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伊賀氏関係諸家(1)

これより、伊賀氏関係諸家について記載いたします。
記載につきましては、直接、各家を伺いお話をお聞きすればいいのですが、幾分時間の都合もあり、出来ませんので、
  伊賀氏自家本 「虎倉城 伊賀氏一族」 発行責任者 円城伊賀家 伊賀清造氏  執筆 仁熊八郎氏
より、抜粋させていただき記載いたします。

いくらかのかたよりもあろうかと存じますので、取り敢えず記載し、皆さま、各諸家のご意見を頂き、後に加筆修正しながら展開していきたいと存じます。

のちのち、各家の伝承、虎倉後の各家としての歴、言い伝え等夫々の御宅を廻るなどして調査出来れば、と考えます。

ご了承のほど、お願い申し上げます。



吉川 伊賀家

吉川伊賀家は、虎倉城滅亡に伴い、虎倉城が宇喜多氏の勢力下となるに伴い、伊賀家久の一門は虎倉を逃れ、備中の辺境、吉川の地に浪居するに至り出来たものと思われます。
最初、千木の地に入り、後に西庄田に移り住んだものです。

もともと、吉川は伊賀出雲守の子孫であり丸山城主である吉川氏の根拠地であり、この吉川氏を頼ってこの地に逃れたものと思われます。
  吉川伊賀氏は、
  伊賀隆家(家久)―― 三郎左衛門昌則 ―― 兵衛尉 ―― 四郎右衛門 ―― 四郎左衛門 ―― 重衛門昌知 ―― 忠昌 ―― 源之丞 ―― 治郎衛門 
  となります。

江戸時代、吉川三庄官の一つとして、苗字、帯刀、裃着用を許されており、有名な吉川八幡宮大祭(当番祭)には神馬を供出する家系でした。

虎倉滅した後は、津山森藩に勤めていたようですが、井原へ転封の際、中老職を辞し農民になりました。
以後、地域にひっそりと隠匿し歴々過ごし、表舞台に出る事はありませんでした。

農に従し、月日は流れその間に、寺子屋をしたりした時期もありましたが、女系で繋いできた系譜となり地域に根付いてなんとか今日まで、吉川の地に過ごす事が出来ています。

大上(おおうえ)としての特記は、
  吉川の地に置いて2度の火災に見舞われています。
  一度は、三太郎の時代に、久米から奉公に来ていた少女が家に帰りたい一心で、家主三太郎が伊勢参りにいっている間に、火を放ち逃げ帰ったそうです。すぐに、飛脚が走り、旨を伝えたところ「西の倉は無事か」と尋ね、無事を告げると「大丈夫。家は建つ」と答えたと云われています。
 私が知っている配置では倉は東にありましたので、其の後いつの時代かに倉も建て替えられたのでしょうね。
  二度目は昭和37年に出火し、全焼したため、土地が高いと水の便が悪いとの理由から、山裾へ移転しました。


  今から数代前、広造の時、広造が神主山で博打を打ち負けて大きな借財を作ったそうです。
  
広造の後はその子慶治が相続し、弟俊造は家計を助けるため、アメリカへ渡り鉄道敷設等に従事し、定年後は日本へ戻りました。

 その時代、大上は貧し、畳ではなく筵を敷いていた時代もあるそうです。
しかし、嫡男の慶治がいましたので一家一丸となり苦難の時代を克服しました。

しかし、大それた事はできようもなく、無難に、静かに、淡々と生活をこなしてきたようです。


 当家より出ている家としては岡山市内花尻に伊賀姓にて一家、他は女系のため他家へ嫁ぎ、他姓となっています。他は県外においては鎌倉、神戸等に在しています。

 現在、私が再び生家に戻り生活していますが、後継は、一人のみ男子で現在、大阪に住しておりますが、吉川の地に戻る事は考えられないでしょう。


中倉(なかくら)は醤油製造をし、商店として一時期、隆盛しましたが、これも現在後の後継の不安を抱えています。


福重屋は、途中途絶え、難波氏より養子継続しましたが、町議会議員等に従事したのち、世代替わりし、安定して今日に至っています。


千木の伊賀家は、現在一家のみとなり、交流がなくなりましたが、後継も地に根付き住居も新築し、安定して生活されているようです。

また、平成に入っての事だと思いますが、道路工事の際、なぜか他家の墓石と同位置から伊賀の名が入った墓石が発見されています。
まだ、別に伊賀姓の家があったのかもしれません。
時間があれば、確認したいと思っています。

