大工  藤須弥六左ヱ門
           小工  藤須新次郎

     千時天文拾八年季配上莚始二月九日同三月二十三日癸己舜有謹言


 日吉社祝札天文拾八季三月廿三日
           癸己日
    本願者  高屋俵兵衛尉重国判

藤左ヱ門とは、藤は姓、左ヱ門尉は官職名で藤原左ヱ門とは伊賀左衛門尉久隆の事です。
この棟札から、伊賀左衛門尉久隆にはこの時若子が生まれているのであるが、この子は伊賀与三郎隆家(のちの家久)ではなく虎倉相続もしなかったとする考えもありますが、素直に伊賀与三郎隆家(家久)であると捕らえる方が自然ではないでしょうか?

  なお、日吉神社の境内拝殿の右、神門寄りに五葉の松があります。
  周囲目通り八尺三寸、高さ百余尺、樹姿約三十尺の処より五板を分かち、真立す。樹齢四百余年、近隣に比類なき銘木なり。里人この樹の由来を伝えて曰、
  大永七年正月伊賀藤左ヱ門尉備前赤坂郡鍋谷村より虎倉城に移るや、居城乾方の鎮守として日吉神社を崇敬し、男子の神授を立願し、この樹を奉植したるに幾許もなく、長子三郎五郎虎倉城に生誕せり、よってその奉賽のため天文十八年春、父子の本願を以て社殿を建立奉献す。

円城寺 造営

円城寺本堂棟札

 願主   権律師隆知元亀辛未四月吉日
 大檀那  伊賀三郎五郎藤原久隆
 大工作主 藤原弥六左ヱ門

この頃の備前の構図は、
 織田と浦上氏と結び、織田と出雲の尼子氏が結ぶ、
 その尼子氏に美作の三浦、後藤、備前の伊賀、宇喜多が結ぶといった状況でした。

この頃(元亀二年)、宇喜多直家は岡山城を築城し、虎倉城伊賀久隆親子も岡山に居館を構えました。


ちなみに、織田信長の伊勢長島一向一揆の鎮圧(1574)には、織田軍の将として、伊賀伊賀守の事蹟があります。
この伊賀氏は、美濃伊賀氏を祖としています。
 伊賀光宗の弟、光資が美濃国の稲葉山城に居城して稲葉氏と称し、その子孫が美濃、尾張に栄えたものです。

    伊賀朝光―――――光季  常陸伊賀氏
          |
          ―――光宗  備前伊賀氏
          |      奥州伊賀氏
          |
          ―――光資  美濃伊賀氏
                 稲葉伊賀三郎左衛門尉入道

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