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宇喜多直家、伊賀家久に毒を盛る!(Twitter投稿まとめ)その一

ツイッター投稿のまとめです。



天正六年、宇喜多氏は毛利氏の先鋒として上月城に出陣。信長は秀吉に四万余騎を与え出陣。
しかし、信長は八万の援軍を明石から進めず秀吉に退陣を命じました。
そのために、尼子氏は滅亡、山中鹿之助は捕らえられて高梁川阿部の渡しで討たれました。

この合戦には、伊賀氏も毛利方として出陣しましたが、宇喜多直家は「病気になっちゃったんだよね。久隆ちゃん、たのむね」って軍勢だけを送り自分の軍勢には「目立って先に動いて秀吉ちゃんの機嫌をそこねたらいけんぞ。じゃあね、ガンバ!」と送りだしました。

直家「必死で頑張って、秀吉ちゃんや信長さまの機嫌そこねたら、えらいこっちゃ」
「やっぱり、義昭公より、次は信長さまの時代じゃろう。毛利についとっても危ないかもしれんから、隠れて様子を見とこっと」

直家「ヒィエー!。やっぱ、秀吉は怖いでえ。火ぃ付けて生きたまま焼き殺されたらたまらんけんのぉ」
「はよ~、信長に取持ちをたのんだほうがええなぁ」

直家「信長に取り入ろうとしたら、また、あのクソ堅い伊賀久隆が怒るわな。」
「あいつが毛利と一緒に攻めこんできたら、大変じゃ。」
「あいつは、ケンカ強いし、土地もよーけもってるし、わしが体力のーなったら、八郎ではやられるかもしれんから、今の内になんとかせにゃぁいけんなぁ」

直家「えー事、おもいついたわ。あいつが、岡山屋敷におる時に饗応するとゆうて城へ呼ぼっと。」

「久隆ちゃーん、上月城はお疲れ!俺、いけなかったからお詫びと祝勝会かねて、食事会するからきてね!」



伊賀久隆「直家から饗応の誘いを受けたが、危ないわなぁ~。」
「世間ではみんな、宇喜多は毛利(将軍義昭公)を裏切って織田に近づこうとしているって言ってるし、、、。」
「それでも確かめんとどうにもならんからいってみるとするか。」

直家「久隆ちゃん、出来るだけ、虎倉城の重要どころも一緒にきてぇよう。」(そーしたら、一気に片がついてうれしいもんね)

直家「久隆を饗応に誘って虎倉城乗っ取りの段取りはできたけぇ、はよう小西寿徳を通じて秀吉ちゃんと信長公に周旋の段取りをすすめようっと」

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宇喜多直家、伊賀久隆に毒を盛る!(Twitter投稿まとめ)その二

そして、天正六年九月、岡山城(石山城)


浮田忠家
「兄(直家)殿、久隆殿の妻はこの宇喜多の出なれば、事を荒立てず仕舞するためには、私の謀りといたしましょう。幸い、家臣の難波半次郎という者が毛利方に内通し情報を送っております事をつきとめておりますのでこれの仕業といたします。いつも、久隆どのには子供扱いされるけれど、今回は」


直家 「久隆ちゃん、よく来てくれました。僕を信じてくれてるんだね。これからも一緒にがんばろうね!」

忠家 「久隆殿、ささっ、奥へどうぞ、ずーっと奧側へお席を用意して御座います。どうぞ(出にくい方へ)」

直家 「今日は精いっぱい、特別な料理を用意したから、充分に食べて行ってね。」

   「もう少しで用意できるけえ、もうちょっとまっとてえよう」 ゴソゴソ、、、。


襖を隔てて、囲む家来
  「合図があったら一斉に斬りこめとのご指示じゃ。今日の褒賞は大きいらしいでぇ~」

  「相手はだれなら」

  「なんでも、今日のお客は伊賀久隆公らしいんじゃけど」

襖の奧直家の家来
  「あの人は先の虎倉合戦の時も直家様は、わざと後詰せんと毛利にやられるように仕向けたんじゃけえど、つえ~から、虎倉の連中だけで毛利をやっつけてしもうたらしゅうて、それで直家様はどうにかして力を削ごうとしとるらしいで」

