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虎倉城 麾下の諸城の略地図(一部)



虎倉城 伊賀氏の麾下にあったであろう城
忍山城、日応寺、勝尾、大井方面は記載されていません。
一部規模の小さな砦、出城は記載されていません。
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虎倉城麾下の諸城(2)

福山城
城主  伊賀河内守、伊賀兵庫頭、新山兵庫輔益澄 等

応永年間、伊賀河内守頼氏は、居館を加茂市場の東元兼に移しました。そして、それに伴い戦時の砦として福山城を築きました。
大手を十カ村に、搦手を元兼として、本丸の東に地形を利用して三段丘をこしらえ大手の備えとした大規模な山城です。
後に、東どなりに隣接して十カ城を築き両城で連携して、備中方面に対しての防衛の城でした。
河内守が引退した後は兵庫頭行隆が相続しましたが、応永末期に虎倉城を築城し虎倉へ移りましたので、其の後は家中の武士が在番となり、難波氏、高見氏などの名が城主としてあげられる。

天正二年の虎倉合戦の際は、新山兵庫輔益澄が立て籠もって毛利氏を迎え撃ったが、作戦により、僅かな抵抗のみで陣を引いたので、毛利の先鋒が入場し、毛利輝元自身もこの城に入り虎倉攻撃の指揮をとった城です。

この城の麓に伊賀左衛門、河原五郎兵衛、河原源左衛門の別荘跡が三か所あるとの事です。

清常城
城主  不明

虎倉城大手、三宅坂から竹之庄へ通じる加茂往来にあり、備中方面に対しての大手の防衛の城としての役目があります。
城主として決まった人が在した記録がありませんので、時に応じて在番したのでしょうか?
しいてあげれば、確たる史料はありませんが、信頼が厚く平岡に居館があった片山与一兵衛、弟の弥左衛門など片山氏を中心としていたのではないか、との意見もあります。

天正二年の虎倉合戦の際には、毛利先鋒の将粟屋氏が入場し、陣所としました。
城址に討ち死にした粟屋氏の墓碑があるとの事です。

藤沢城
城主  藤沢左馬進頼兼、伊賀伊勢守入道昌信(伊賀伊勢守勝隆)、仁熊左京進 等

旧賀陽町と加茂川町(現在は合併して吉備中央町)の境付近にあります。
藤沢氏の旧記によれば、相模国藤沢の住人、俵藤太秀郷の後裔藤沢太郎信恒は関東で源頼朝の挙兵に戦功をたて、その子藤沢左馬進頼兼は頼朝の命により平家討伐のため、備前加茂庄に至り藤沢城を築いたとの事です。

時代は過ぎ、戦国の頃、応永より150年間、伊賀氏一族が居城していましたが、備中、備前の境目でもあり、北に出雲街道、南へ岡山街道が通じている場所で長田庄、竹之荘を繋ぐ重要な要地です。
毛利氏が備中平定を唱える頃には、何度かの攻防戦があったようです。
永禄年間には「藤沢と云う山に虎倉方の者共取登り籠り在る所に芸国より乗取る其の後、扱に致し右領分半納宛所納す」云々等と見え、又、河田又左ヱ門、寺田帯刀、伊賀与二兵ヱ、片山弥左衛門等がこの城に籠って戦っています。

これより先、大永初年、毛利氏がまだ台頭しなかった頃、伊賀伊勢守勝隆は、隠居し昌信と号し隠居しこの城に籠った事があると云われています。
虎倉城の備中方面への防備強化として、伊賀河内守の弟伊賀出雲守光昌は備中に進出し大原城を築き、虎倉方は加えて湯山城、小谷城、大畑城、藤沢城など幾重にも城塞を築き、神原氏、仁熊氏等の一族を置き、又、伊勢守自身も藤沢に入り備えを固める等重要な要地でした。

天正二年四月、毛利氏は虎倉城を攻めた際、中央方面隊の将粟屋与十郎が入場したが上加茂で討ち死に、毛利軍敗走の際、桂源右ヱ門が殿軍として在番したが、同年夏、毛利氏と伊賀氏は将軍義昭の仲介により同盟した事により、元のように藤沢城はもとより竹之庄は虎倉城の所有に帰されました。

虎倉城麾下の諸城(3)

鍋谷城 (大手城)
城主  伊賀修理亮、河原六郎右ヱ門、片山宗兵衛

虎倉城大手から山稜を下り、白坂道を宇甘川に下りきった川向かいの西北に位置する白坂道側の大手防備の出城で北方防備の城です。
虎倉城にとっては、重要な城であり、伊賀兵庫頭行隆が虎倉城に居城するに伴い、この城を拓き、弟である伊賀修理亮を城主として在城させています。
伊賀修理亮は、金川城の松田左近将監元成が邑久郡福岡で合戦した際に、加勢して出陣した人物です。