以上から、大元に戻り三郎左衛門まで戻れば同じなのでしょうが、後に分かれ、昭和の戦乱頃以降交流が稀になり、現在、吉川の地には西庄田の伊賀家と千木の伊賀家の2系統が存在しています。

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伊賀氏関係諸家(2)

畑ヶ鳴 伊賀家

畑ヶ鳴伊賀家は、吉川伊賀家と同じく、虎倉城主伊賀家直系の家で、吉川伊賀家が伊賀家久の子息、三郎左衛門を祖とし、畑ヶ鳴伊賀家が四郎左衛門清久の子三郎五郎を祖としています。

この三郎五郎はその身分を次のように表しているといいます。(備前虎倉城 伊賀氏一族より)
  『伊賀鶴旨左衛門守末々 百姓藤原朝臣』

これを解説すると伊賀は本来の氏、鶴旨は親の氏。左衛門は父祖の官職名。守は国司の長官の意で、例えば伊賀守、伊勢守、兵庫頭の意味を表し親、或いは先祖がそういう地位にあったという事である。
藤原朝臣は姓で、藤原氏の系を表す。百姓は、現在の職業身分で土地を有し一戸を構えた本百姓の意である。
 畑ヶ鳴の地を居住の場所とした伊賀三郎五郎は、山中深く、只一家を構え祖先の遺芳と鎮守の神並びに祖霊の加護を受け、世俗を絶って、大自然の中に自主独立の小圏城を確立して、自給自足、朝(あした)に耕し夕(ゆうべ)の星辰に恒久不変の宇宙を観じ、自然に任せて恙なく年を送り、代を重ねて天明の頃、七代目岩右衛門に三男子があり、長子を熊次郎、次子を多次郎、三子を栄之丞といったが、長子が相続し、次子三子は新しく夫々一家を起てて住居を構え茲に初めて小部落を形成した。
 熊次郎は学問を志し、医業を修め、又、山役人も務めた。幕末の頃は山役人は多次郎の家の方で行っていた。

この小部落にも、人の世の常なる多少の変遷はあるものの、城敗れてから凡そ四百歳を鬱蒼たる森林の懐深く俗界との関わりを絶って、ひたすら父祖の遺業を継いで、只一朝の夢の如くに過ごして来たのであるが、世の移り変わり、思想の変化、産業構造の都市集中化は農村人口の流出となり、その影響はこの小部落にも例外とはならず、草木の繁茂は次第に部落を侵し、累代この地に骨を埋めて十四世。人それぞれの血と汗によって維持し来た数々の遺畳も、今や大自然の中に埋没し去らん事の遠からざる事を看るのである。

この畑ヶ鳴には先祖墓と呼ばれる墓碑があるとの事。
  銘 白月妙心禅尼
  天正十一年十月  癸末
豊島石製の家型墓標で蘭塔墓と云われる、江戸初期より正徳頃流行した形です。

家久の子四郎左衛門の裔が居住した地に、先祖と崇める女の人といえばその記銘年代から考えて、家久の妻、即ち四郎左衛門の母であろうと考えられる。
また、鶴旨の居館のあった円城横倉の辻屋敷には
  銘 白月円心禅定門
  寛永二年九月
豊島石製の家型墓標で蘭塔墓がある。

