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文明期の備前国 ―― 福岡合戦 ――

応仁から文明の頃の備前国について、
 「備前国は元来赤松の国なりければ政則入国を悦び民間にかくれし兵士時を得て、鹿田、菅の一族隊長となりて一揆を起し、福岡へ討入り是を攻む。松田権守元隆も浪人にて居たりしが打って出で新田の庄を取り固め福岡へ寄せんとす。(中略)政則勲功の侍に賞を与へ、昔の如く三石城に浦上則宗を置き、守護代とし、松田権守元隆も以前の如く伊福郷を領して、富山の城を築いて、是に置て備前を押へ国中を治め云々」

 備前国の動向は、主家赤松氏に代行して備前守護代浦上氏が上洛、赤松氏は京都より本国播磨の小塩城に帰城、備前は富山城の松田氏が守護代として取り仕切るようになりました。そして、文明十二年松田氏は金川に城を移して勢力を振い、赤松氏と疎遠となっていきました。
応仁の乱で衰微した山名氏も再び山陰を制し美作まで進出してきました。

文明十五年(1483)、守護赤松、浦上の福岡城を山名、松田の軍が攻めるという福岡合戦が切って落とされました。
原因は、松田氏が赤松氏に対し、よからぬ振舞があり赤松氏が松田氏の改易を協議していると伝えられ、是に松田氏が反発、「鎌倉以来の領地であり、赤松から改易を申しつけられる所以はない」として、隣国の友党同盟である伊賀氏にはかり、美作院ノ庄の山名政豊、備後の山名俊豊に援助の盟約を取りつけて戦の準備を行い、これに備前、備中、備後、安芸、伯耆、石見などの武士が加わり、その数六千騎といわれます。備中では庄氏、宮内備中守、長田では伊賀氏一族の伊賀修理亮が加わっています。
一方、赤松勢は、備前、播磨の軍勢に野伏も加わり、二千騎の軍勢となりました。
福岡城は邑久郡福岡の吉井川の川中の島山にあり、要害堅固で東西に大河が流れ、近辺の民屋一千余戸を構の中に取り入れ、其の外を二重三重に掘り究極の要害であるといわれる堅城で、小鴨大和守、浦上則国、浦上基景らが守っていました。

京の浦上則宗は赤松政則に福岡城へ援軍を送るよう要請し、赤松政則は福岡城に浦上則景の兵を送り、さらにそれと同時に赤松政則も山名氏の領地である但馬へと出兵するが政則の軍は山名勢に惨敗し逆にそれを追って山名勢が播磨へと押し寄せる事となりました。 この知らせを聞いた備前の赤松勢の士気の低下は大きく浦上則景は福岡城への援軍に駆けつけられず兵を引き返す事になり、また福岡城からも城から政則の元に重臣が逃げ出すなどの事態となったのです。
その混乱に乗じて松田元成と山名勢は福岡城を攻め、50日の籠城戦の末に福岡城を攻め落とす事に成功しました。

松田元成はその勢いに乗じて文明16年(1484年)2月、三石城へ攻めようとしましたが、途中吉井川の東の天王原において浦上則宗に攻撃され大敗し、磐梨郡弥上村山にて討死するという結果となりました。

福岡合戦の結果は、伊賀氏にとっては大きな敗北といっていい結果となりました。
即ち、備中分は友軍参加の庄氏に、美作分は有元氏に譲り、松田氏の赤坂郡を領有し、備前国は浦上、松田、伊賀の三者で分割領有となりました。

 「其ノ後左衛門次子伊賀山城守昌信エ城ヲ相渡ス、従天下其節知行所被替尋、備前国所々三分二被仰附候」(百控)
 これは三者で分割した事をいうが、福岡合戦参戦の諸氏の報酬として、松田氏への友好と義理から自分の領土を差し出して褒賞としたので、結果は伊賀氏の領土が大幅に減る事となったのです。
 宮内備中守は竹荘大原城の神原隆好、伊賀修理亮は伊賀兵庫頭の弟で下加茂鍋谷城城主であるといいます。
 虎倉城は以後、赤坂郡上道郡方面の備えを赤坂郡大鹿滝ノ城に置きました。

福岡合戦のさなか、播州国では、被官浦上則宗、小寺則職以下の有力な老臣が離反し、守護赤松政則を国外へ追放するという事態となり、赤松氏は壊滅しました。
しかし、五年後、領国回復に力を注いだ赤松氏は、播磨から山名政豊を追い出し旧領三国を回復しました。
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牧石の合戦と宇喜多台頭の事