伊賀久隆公の時代は、虎倉城の家老である河原氏の居城で、その後同じく家老の片山宗兵衛が城代を務めています。この城は常に虎倉城の重臣が守備した事からも、その重要さは伺えます。



勝山城 (せいひろ城、舟山城)
城主  宇都宮下総守貞綱(土井下総守三郎左衛門貞綱、土井治郎左衛門貞村、土井三郎右衛門貞兼

下土井にあり、山は低いが東と南は急斜面で東、南、西側は湿地帯となり天然の濠となっている要害の城で福山城と南北に対面する位置にあります。

城主は伊賀兵庫頭の子である伊賀貞綱が、当時将軍家から預人となっていた宇都宮若狭守朝之の養子となり、宇都宮下総守と号し、居城しました。身分は客分として扱われましたが、その子、治郎右衛門は在名を名乗り、土井と号し、伊勢守の郎党に戻って二万四千石の虎倉家老職でした。

妻女は、美作国高田(勝山)城主三浦能登守の娘であったので、高田城鎮守の玉藻宮を下土井に勧請し、土井氏の守護神として祀りました。現在は土井神社と称されています。

勝山城の由来は美作高田を勝山という事から勝山城と呼ぶようになったともいわれます。

虎倉合戦の際は、作戦により、さしたる抵抗もせずに開城して退いて、土井三郎右ヱ門が侍大将として活躍しましたが福山城下の沖坂において騎馬が興奮して暴走し討ち死にしました。
毛利氏は退却に際し、虎倉勢が長追いせずに、福山辺りから引き返したので、勝山城に防備をしいて引き上げたのですが、その後、毛利氏と伊賀氏は和睦し元の通り土井氏の居城となりました。



十力城
城主  伊賀伊勢守

福山城の東に隣接し旧加茂往来に面して、備中方面に対する備えとして築かれた城で有事の際は福山城と連携できるようになっています。
山の尾根にも拘わらず、南面は湿地隊でこれを天然の外濠としたようです。
城主は伊賀伊勢守の名がありますが、伊勢守は兵庫守の子で虎倉城主です。
伊勢守が備中の押さえとして築いた事から記載されたか、隠居後一時期在城したのでしょうか。



新山城  (阿瀬城)
城主  新山民部少輔益忠、新山益澄

伊賀兵庫頭行隆は虎倉城築城とともに、長田庄北部の守備として美作国境に近い新山の地に二男、民部少輔益忠を配置し、美作に対する押えと美作計略の基地としました。
城下を出雲街道が通り、美作通路の要衝で地下資源も豊富な土地です。
南に向かって三本に分かれた地形を利用し中央に一段高く本丸、西と東に本丸を守る形に出丸、丘と丘の谷間は段々に掘り空濠の役目となります。

天正二年の毛利氏侵攻の際は毛利本隊の侵攻通路なった事により、まず毛利軍北部方面隊山県三郎兵ヱの猛攻を受けました。
この時の城主は民部少輔益忠の子兵庫祐益澄でした。激しく抗戦し城は焼け落ち城主は討ち死にといいますが、益澄は福山城や上加茂の伏兵の将として名が出ていますので、城を焼き捨て撤退し、福山城に籠りさらに上加茂に集結したものと推測されます。

新山城の川向にも出丸があり、通称苅山城といいます。

虎倉城麾下の諸城(4)

大畑城 (下湯山城、勘兵衛じろ)
城主  宇都宮若狭守勝明(仁熊若狭守勝明)、仁熊勘兵衛勝吉

旧賀陽町大字湯山(現吉備中央町)にあり、宇甘川沿いの南側に位置し、旧竹之庄街道を藤沢城との両城で挟む形で築かれています。
備中松山城方面からの攻撃に対し、虎倉城の出城として築城されたものであろうと思われます。

城主の仁熊氏は、十九代伊賀兵庫頭行隆より出て、竹之庄仁熊の在地し仁熊氏を名乗りました。
土井下総守が、将軍家より預かり伊賀氏客分となっていた宇都宮家をついでいましたが、伊賀家郎党に戻り、土井氏を名乗り虎倉城家老職となりましたので、仁熊勝明が宇都宮家を継いで宇都宮若狭守勝明となりました。
宇都宮家は北関東の名族で足利氏が将軍になり「京都御扶持衆」として将軍家に仕え、関東探題のような立場でしたが、関東公方持氏の反乱により衰えたので、将軍家は伊賀河内守頼氏に宇都宮家を客分として預けたのです。
そして、仁熊氏は息の勘兵衛勝吉と二代の大畑城主となりました。