この二つは、男女の相違があるだけで、同じ銘を刻んであり夫婦の関係を持つ人の碑であろうとされ、伊賀左衛門尉伊賀守家久の供養碑であろうとしています。
伊賀家久は淋しく西国へ下り見知らぬ他国で慣れぬ苦労の末、病死し、弔う者も無いのを憂いて、一族相集い、父祖の地の屋敷に寛永二年九月塔婆を建立して供養したのではないかといわれる。

伊賀氏関係諸家(3)

田土 神原家

田土 神原家は、伊賀河内守頼氏の弟伊賀出雲守光昌が大字黒土に大原城を築城した事により始まります。
虎倉記に
「伊賀左衛門殿御盃の次第に、一 土井下総、二に鶴旨三郎兵衛、三に神原備中」とあります。
 神原備中、大原市兵衛まで三代大原城にいたそうですが「出雲は老人で、備中川上大幡山にて芸州と共に討ち死にした」との事です。
 天正二年、虎倉合戦の時、神原備中は旗本千二百騎で上加茂八幡山に出陣しています。この戦いで、神原右京は藤沢城付近まで攻め込み鉄砲で戦い、敵将を討取り、感状を受けています。
 「神原惣右衛門足を痛め、歩行不叶旗本に罷在り、御秘蔵の鹿毛の馬給ふ」

伊賀出雲守――備中守益信――右京――市兵衛――惣右衛門
             |
             ―越中(神原宮内少輔)
             |
             ―神原六郎右衛門
             |
             ―吉川刑部


湯山 神原家

  伊賀一族より出て、神原姓を名乗る家は二家あり、一家は田土神原家、もう一家は湯山のお北神原家です。
  天正十三年、第二十二代伊賀与三郎家久が虎倉城を退去した際、久隆の遺児で当時三歳の太郎左衛門久好を虎倉老臣の神原惣右衛門に委ね、惣右衛門が湯山横部に居を構えさせたところから始まります。

  神原太郎左衛門久好は成人して湯山庄屋となり、その孫にあたる神原治左衛門宅益は傑出した人物と云われ、足守藩の士分に取り立てられ、知行百石を領していました。治左衛門は木下藩へ大筒二挺と長柄槍二十本を献上した有名人で、木下様の雨乞いの筒として伝えられているものです。
  同家は、江戸時代中期頃から、湯山庄屋を代々務めた家です。



高倉 新山家

兵庫頭行隆―――伊勢守勝隆
      |
      ――民部輔益忠――兵庫祐益澄――小兵衛
             |
             ――玄蕃祐益義
             |
             ――三郎五郎益正(近藤若狭)

 虎倉城主、伊賀兵庫頭行隆の二男伊賀右衛門佑益忠は、長田荘の内、新山邑に居城。
号を改めて新山民部輔益忠と号しました。
 長子が新山兵庫祐益澄といい、新山城主で、共に虎倉城家老を勤めました。
 次子は新山玄蕃祐益義といい、備中有漢の常山城主となりましたが、天正三年の松山城戦で三村氏に属し討ち死にしました。
 新山城主の益澄は虎倉城戦の際毛利氏に攻められ討ち死にしたとなりますが、福山城の守備にその名が伺えますので、退いて後の戦いに参加しているのかもしれません。

 新山家は益澄の死後、小兵衛が相続しましたが、その死後は近藤氏(三郎五郎益正の後禽)が引請け相続しました。
 同家は、江戸時代苗字、帯刀、裃着用をゆるされ、旧田井村、旧春木村の庄屋を代々務めた家であるとの事です。

伊賀氏関係諸家(4)

井原 土井家

 伊賀兵庫頭―― 伊賀勝隆―――伊賀久隆
       |
       ――民部少益忠
       |
       ――伊賀下総守三郎衛門、宇都宮若狭守時綱の養子となる
           |
  宇都宮村綱 ―――下総守三郎衛門貞綱――次郎兵衛――文右衛門――冶左衛門