松田、浦上の小競り合いは相も変わらず続き、明応六年(1497)三月十六日、浦上近江守宗助は千余騎を率いて三石城を出陣、上道郡に乱入しました。村々に放火し、御野川を渡り、牧石に陣を敷いて大安寺村の富山城を攻めたが、松田勢に背腹から攻められ敗北、龍口山にのぼり籠城しました。
三石城にあった宇喜多能家は浦上宗助が糧道を断たれ苦戦していると聞いて、その救援に赴き、松田勢の切り崩しを図りました。やがて、松田勢の僅かな油断を突き民家に火を放ち、松田勢が消火に気を取られているすきを図り、攻め立て松田勢を敗走させ、浦上宗助を救出。殿軍を務め、追手の松田の追跡を振り切り、無事、浦上宗助を護衛し、帰陣させる活躍をみせました。
また、明応八年の浦上則宗と浦上村国の同族による権力争いの際において、浦上則宗敗戦の危機に宇喜多能家の言が衆をまとめ危機を乗り切っています。
文亀二年頃は浦上氏も豪勢で、旭川を越え度々西へ進出、対抗し、松田元勝は、出雲の尼子、備後の山名と結び、浦上勢と抗争を繰り返しました。
文亀二年の冬、宇喜多能家を大将とし三百余騎にて吉井川を越え争い、翌三年正月にも牧石河原にて戦い、いずれも松田氏の惨敗、宇喜多能家の縦横無尽の活躍により、上道郡、磐梨軍は浦上氏に落ちています。
そして、浦上氏も主君赤松と争いを繰り返しながら勢力をのばしました。
大永元年、将軍家と結び、赤松氏と和睦して、当時赤松家に匿われていた将軍義澄の二男義晴を奉じて上京し、浦上氏ますます大いに勢力を振いました。松田氏は対抗するため、ついに尼子氏の麾下となったのです。

伊賀久隆 虎倉城主となり家督を相続する事

大永三年(1523)、伊賀伊賀守左衛門尉久隆は家督を相続し、虎倉城主となりました。
百控
「其後大永三年ニ山城守ヨリ次子伊賀伊賀守エ相譲リ其身ハ山城入道ト号ス、伊賀伊賀守久隆儀赤坂郡鍋谷ヨリ虎倉エ罷戻シ籠城ス」
其時の将軍の御教書は、
「備前国長田庄之内加茂同紙工保之内屋敷分(依行 直重 清房 名)等事代々帯御判御教書以下當知行仕之段先祖山城入道昌信譲状明鏡同国所々三分貮者父山城守如合存知時領掌不可有相違之状如件
大永三年九月九日               花押
伊賀伊賀守殿                   」

伊賀伊勢守左衛門尉勝隆(晩年は山城守)は応仁元年頃、十九代伊賀兵庫頭行隆より虎倉城を相続し、大永三年まで凡そ五十六年間、応仁からの続く大乱の中をよくぞ切りぬけ長田の領地を守りました。
伊賀伊勢守勝隆(山城入道昌信)は、三村氏の侵攻などに備え、備中方面を固めるため、竹荘大原の神原氏、藤沢城、大畑城の仁熊氏などと連携した防備強化を目的として、一子左京進を伴い仁熊の藤沢城へ入ったものと思われます。
備前、備中周辺の状況は、浦上氏の東からの度重なる侵入と、備中側においては備中守護細川氏の衰退に伴う備中国人の台頭に伴い、猿掛城の荘氏、成羽の三村氏などが長田庄への進出を伺う様になり非常に厳しい状況となりつつありました。
天文元年(1532)山陰より起こった尼子氏は、勢力を拡大し、山陰を制圧、美作の苫田、勝田二郡へ侵攻しました。これに伴い、西備前の松田氏、伊賀氏は山名氏の衰退に伴い、尼子氏と盟約を結びました。

県下の大勢
当時の県下の大勢は
 一 東備前   浦上氏
 一 西備前   松田氏
 一 長田庄と備中東部美作の一部   伊賀氏
 一 東美作   後藤氏(吉野郡塩湯郷地頭職)
 一 西美作   三浦氏(幕府御家人)
 一 松山城   荘氏(松山城 細川氏守護代)
 