仁熊勘兵衛に関し、虎倉記に
 「阿部源吾と云う者、上下四十騎にて、毎度竹之庄田土あたりの在家へ押し入り乱取致し候事度々なれ共、此方(虎倉方)より出入り申内には早く引取候故得打たず、伊賀久隆意外の立腹にて、神原惣右衛門(大原城主)、仁熊勘兵衛(大畑城主)両人早速忍て討ち取り申すべき旨蒙り、信心を掛け、或夜田土村へ出見申候処に、阿部源吾に行き逢い仁熊勘兵衛弓にて射ち申候へば、左脇を射る、神原惣右衛門走り掛り切り給ふ、勘兵衛は源吾が家来を追い散らし、惣右衛門源吾を討ち、首を取る、勘兵衛申すには我が弓にて射候故なり。首は此の方へ渡され候様にと云う、其の時惣右衛門手疵数か所蒙り候得ば、其の方の矢は当り申さずと論議いたし、惣右衛門高名に紛れなく惣右衛門首を取る也」とあります。

竹之庄田土辺りに、夜な夜な盗賊(毛利方?)が出没し、民家を荒らしていました。虎倉方は成敗しようと駆けつけるのですが、逃げ足が速く捕まえられません。
自分の領土内の農民が落ち着いて生活できない現状に対し、伊賀久隆は非常に立腹し、神原惣右衛門、仁熊勘兵衛に成敗するように申しつけました。久隆の立腹に必ず成敗しなければ、と待ち伏せしていましたところ、はたして現れ、交戦の末、見事討取り、住人の不安を取り除きましたが、毛利方の侵入は度々あったようです。

中島記(備中兵乱記)では、中島元行の都合によって書かれていますので、虎倉方が侵入して悪行を行ったようになりますが、田土あたりは、境界に近いけれども虎倉方です。「賀陽町史」などは筆者の参考文献が中島記(備中兵乱記)になっていますので、全て、中島元行及び毛利方の領土であったような記載ですが、中島元行の自画自賛が入り、取りつ取られの攻防の激しかった地域ですから、短期でも手にした立場で記載されているもので、通した歴史背景から見ると誤りであろうと思っています。

中島の領土はもう少し西から南方面、旧賀陽町でも大和地区から総社方面ですね。おおざっぱには、現在も残る宗教分布に、おおむね天台宗を中心としたエリアは伊賀氏、法華を中心としたエリアは毛利方ととらえてもかまわないと思います。ちなみに予断ですが、吉川村藤田地区は備前法華でも、不授布施で金川から落ちてきたものが住み着いたのではないかと私的に推測しています。

仁熊勘兵衛に戻り、天正二年の毛利氏侵攻の時の事です。
 「右の場所にて片山与七郎、仁熊勘兵衛と首の取り論仕り候、清常山の岸にて与七郎敵と組み倒し頼むと申すなり、首を取る計りを其の方へは取らせずと申し、口論の処へ神原惣右衛門通りかかり仔細を聞き、助けを頼むというからは、仁熊殿勘忍あるべしと扱い、片山首を取る」
弓の名手として鳴らした仁熊勘兵衛です。

虎倉城麾下の諸城(5)

大原城
城主  神原備中守益信、神原右京、神原惣右衛門

上房郡誌には神原宮内少輔隆好(越中)、疋田右衛門元久(雲州尼子氏麾下)の名も挙がっています。

賀陽町大字黒土(現在の吉備中央町黒土)にあり、伊賀河内守頼氏の弟、伊賀出雲守光昌が備中の押さえとして大原城に移り築城したことに始まります。
 虎倉記にも「伊賀左衛門殿御盃の次第に、一に土井下総、二に鶴旨三郎兵衛、三に神原備中」と出るように虎倉城の重臣でしたが、「出雲は老人で、備中川上大幡山にて芸州とともに討ち死にした」との事です。
天正二年の虎倉合戦では、神原右京は藤沢城近辺まで攻め込み鉄砲を駆使し、敵将の首をとって手柄をあげています。
 「神原惣右衛門は足を痛め、歩行不叶旗本に罷在り、御秘蔵の鹿毛の馬給ふ」とあります。
 伊賀伊賀守家久が備中に下り西下する際に信頼する神原惣右衛門に幼弟太郎次郎を託し、その子が後の神原氏の祖となった神原太郎右衛門久良であるとされています。
 神原惣右衛門は伊賀家久より、伊賀久隆の子を託されたので、湯山の横部に館を築くべく小谷城の森大蔵に換え地を与え移転させようとしましたが、これに応じなかったので、すぐに取って返し、小谷城を攻め落とし、森一族を討滅ぼし、ここに新しく居館を建て久隆の遺児を住まわせました。