  「とにかく、今日は褒賞がおおきいけえはりきるで」



伊賀久隆 「おいおい、早速囲んでくれてるじゃねえか。殺気むんむん。」


  そこへ本日の料理を担当した料理人が密かに
    「今日の料理には毒が入っております。解毒剤を服用下さりませ」
      と告げました。

伊賀久隆 「おいおい、今日早速ここまでやるか。」

     「直家が仕組んだなら、ぬかりはなかろう。」
    
     「今ここで解毒剤をのんだ事をしれば、斬りこんでくるであろう。」

伊賀久隆 「切り結んだとして、仮に逃げ出せても、(伊賀)家久はこの状況を知らない。直家はすぐに家久を狙うだろう。」

     「家久も知らないで不意に襲われると対応できないであろう。それはさけねばならん。」

伊賀久隆 「この場で首をくれてやる事はできん。かといって、家久への襲撃もさけねばならん。」
    
     「ええい、どうせ人間一度は死ぬ命。武士としてはいちかばちか毒を食んでもこの場を逃れ、虎倉に戻って一戦交えようぞ。」



伊賀久隆 「今毒を解きて難を免るるとも迚も生きては置かれまじ。終に死なん命、城に籠りて討死にする事こそ本望なれ」
     と戦国武将の気概、死生観をみせました



伊賀久隆 「私が饗応に応じて時間を稼いでいる間に、家久に虎倉城へ帰城し身の安全を確保するよう伝えよ」

    隙を見て沼の城に出向いていた家久へ伝令を送り、無事に家久を虎倉城へ帰城させました。


直家 「ささ、久隆殿、一献いかがかな。」

久隆 「おお、かたじけない。馳走になろう(わっ、これ備前焼の二層徳利じゃねえか。)」



伊賀久隆 「本日は接待頂きかたじけない。虎倉は山故日暮れが近いでこれにて失敬させていただこう」

      門を出た久隆と家来の後を宇喜多の草が隙あらばとねらうが久隆は早馬を立て虎倉へと急いだ。


伊賀久隆、虎倉城に戻り急いで城の門を固め宇喜多の襲来に備えた。
    
     「虎倉でやるなら、直家の勢力といえども、簡単にはやられる事はない。」


直家 「虎倉城に攻め込むのは危ない。あんな所へ攻めたらこちらの被害も相当覚悟せんといけんし、時間も相当かかってしまう。久隆殿が毒を飲んだのだから勢力は弱まるはず。様子をみよう」



伊賀久隆 「さすがに私も、毒のために体調が悪い。」
     
    「与三郎よ。お前に家督を譲るから、伊賀家久と名乗り、虎倉城を守れ。官職は私と同じ伊賀守、左衛門尉が与えられるようにたのんでおく」



天正七年三月、

伊賀家久 「父上、少しお体がよくなられた様子なので、狸狩りでもして、狸鍋でもして精力を付けましょう。」



伊賀久隆 「ぱく、ずずー」
  
   「狸汁はくさいのぉ。鹿にしようぜ」さしずめ今なら、虎倉はイノシシだね。
  
伊賀久隆 「ウッぷ」

虎倉城家来 「一大事じゃ、殿が血を吐かれましたぞー。」


  伊賀家久はすぐに父のもとに駆け付け看病しましたが、昨年の毒の影響から亡くなってしまいました。


  家久は、父の死を知られると宇喜多が虎倉に攻めてくるとして、城門を固く閉じて臨戦態勢を整えました。



  虎倉へ偲ばせていた草からの一報により久隆の死をいち早く知った直家は、見舞いと称し浮田源吾兵衛に50人を付けて虎倉の様子を伺わせましたが、伊賀家久は城を閉ざし、受け入れませんでした。



直家 「久隆殿が亡くなったとあらば、与三郎はまだ若いゆえ、虎倉の勢力も落ちよう。これで、羽柴殿の後押しがあれば、八郎の時代も宇喜多家は安定できよう。」



直家「この件(毒盛り)は久隆公毛利に内通のために仕方なしとせえ。義昭公の命により、毛利と通じているのだから通じている事は事実。むしろ、こちらが裏切って織田に通じているのが真実なんだけど、、、。」

ツイート投稿まとめ 備中高松の役と其の後

kagataro‏ ツイートでほざく!