宇喜多和泉守能家(常玖)が島村豊後守に殺害された事

邑久郡砥石山城主宇喜多和泉守常玖と、同郡高取山城主島村弾正左衛門貴則は、共に浦上家の重臣でしたが、常玖は老衰して砥石山城に隠退し、島村貴則は摂津の合戦で討死しました。
 常玖の子は宇喜多興家といい、家督を相続したものの愚昧で物の用には立ちませんでした。そのため島村貴則の子島村豊後守が、浦上家の政治向きをひとりで取り仕切っていました。
 ところが、次第に快からぬ間柄となり、天文三年六月晦日のこと、島村豊後守は、先君村宗の遺命なりと称して、宇喜多氏の居城砥石山城を奇襲しました。
 常玖は、城を枕に自害して果て、浮田興家は愚昧であるうえに臆病であったから、防ぎ戦う事もせず、城を捨てて逃げ出しました。興家の嫡子八郎(直家)は当時僅か四歳であったから、乳母に抱かれてようやく福岡へ落ち延びています。
 宇喜多興家は、父の仇を討つ意志もなく、最初その子八郎と共に流浪して備後鞆に隠棲しましたが、備前福岡に戻り、同地の富豪阿部善定が宇喜多の家臣の縁者であったことから、父子共、善定のもとに身を寄せ隠れ住んでいました。興家はやがて阿部家の娘を妾とし二人の男子(忠家、春家)をもうけました。
そして、天文五年、興家は病没し、八郎直家は叔母や母に養育されました。
八郎は七、八歳までは人並みすぐれて賢明であったが、十歳を越えてからは愚鈍を装い成長したといいます。そして、天文十二年(1543)八月、八郎直家は浦上宗景に召し出され、その側近に仕える事になりました。
その年、十五歳で初陣した直家は兜首一つを打ち取って武功をあげました。翌天文十三年、八郎は元服して宇喜多三郎左衛門直家と名乗り邑久郡乙子村のあたりに知行三百貫の地を賜りました。そして、乙子城の守備を任され戦功をあげ三千石の所領を受けました。
しかし、乙子城主の頃の直家はまだ、領地が少なく兵卒は多かったので、兵糧が乏しい状況で、家臣の者共は皆自ら耕作し、また、近郷へ夜盗、辻斬りなどに出かけて兵糧の調達をしていました。それでもなお不足すれば一カ月に三度か五度は失食と称して絶食し、兵糧として蓄えるなど、あの直家の若き日には艱難辛苦の日々もありました。
其の後天文二十年(1551)、宇喜多直家は浦上宗景の指図により、上道郡沼村の亀山城主中山備中の娘を妻に迎え、備中の女婿となりました。

美作高田城陥落の事(天文十三年 1549)

天文十三年より尼子氏に攻められていた高田城主三浦貞久は、九月十六日に病死し高田城は落城しました。
尼子相手に実に四年の長期籠城の末でした。この戦いで伊賀氏は尼子氏と同盟していたので、城攻めに参加していたものと思われます。戦後、伊賀氏の領地として美作南三郷を支配しています。

河原六郎右衛門 伊賀氏の臣となる(天文十七年 1549)

「出羽太郎より八代の胤河原次郎右衛門、帯刀兄弟二人共義輝公より虎倉城主伊賀殿に預けとなる、備前鍋谷城に在す。」と有漢河原氏系図にあるそうです。(私家本 虎倉城 伊賀氏一族より)
伊賀久隆に仕え重臣となったのは、将軍の意向によるものだそうです。
  備前軍記では
「河原孫右ヱ門は作州寺昌の城主、伊賀殿より寺畠の城を切り落とし、其の節、河原子、六郎右ヱ門並に帯刀二人共虎倉の下葉に罷成、則家老役仰付鍋谷の城御預被置候。」

永禄六年には、三者同盟によって伊賀氏の鍋谷城を去り、毛利氏に移り備中に住んだということです。

尼子晴久 七カ国の守護に任ぜられる事(1553)

尼子晴久は、将軍義輝から、出雲、伯耆、因幡、美作、備前、備中、備後の七カ国の守護に補せられ、これによって麾下の諸氏に夫々功賞が行われました。
伊賀氏の領地について百控は
「右之領地(備前国所々三万)久々違変ナキ所ニ天下ヨリ知行ノ場所ヲ被替仰其ノ後ノ領地ハ備前ノ国ニテハ長田一円、建部一円、紙工、勝尾、日応寺並ニ備中者吉川、竹之庄、有漢、中津井、水田、作国ハ鹿田、栗原、関、一色、田原也   」其の高凡そ十八万石位といわれます。

毛利氏中国西部の大半を制す(弘治三年 1557)

芸州吉田荘に興った毛利氏は、大内、陶、尼子等の中国地方の諸勢力を破り永禄二年(1559)には備中国以西の中国一円を掌握し、朝廷に備中平定の事を奉上しています。こうして、、西国の覇者となった毛利氏が天下を望んで上京を進める意図を持つのは必然であろう事です。甲斐の武田信玄、駿河の今川義元、尾張の織田信長等東国の雄者が夫々に風を望んで京を目指して兵馬を進める時、「毛利は天下を望まず」と東上の通路を拓く軍略を否定する事はありえないことでしょう。また、この永禄から天正年間にかけての備前、備中、美作における毛利の戦い方を見れば、東上の通路開拓は間違いない事実です。毛利氏は、小早川氏を将とするすぐれた水軍を有し、海上においては、瀬戸内から摂津にかけて制海権を握っていたが、陸路の確保はどうしても必要であったのでしょう。

宇喜多直家 勢力拡大の事(永禄二年 1559)