小谷城
城主  森大蔵

吉川と神原の間に位置しています。
天正十二年、豊臣秀吉が天下を掌握し、高梁川を以て京、芸の境界となったため伊賀家久は領土を失う羽目となり、伊賀久隆の遺児である幼弟太郎次郎を神原惣右衛門に託し、わが身一つで芸州に寂しい出立をしました。
僅か三百石ですので、家臣も追従する事も出来ず、帰農する者、宇喜多に与する者様々でした。

神原惣右衛門は、小谷城の森大蔵に城を開けさせ、太郎次郎を入れようとしましたが、森大蔵は一行を入れる事を拒みましたので、大恩ある伊賀久隆の遺児に対しての態度に腹を立て、取って返し、小谷城を攻め、森一族を討ち滅ぼしました。

後に、山裾を拓いて社を建て大蔵一族の霊を祀りました。これを「大蔵大明神」といいます。

虎倉城麾下の諸城(6)

丸山城
城主  吉川刑部、吉川新右衛門、吉川四郎左衛門久直、吉川角之丞久兼


旧賀陽町(吉備中央町)大字吉川にある小高い小丘を利用して築城された平城。
周囲から、高さ約9メートル、周囲約150メートル、土塁、壕の跡などがあるが、現在は田んぼの中にあり、周囲の人に聞かなければ、此処が城であった事が気付かないかもしれません。

伊賀河内守頼氏の弟である伊賀出雲守光昌が田土の大原城に移り入り、その一族が丸山城に入り、吉川姓を名乗り城主となりました。

湯山の清水寺には、伊賀氏の末裔、吉川四郎左衛門久直の一子吉川角太夫久益の墓があります。
吉川角太夫久益は、江戸時代初期、備中の住人で、一族菩提のため二十九歳で入信し、一心に仏道修行し、延宝四年六月十三日より断食の行に入り、七月四日、寿七十五歳で入定したといいます。

菅野城
城主  土師兵部尉道継


旧賀陽町(吉備中央町)吉川にあります。
麓の周囲は約150メートル、石垣はなく上部は平坦になっていて、石塀、土塁跡、礎石などがあります。

天正の頃、虎倉城に麾下で土師兵部尉が居城していましたが、大井方面の防備強化のためでしょうか福谷村の亀山城に移っており、その子土師玄蕃之介道本とつづいています。

吉備郡誌
甕石山城、又、亀石山城、大井村大字粟井に在り、山の半腹、亀に似たる石あり故に名つく其の地をも瓮石と云う頂上に城址あり。城主、土師刑部少輔、男土師玄蕃、又云城主土師修理、長臣森孫九郎、子孫、福谷村大字西山ノ内、字井田に在り、清和天王十代の後胤森二郎頼貞五代孫太郎義長末裔なりという。


飯山城
城主  飯山兵部尉、伊賀三郎五郎(近藤若狭守)、新山玄蕃


上房郡誌では、飯山兵部尉の築城といいます。
虎倉の時代、伊賀三郎五郎の居城、また、新山玄蕃の居城といいます。
毛利氏が虎倉城へ侵攻した際は、大将毛利輝元率いる本隊に攻略され、拠点となり、山県三郎兵衛が在番しました。山県は、甲斐の武田氏族で武田氏の安芸移住に従い、芸州に来て毛利氏の将となった人物です。備中攻略軍に属し、多年備中地方にいたようで、この城の鎮守は甲斐の諏訪神社です。この山県は武田信玄の将として有名な山県三郎兵衛の縁者であろうと思われます。この山県は、虎倉合戦の際、毛利軍が破れて引き揚げた後、只一騎で城下に馳せ来て討ち死にした勇者です。

常山城
城主  新山玄蕃


有漢町川関にあります。
城主新山玄蕃は新山民部の次子です。
松山城合戦では、三村氏に属して戦っています。


百坂城
城主  菱川右京亮勝行、菱川与兵衛


小森にあり、モモ坂城と呼ばれ、豊岡川(恩木川)の絶壁の上、険しい所にあります。
昔の大向村(高富高原)の守備と旭川を越えた東の美作に対する押えと経路の拠点の要城です。
城主は虎倉城の重臣で、豪勇として名を馳せた菱川右京亮勝之。数々出陣し、助勢した大名から度々感状を受けています。
伊賀河内守が備前に移る際に同行し、以後虎倉落城まで虎倉城の最古参の武将として在しています。