家久危うし!「備中高松城戦とその後の苦悩」



天正十年、備中高松城の攻防は東西十数万騎が対峙しましたが、結果は周知のとおりとなりました。この戦いの際、伊賀家久は宇喜多勢の進出を食い止めるため、上高田の忍山城を本拠とし、南に延びる山稜に砦を築いて頂上を急角度に削り大井の北方まで一大防衛線を構築しました。


更に、備前備中の国境の十二本木、日応寺などの出城をも強化し防備を固めました。虎倉城も塀を高くし矢倉を強固にして対応しています。 毛利勢としては、大勢力の動きがとりにくい高松城より北の忍山はら本陣山、虎倉あたりでの対戦を想定していたのではないでしょうか?

虎倉は、毛利勢自らが苦い経験を持つ攻め難い地形であり、地形を生かした戦略を立てやすく、大勢力の動きを封じやすい事が挙げられます。秀吉側も先に調査して忍山周辺から虎倉あたりではなく、南の平野部で決戦を誘導したのかもしれません。

ともあれ、高松城の決戦は信長の死によって終局は意外と早くおとづれ、清水宗治の切腹の形をもって終了しました。


高松戦後の織田氏と毛利氏との講和条件のなか、伊賀家久にとっては大変都合が悪く、東西境界線を、山陰では伯耆八橋川、山陽では高梁川とすることでした。

織田と毛利の高松講和条約は信長の死によって空文化され実施されませんでしたが、天正12年になると秀吉は兵庫以東を統一して天下を掌握し、毛利方に先の高松条約の実施を強く要望してきたのです。

毛利は、この条約は織田との締結であり、秀吉との締結ではないと抵抗し、東西の分割線を高梁川より備中国境とする事で合意しました。それにより、備前美作の諸城請取りに蜂須賀彦右衛門、小寺官兵衛の両名が接収をして回りました。

その際、秀吉は草壁氏、伊賀氏等には充分気をつけるように指示しています。

そして、伊賀家久は、遠くで決められた条約により所領を失うわけですからこれは当然納得できるものではなく、一時期は虎倉城に籠り徹底抗戦をする行動をとりましたが、妻の父である明石飛騨守より説得をうけました。

秀吉より交戦するなら干殺しにせよとの指示が出されており、意地で籠城しても虎倉城一城ではいずれ結果はみえている事、長田庄を長期の戦火に巻き込む事による住民の災難等から、明石飛騨はその立場から宇喜多勢力下になっても長田庄の後国の保証をしたのであろうと思われます。

伊賀家久は明石飛騨の説得を受け入れ、毛利方から大井五カ村、吉川、山ノ内等をあてがわれましたが鎌倉以来の長田庄、美作、備中竹ノ荘等を失う事となりました。また、虎倉将士は従来毛利と戦ってきましたので毛利に下る事をよしとはせず家久を諌めましたが聞き入れないため、登城しなくなったそうです

伊賀家久は虎倉城を出て、備中吉川に仮住居を構え、城は忍山城を主城とし、大井方面を収めました。忍山城は虎倉城と隣接した備中側にあり、その昔虎倉城の支城の一つで規模の大きい堅城です。

天正十三年三月、平秀吉従二位、同年七月、藤原秀吉ついに従一位に叙され実質天下人となりました。征夷大将軍従三位義昭は秀吉より一万石を贈られ和して将軍職を辞したのです。