浦上宗景の麾下、邑久郡砥石山城には島村貫阿弥、上道郡沼亀山城には中山備中がいました。永禄二年(1559)の春、宇喜多直家は浦上宗景に、島村貫阿弥が叛いている事を密告し、討ち手を志願しました。宗景は其の忠義を、言葉を尽くして褒め称え、謀をし、誅罰を申しつけました。
宇喜多直家は妻の父である中山備中を酒宴の後、寝所へ向かうところを抜き打ちにして殺害し、城を乗っ取りました。
そして、かねてからの謀り通り、島村貫阿弥をおびき出し切り殺し、砥石山城も乗っ取りました。そして、中山備中、島村貫阿弥の所領の大半をせしめ、宗景の家臣の中でも直家に肩を並べる者はいなくなりました。その後は、宗景の指示を待たず、直家の判断で次々に、城を攻め落とし取り仕切って行きました。

上道郡龍口城に穝所冶部元常が在城していました。元常は金川城松田氏に与していましたから直家は是を討ち取ろうとしましたが、瀧口城は要害堅固な城で力攻めでは損失が増えるばかりです。そこで直家は岡清三郎(岡剛介)を使い、穝所冶部元常の男色につけこみ、殺害させました。主君を失った瀧口城は指揮が上がらず落とされました。
この結果は松田氏にとって大きな痛手となりました。
伊福郷の富山城と金川城の間に楔を打ち込まれた形となり、松田氏も伊賀氏も旭川の水運を利用しての瀬戸内交易が出来なくなり、不便な陸運に頼らざるをえない状況となりました。

文明の初め、松田将監元成が、守護赤松に叛き西備前を治めるようになってから、松田氏と浦上、宇喜多氏の戦いは終わりなく繰り返されました。
しかし、尼子氏が衰えたため、松田氏もまた、勢力を失いつつありました。この形勢をみた宇喜多直家は松田将監元成に和睦を申し入れこれを松田は受け入れました。その背景には三村氏の備前侵攻がありこれに対処するため、松田、伊賀、後藤氏と和睦し四者同盟が締結されました。
以後は浦上宗景の先鋒として左近将監自身も天神山城へ出仕しています。
浦上宗景の命令により、同盟の印として、宇喜多直家の二人の娘は、左近将監と、あと一人は美作三星城主後藤摂津守勝元に嫁ぎました。伊賀久隆には宇喜多直家の妹が送られました。

備中の成羽城主三村紀伊守家親は年来、毛利元就の麾下となって、休む暇なく尼子勢との合戦に明け暮れていました。そのため、自国の防衛が手薄となり、松田氏はしばしば、備中へ兵を出し、領地を侵犯しました。
しかし、尼子氏は勢力が弱まり、僅かに出雲の富田城ひとつ維持するにすぎなくなり、三村家親は本国へ戻り領地を固め、松田氏追討を計画しました。松田氏も宇喜多氏と和議し、備中侵攻を企てていた事をしった三村家親は、先手をとって備前に進出、岡山城を攻め、ついで舟山城を討ち、金光与次郎、須々木豊前らを降参させ備中へ引き上げました。この侵攻が備前勢同盟のきっかけとなったのです。
永禄七年(1564)、先の同盟の結果が功を奏し、瀧口城は奪回されましたが、岡山城、舟山城はいまだ三村氏に奪われたままの状況でした。

三村家親の美作侵攻とその死(1565)

備前国は毛利氏の備前侵攻に備え四者同盟を結んで以来、防衛線がが強化され、三村家親も備前への侵入が思うにならずにいました。永禄八年(1565)三村家親は、勝山の三浦氏と伊賀氏の境目の手薄な落合から津山方面へいったんでて、吉野郷の後藤氏を急襲したが、宇喜多、後藤の連合軍に阻まれ、すぐに備中に退きました。次の永禄九年(1566)三村家親は、前年後藤氏を攻撃して失敗したので、力の弱まった三浦氏の境界線を通り、篠葦城のあたりから南下、虎倉領の垪和郷の東を通り久米郡籾村に押し出し、宇喜多攻撃を行いました。
これに驚いた、宇喜多直家は、当時浪人で虎倉領内備前加茂に居住していた遠藤又三郎、喜三郎の鉄砲上手を抱き込み、籾村の興禅寺の本陣にいた三村家親を、夜陰にまぎれて射殺しました。

この時期、三村氏、毛利氏、宇喜多氏が常に伊賀氏の領地を避け迂回して戦い、攻撃を加えていないのは、足利将軍の御家人、奉公衆、近習の立場からの流れが功を奏していたのかもしれませんが、むしろ、伊賀氏の持つ他にさきがけた火力の力の充実ぶりと鉄砲上手が多く存在していたことから、うかつに手が出せなかった事実があるのでしょう。
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Author:野楽人(のらくんど)

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