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堅城 虎倉城



虎倉城は旧宇甘西村大字虎倉の山上にあります。
宇甘渓を経て、加茂、竹庄郷への入り口にあたる。懸崖絶壁に守られた要塞の城で中世の典型的な山城です。
麓の市場部落より攀路十町にして城址に達すると記録されています。(私家本 虎倉城 伊賀氏一族より図面を流用及び参考に書き改めています。)
以前は虎倉より字九折の四十曲を越え加茂路鹿落としの険路を経て加茂郷へ通じていました。
 城は、まず虎倉の市場から取りつく処、搦め手の峻険であるが、此処はさけて、市場から道を西にとり九十九折坂を登りつめると九十折部落に達します。ここには馬乗場、鍛冶場観音寺跡そして右に廻れば大手があります。
此の広い台地をめぐって塹壕があり、大手門、侍屋敷、平時居館跡などがありました。瓦焼き場、出丸跡を右に南行すれば三ノ丸歓喜山に登ります。此処に天保四年三月建立の供養碑があります。虎倉城に関係のある末裔の人々によって建てられています。昭和五十八年、天保の碑が風化するのをおそれて、ゆかりの人々によって新たに碑が建立されました。

高三尺、尺一寸角の石碑に、正面、「妙法伊賀氏長船氏御先祖代々並諸侍之霊」と記し、側面「天保四年癸己三月十六日伊賀家所縁の者多力建立」世話人当村河原直左エ門友貞周左エ門とある。台石に寄付者数十名を記す。毎年三月十六日、上房郡吉川村伊賀氏来りて供養をなすと。(岩田村誌より)

歓喜山から南へ空濠(長さ百二十間)、二の丸の上に本丸跡があります。頂上は平坦で古い巨樹が繁り、多くの屋根瓦が散乱しているのをみれば、大きな天主がそびえていた事を忍ばせるものです。
火薬庫、食糧庫、鉄砲もたせ跡を経て東南崖の先端に小さい祠があり、城主が摩利支天、天神社、愛宕勝軍地蔵を祠ったといい、中に宝劔を存しています。
搦め手の側、本丸を下ると竹藪の中に大井戸があり、現に清水が湧いており城中の飲料水となったのです。

下加茂へは白坂道があり、上加茂へは三宅坂があります。
俚謂「きょうと恐ろし白坂夜路、川の瀬の音、鹿の声」

 伊賀氏四代城主がこの天嶮によって堅固な要塞を築き、岡山県中部の雄として文明から永禄、元亀、天正の動乱をよく戦い、左衛門尉久隆公の治世、最も盛んで十八万石とも二十万石ともいわれ、虎倉城の麾下の城二十城におよぶといわれます。
正に史上の光彩と云うべきであり、ある歴史家は「久隆、器字宏大、名将たるの資を備え威風を望んで来り投ずる一騎当千の士、その膝下に満ち、遠近の城砦ことごとく彼に雌伏した、、、斯くて久隆の鋭鉾、、、宇喜多直家をしのぎ遂に直家が嫉妬の毒にたをれるに至った、、、」と書いています。







これより先、永禄、元亀の間、今川義元を滅した織田信長は、京都への道を着々と切り開いていました。
武田信玄、上杉謙信もまた同じく京都での覇を夢見ていたのです。
まして、中国地区の覇者毛利氏が手をこまねいて見ている筈がありません。
備前美作の宇喜多、松田、伊賀、後藤各備前美作勢の盟約は堅く、毛利氏麾下の松山城三村氏の度重なる備前、作州への侵攻も功を奏さず、毛利氏はついに毛利輝元自身総大将となり、虎倉城攻略の兵を進めたのです。天正二年四月の事です。
毛利は大軍を三手に分け、一手は大井方面で宇喜多軍に対峙し、一手は竹ノ庄へ、一手は有漢から作州へ攻め込んだのです。毛利軍の進む処何の障害もなく、虎倉方の出城は瞬く間に落とされてしまい、虎倉城目指してひしひしと迫ったのです。
虎倉方は麾下の城を敵の手に渡しつつ虎倉の城へ引き上げ、それぞれの配置について毛利軍を引き込んだのです。
下加茂から上加茂を囲む山々に鉄砲隊や選りすぐりの兵を待機させ、安易に城を落とし勢いにのる毛利軍が下加茂の谷間から虎倉城めがけて押し寄せるのを「頃はよし」といっせいに打ってかかり、毛利勢をさんざんに打ちのめしたのです。毛利の将十名が首をとられ、兵の死するもの数知らずとこれを「加茂崩れ」と呼び伝えられます。