守るべきもののなくなった状況秀吉の代官黒田官兵衛らの折衝によって備前備中の境界線は破棄され、高梁川を原則とし、備中松山城および竹之庄西半分を毛利氏とすることで決着しました。

このため、伊賀家久は、江戸時代換算で約20万石の所領から、高松戦後3万石あまりとなっていましたが、それも失い、従者数名を伴ったのみで芸州へ赴きました。まことに淋しい出立でした。

伊賀家久は幼弟太郎次郎を神原惣右衛門に預け、これが後の神原太郎右衛門久良となります。其の時、家久はこう詠みました。

 消えて行く淡とも今は身一つの心尽しの末の浦波

時世の移り変わり、時の盛衰とはいえ祖先以来、将軍家家人として主臣一体となって心魂を砕き、備前国に虎倉城ありと天下に馳せた高名も今は夢故郷を捨て、家を捨て、身命を賭して忠節を尽くし、豪勇で知られた家臣団をすてわが身一つで西下する心境はいかばかりでしょう。この句は心境を物語ります。

この伊賀家久の西下を以て、鎌倉幕府以来三世紀半に及ぶ備前長田庄伊賀氏は断絶したのです。  伊賀氏は鎌倉幕府、室町幕府ではその創設以来御家人でしたが、その盛衰は領幕府の消長に左右され浮沈を重ね、その最後も将軍義昭の辞任と時を重ね、足利幕府と共に消え去ったのです。




その他 虎倉関連ツイート抜粋


>「伊賀氏」の存在も虎倉城も県内でも非常に薄くなってきていますね。私も、金川などに教えて欲しいと、お話しましたら「こんな地元のマイナーな城、人なんか、、、」と言われましたし、急に、「高齢なので体調が、、、」などとお相手して頂けない現状です。

>ネット上で「虎倉城」をみたら、いつのまにか松田氏が築城したり、金川城の支城って事になってるよ!地元の御津町史でもすでに、史実が無茶苦茶になってる!鍋谷城のみにとどまらず、本城虎倉まで、松田に占拠されたよ(;一_一)


>虎倉城本丸入り口の石段は「なぜあんなに鋭角で危ないの?」って聞いたら、「昔はわらじで、もし、攻め込まれた時、走りこめないように」だって。


>金川の歴史資料館に「虎倉物語」を聞いたら、備前軍記以外は知らないらしく会話にならなかった。


>今では一般の人はもちろん地域史に関わる人さえ、そこに城があったとは知らない人が増えました。まして、忍山城の周りには、鎌倉山、十二本木城、本陣山、勝尾山等ありますが人の入りがなく寂れる一方です。虎倉城でさえ地域の方が高齢になり上がれないとの事です。



この時代を考察し推測しますと、伊賀家久および虎倉城は「毛利にも付きたくはない」し「宇喜多への鉾を収める」のもしたくない。苦境のなか、家久は備前、備中の境目に勢力を持ち、その昔から、近隣在住国人と協調安定をはかって歴史からも地域の反宇喜多勢力を結集し、浦上家の残党などと組んで在住安定圏内を構築しようとしたのではないだろうか、と考えます。むろん、毛利等の勢力の協力なしには為し得ないでしょうが、、。明石飛騨に相談し拡げようとしましたが、意に反し、明石飛騨の実行を得られなかったのではないか、逆に明石飛騨より、「後は心配せず任せる」ように説かれ、毛利に下ったのでは、、?などと。

備中の国人精力=反宇喜多、浦上残党の行方と勝山勢、後藤などの動き、明石飛騨の勢力圏、伊賀家久の赤磐、美作方面への勢力拡大、などをみますとそのような動きがあったのではと思われます。これだけの勢力が何もせず、むざむざと領土を明け渡す事はどう考えても、常軌を逸しています。
たぶん、家久は織田の情勢も力も判っていながら、宇喜多に対し意地を通したのでしょう。

家久が意地を曲げるなら、たぶん宇喜多の中で存在できたのではないかと思われますが(一応家久の母は宇喜多ですから)、それをさせなかった家久の心は悲しみの句に現れています。

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