 同家は下土井福島家と同様、伊賀兵庫頭の三男、伊賀下総守よりの出です。

 宇都宮家は、足利譜代の重臣で、関東公方持氏の叛乱により衰え、足利家の指図により、宇都宮時綱は伊賀家の客分となり、伊賀兵庫頭の三男、下総守三郎衛門貞綱を宇都宮家の養子としたが、貞綱は、何らかの理由により、伊賀伊勢守の郎党に戻り、土井氏と号して虎倉城の家老職を勤めました。
 土井家は、江戸時代初期に庄官となり、苗字、帯刀をゆるされ、代々庄屋をつとめました。



下土井 福島家(土井家)

 同家は、井原 土井家と同様伊賀下総守よりの出です。

伊賀兵庫頭―― 伊賀勝隆―――伊賀久隆
       |
       ――民部少益忠
       |
       ――伊賀下総守三郎衛門、宇都宮若狭守時綱の養子となる
           |
  宇都宮若狭守時綱 ―――下総守三郎衛門貞綱――貞村――貞親――貞兼――貞国―  ―正則

市郎兵衛貞国より四代後、六郎兵衛正則の時、作州大場郡草加部住人福島氏の養子となり以後、三浦家系図に継承されます。

福島家は、江戸時代初期に庄官となり、苗字、帯刀、裃着用を許され、庄屋を務めています。
江戸中期頃、神官となり、現在も加茂総社宮の宮司家です。
また、玉藻宮の社家でもあります。
土井治郎右衛門の妻女が三浦氏の出であったので、下土井来住の際、守り神として祭祠し、其の後、土井氏を継いだ福島氏も三浦氏の一族であったので、この宮を尊崇し、守護神としました。現在は土井神社と称されています。


竹荘 仁熊家

 仁熊家は、十九代伊賀兵庫頭より出て、竹荘仁熊に住し、仁熊氏と称しました。
 伊賀下総守が宇都宮家を継ぎ、伊賀氏客分となっていましたが、後に伊賀氏郎党に戻り家老となり、土井氏と称しましたので、替わって、伊賀兵庫頭の息 勝明が宇都宮家を継ぎ、若狭守と称しました。

 宇都宮家は北関東の名族で、「京都御扶持衆」として、将軍家の探題的な役にありましたが、関東公方足利持氏の反乱により衰えましたので、将軍義持公は宇都宮家を客分として、伊賀河内守に預けました。

 宇都宮若狭守勝明(仁熊若狭守)――勘兵衛勝吉と二代にわたり、大畑城(湯山城)の城主となりました。

 江戸時代には、松山城の古庄官として、苗字、帯刀、裃着用を許され、医師として松山城の藩医となり、明治、大正、昭和、そして現在まで一族医師を継承しています。

 伊賀兵庫頭――宇都宮若狭守勝明――仁熊勘兵衛勝吉――七兵衛尉勝之――勘兵衛尉勝忠――元甫勝久
                                 |
                                 ――勝賢



 高松平山には、竹荘仁熊家より分家した平山仁熊家があり、足守藩主より平山村開拓を依頼され、木下肥後守の士分に取り立てられて、二百石の扶持で処遇されました。



また、伊賀伊勢守は隠居し、昌信入道と号して、一子左京進を伴い竹荘仁熊、藤沢城に居城、後にその子孫が足守宮原村に移り、宮原城に居住し、阿曽仁熊家となりました。

                                       

伊賀氏関係諸家(5)

円城 伊賀家


円城 伊賀家は伊賀伊勢守勝隆の二男で、虎倉城主伊賀左衛門尉久隆の弟である三郎兵衛友隆より出ています。
伊賀三郎兵衛友隆は、虎倉城の重臣として作州一円と備中の一部を領して預かり、大永年間、鶴旨(鶴峯)郷、円城中学校の敷地となる王屋舗に住し、鶴旨姓を名乗りました。
 一説によりますと、伊賀久隆の子、第二十二代虎倉城主伊賀家久は、この三郎兵衛友隆の子であるとの説もあります。