こうして、毛利氏を破り勢いを以て「備前に虎倉あり」と勇名をはせ、上月城戦等に出陣しました。
しかし、織田信長が将来天下人になるであろうと予測した宇喜多直家は、播州戦には一度は出陣したものの、その後は出陣せず、羽柴秀吉に意を通じ信長への取り持ちを依頼しました。
この時、世上には宇喜多直家の毛利氏離反の風評は流れていたので、身の危険を感じた直家は、岡山の出入り商人小西弥九郎に依頼して堺の商人小西寿徳を通じて、信長と秀吉に周旋を頼むとともに、直家が織田氏に従った時、最も障害となるであろう虎倉城の乗っ取りを画策したのです。
将軍を保護する側に立つ毛利氏から離反する事は、直ちに毛利氏と虎倉城の軍を引き受ける事になるので、先ず虎倉城の勢力を剥ぎ、この城を自分が取りこむ事が我が身を守る最も重要な事となったのです。
そこで、伊賀久隆毒殺を企てるのでした。久隆ほどの者であるから、事前に腹の中は承知した上で直家招待の席に臨み、直家の本心を確かめたものと思われます。
直家は計画通り、事を運んだが、伊賀久隆は危うく逃れ、与三郎も虎倉城へ無事帰城する事が出来たのです。これが、天正六年九月の宇喜多直家毒盛りの企てです。
これによって、宇喜多氏の毛利氏からの離反は確定したので、毛利氏と伊賀氏の宇喜多討伐戦が始まる事になったのです。
一方、直家は、運よく天正六年十月信長に謁見を許され、信長の執奏によって従五位下和泉守に叙せられました。
この直家離反によって、毛利氏東上の軍は大きく阻害され、播州路から撤退し、宇喜多氏攻撃の戦いとなったが、その前哨戦として忍山城攻撃となったのです。
毛利の兵三万とともに忍山城を攻撃して奪い、宇喜多春家の守る金川を攻め五十余騎を打ち取りました。
天正七年三月十六日、伊賀久隆公が病没し、伊賀与三郎隆家が虎倉城主となり、伊賀守左衛門尉を叙し伊賀伊賀守左衛門尉家久と称しました。
天正十二年、高松の役和睦の後、豊臣秀吉は事実上の天下人となりました。
秀吉は、蜂須賀彦右衛門、黒田官兵衛の両名を備作の地に派遣し、城を接収せしめました。
京、芸の境は備中国境となる事に決定。
ついに、虎倉は恨み多き宇喜多の手に渡る事になってしまったのです。
伊賀家久は備中大井荘、山ノ内、吉川を与えられていたが、国境が高梁川となり、それも召し上げられ、天正十三年二月僅かばかりの従者を連れて防長へ西下したのです。
宇喜多秀家が備前の領主となり、その主席家老長船越中守が虎倉城主となって三万七千石を領しました。
天正十六年正月五日、城主長船越中守を招待した酒宴の最中、突然銃声が鳴り響き、越中はその場で殺され、訳の分らぬ混乱の中、お互いに抜刀して切り結び混乱となり、やがて矢倉より出火焦土となったのです。
伊賀氏四代によって栄々と築きあげられた虎倉城も謎を秘めた劫火によって焼け落ちたのです。
時に天正十六年の事です。
虎倉記によると家老石原新太郎が銀山を私欲化し、私腹を肥やしていたことが長船備中守にわかった事が発端だということです。
天正十六年正月、虎倉城は三日三晩燃え続け灰儘に帰したのです。
長船越中守の息子紀伊守は父の後をついで虎倉城主となり、三万七千八十四石を領し宇喜多氏の国政を専断するまでに信頼を得たが、宇喜多家家中騒動の時、戸川、浮田、花房、岡などの老臣と対立し謀殺されました。
その後は紀伊守の弟、長船吉兵衛が相続し、二万四千八百石を知行しました。
関ヶ原の戦の後、小早川秀秋が備前の城主となり、松野主馬が虎倉城番となったが、秀秋の不法が止まらず岡山を去り、後、組頭、蟹江彦右衛門が預かっていたが、これも備中へ去り、同じく組頭鎌田五郎兵衛が在番し、慶長七年、小早川家断絶。
元和元年、一国一城制が行われ、虎倉城は破却されました。
以後、今日にいたり、訪れる人も少なく、地域の方々も高齢化し、維持管理は難しい状況となってきています。
地方のマイナーな城が実は史上に大きな意味を持ち、重要な拠点であったにも関わらず、時代の表舞台に現れず今さびれゆく姿は、今を知る若い世代の想像、認知、評価をはるかに超えた史上の光彩であったのです。
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