 鶴旨三郎兵衛友隆は、虎倉落城と共に、武具一切を円城寺に納め郷士となりました。嫡子平左衛門の時代、辻屋敷に移り、弥左衛門の時代に伊賀姓に改めています。

 伊賀伊勢守――久隆――――与三郎(家久)
      |      |
      ――三郎兵衛――五郎兵衛光久――与次兵衛光利――久光――伊賀光平(鶴旨弥左衛門改)――①
                                |
                                ――女子――美作田原森谷家――② 
                                         |
 ①――光直――光兼――高清――光包――光武―――清兼(伊賀理右衛門)美作田原山上村森家与三右衛門三男伊賀家相続する




野原 伊賀家


天正十六年正月、虎倉城焼失の後、伊賀家久の子伊賀四郎左衛門清久は畑ヶ鳴に逃れ、宇喜多の追及をかわしていましたが、慶長五年、関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多氏は八丈島に流罪となったので、一子を「畑ヶ鳴」に残し美作国野原村に移りました。

 伊賀四郎左衛門清久家臣の守護により流浪の後、野原村に帰農、正保元年八十三歳にて卒

野原伊賀家によれば、当家は、初代より国司神社の宮司を務め、国司神社の若宮には、伊賀四郎左衛門清久が祀られているであろうとの事です。
同家は四代貞久の時、津山藩森家の庄官調べに際し、庄官に定められ、苗字帯刀を許され、代々庄屋、大庄屋を務めています。
 同家より派生して野原分家、一色伊賀家があります。


 伊賀久隆――家久――四郎左衛門清久――三郎五郎(畑ヶ鳴)
                  |
                  ――彦兵衛信久(野原)――弥右衛門直久――孫右衛門貞久――

 ――孫助秀久――孫右衛門秀久
 |
 ――秀久(一色村)――孫太夫家久



弓削 河原家


 伊賀久隆の五男、伊賀与三左衛門尉久道は、下加茂鍋谷城主河原帯刀の娘婿となりました。
 氏を改め、河原与三左衛門尉久道と号しました。

 慶長五年の関ヶ原の戦いに敗れ、美作国久米南條郡下神目村に蟄居し郷士となりました。

 鍋谷城の河原氏は、宇喜多時代には宇喜多氏に仕え文禄の役にも出陣していますので、宇喜多家中に居たのであろうと思われます。

 下神目に戻った久道は、其の後、一子を下神目に残し、同国久米郡南條郡弓削村に住居を構えています。
  二代目は弥次郎隆房、その弟、与三右衛門尉隆則は、同国福渡村に住居を構え、その子二郎左衛門隆次は、備前国津高郡建部村に住居を構えました。この子孫が代々、建部村に居住し、明治初年同所の大村家跡式を継ぎ、大村と河原を合わせ氏を大河原と改めました。

  伊賀久隆――久家(与三郎)
      |
      ――久道――隆房――惟房――敷房――惟蕭(俳号紫風)
          |            |
          |            ――武兼
          |            |
          |            ――金蔵(俳号 一柳)
          |
          ――隆則(福渡)――隆次――八代略――類蔵(大河原)

伊賀氏関係諸家(6)

小森  近藤家


新山氏系図、及び近藤家旧記には、ほぼ同様の記載があり、以下の内容です。

虎倉城主伊勢守長男左衛門佐久隆本丸に居城。二男三郎次郎は虎倉二ノ丸に在城。三男伊賀三郎五郎は、浪人して美作の高田城主三浦氏家臣となり、備中花見の城が尼子氏の兵に攻め落とされた時、花見城主近藤石見守は三浦氏に救援を求め、三郎五郎が大将となって近藤氏の居城を取り返し、即ち褒美として花見城及び近藤氏跡式一切を賜り、伊賀三郎五郎改め、近藤若狭守と号し、将軍家より六万石を賜り居城しました。
其の後、虎倉城と高田城が不仲となるに及び長田庄の森久村に帰り、野々平城を築き、併せて、近隣の四ツ畦城、有漢の飯山城を預かりました。


  伊賀三郎五郎――近藤与三衛門――七右衛門――右衛門尉
        |
        ――近藤右衛門祐


 虎倉城が滅して新山城主、新山兵庫祐益澄の一子は他へ移り、兵庫祐の弟新山小兵衛が其の後に居住しましたが小兵衛は絶家となり、その跡式を近藤氏が相続しました。
 その縁で、新山城址には、近藤氏の先祖碑が建立されています。

「備中兵乱記」には、天正三年松山城が陥落し、三村元親の一子勝法師丸、城を落ちる途中で伊賀久隆の陣に捕らえられましたが、あまりの利発さゆえに、助命叶わず、毛利氏は成人後の難を恐れて松山城下の頼久寺にて斬ったと記されています。しかし、勝法師丸の子孫、入沢氏の旧記には、家臣山県新介の守護により美作篠吹城に逃れ、後に森久村の近藤氏を頼り、森久村にて近藤氏の援助にて成人し、為重村に帰農し母方の姓を用いて入沢氏と号しました。

 近藤家は近藤与三衛門より三代の後、男子早世して絶家となりましたが、三谷村に住む弟である右衛門祐の裔族栄えて、小森村に住しています。



西大寺 掛野家     備前 小橋家    建部 松崎家 伊賀家




新山城主新山民部輔益澄には一子源内がいましたが、虎倉没落後は幼少であった為、母に伴われ上道郡原村の内の河本と云う所に隠棲し帰農しました。

三代目新山甚四郎宣隆の時、西大寺の掛野に居住し、掛野と号しました。
四代目の時、建部村に居を構え移っています。
五代目実義の時、氏を改め松崎と号し松崎十因斉といいました。
六代目、長子松崎氏を相続し、建部に住しました。その第八子松崎得三郎和登は、邑久郡の大富豪小橋平兵衛の養子となり小橋家を相続しています。
和登の子、信敬は小橋家を相続、弟恒兵衛正篤は、伊賀を名乗り新たに家を樹てました。
妻女は和気の万波氏の出で「伊賀のえ」として歌人として知られる人物です。

兵庫守行隆――新山右衛門佑益忠――新山益澄――新山源内――新山宣盛――掛野宣隆――掛野旨直――松崎実義――松崎平宣――二代略――松崎常豊――彦三郎
|           |
|           ――新山安仲――新山仙之介

――小橋和登――小橋信敬―
      |
      ――伊賀正篤――伊賀正長――伊賀正興――(備前友延 伊賀家)




笠岡高取  伊賀家


  伊賀四郎兵衛は、伊賀久隆、伊賀家久の一族で、四郎左衛門の子か孫にあたる人物です。
  虎倉城落城の後、宇喜多秀家の老臣 岡平内家利の所望により、岡家利に仕えました。

  岡家利の子利晴は明石掃部頭宗全と共に切支丹宗を信奉して、父利季の勘当を受け諸処流浪中元和元年夏、大阪城に籠城し落城の後、徳川氏より追及されたので、伊賀四郎兵衛は自宅に匿いました。
利晴は其の後捕らえられ京都妙顕寺にて処刑され、その家族にも捜査が及んできましたので、伊賀四郎兵衛はその子源右衛門に岡の妻子四人を擁護させ、美作に逃れさせました。
其の後、徳川の命を受け庭瀬城主戸川肥後守達安が捜査厳しく、伊賀源右衛門の外出中に捜査され、岡の妻は自刃、源右衛門は外出時連れていた岡の二人の子を連れ、勝南郡池ヶ原に逃れ居住しました。

  伊賀四郎兵衛――伊賀源右衛門――伊賀政之亟――伊賀幸助――伊賀得助――伊賀平助――伊賀得兵衛

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