しかし、史書では、度々の感状などから尼子氏の将とされたり三村氏の将とされています。備前軍記の記述を短絡的解釈で松田氏の将としているものもあります。福岡合戦の際、松田氏に与力した城と属城が同一になってしまって記されている事から解釈が成立しているようです。
もっとも、伊賀氏の根城的存在の福山城、一族居城の重要な城新山城なども松田氏の属城と記載されてしまっているのですから。


小森城
城主  伊賀修理亮、菱川与九郎


小森にあり、百坂城の西に位置します。
小森から江与味を越え美作に至る通路の要衝にあります。伊賀修理亮が築城し美作経路の押さえと美作方面基地として守備していましたが、後に菱川右京亮勝行二男与九郎に預けています。

菱川与兵衛舎弟与九郎は虎倉城主伊賀の将、小森村東西の山の峰を開き兄弟東西に立ち別れ居住す、昔の曽我兄弟にも佐藤兄弟にもおとらぬ勇士也、云々


常江田城
城主  小森百坂城主菱川一族、難波越後守義定末裔(江田氏)


豊岡下にあり、豊岡から江与味へ出て、美作へ通じる通路側で舟堀というところです。
東と南は急傾斜で北の尾根続きが大手、頂上は平坦で一段高くなっています。
天主二年の虎倉合戦の際は、虎倉城側の士将が撤退した後に毛利兵が入り、毛利氏敗軍後二十日ばかり籠っていたのですが退去したとの事です。


虎倉城麾下の諸城(7)

妙見山城
城主  能勢常陸介

その昔、吉備津彦命がこの山に向かって弓を射て、怪物を退治したといわれる伝説がある場所であり、昔から豪族が住んでいたのでしょうか?
この辺りは鉱物資源が豊富な所ですので、大陸から技術を持った人々が移り住んでいたのでしょうか。
虎倉城時代は、能勢常陸介の居城であったとの事です。

肥前国の城主、能勢肥前守三代肥前に住す、後、浪人して毛利氏に入る。その後備前へ来り、伊賀兵庫頭の時二千貫で妙見山城主となり、虎倉城落城まで居城  とあります。

史本によると、松田氏の臣などとなっているものもありますが、他と同様間違いです。

城山は久保田神社を祀っていますが、鳥居の傍らの円墳は城主の墳とも云われています。
この妙見山には、黒喰山魔法宮の円城狸キュウモウの子を祀ってあると云われています。


三谷城
城主  宮脇民部

詳細不明


三納谷城
城主  高見小四郎

この城も、史書によっては松田氏の臣となるが他と同様間違いであろうと思われます。
なぜなら、一族の高見源右衛門は虎倉の将であり福山城に居ましたし、虎倉城の近くに在り、周囲が皆虎倉城方であり、虎倉の勢力下に一つだけ他家の城があったとは考えられません。
しかも、伊賀氏の後の石原氏はこの三納谷の地下資源が元で争ったとされているのですから。

地下資源採掘のための耕地や住居跡があり多くの人の出入りがあった事が分かります。


山之田城
城主  日名源十郎義秋

日名源十郎の室は新山氏の娘。
日名氏は、清和源氏佐竹氏の末裔で、備中国成羽に居住し、三村氏に属していましたが、天正三年松山城戦の際、毛利氏の側となり、功あって加茂郷美原に移り山之田に居城したといいます。


茶臼山城
城主  江田左衛門

昔の古墳を利用して築城されていて建部地区を管轄していました。


中山城
城主  行森喜左衛門、小左衛門

加茂郷尾原の行森氏と同族の行森喜左衛門、小左衛門が居城しました。



太田城   白石城

城主  田淵十郎左衛門、橋本氏、佐藤修理、岡豊前、土井相馬介

建部町太田にあり、田淵十郎左衛門が築城したと伝えられています。
その後、松田氏の臣である橋本氏、後、佐藤修理が居城し、宇喜多直家の時期は岡豊前が入っていた事もあるようです。
伊賀久隆公の時代は、土井相馬介が居住したといい、後の宇喜多時代も「土井氏五百石で居住す」といいます。土井氏は宇喜多滅亡後は和田に移り住んでいます。


瀧ノ城
城主  伊賀久隆

赤坂郡鳥取庄、大鹿村(御津町国ヶ原の下)となります。旭川の対岸となる虎倉城の出城です。
川筋交通の守備地で重要な拠点となります。


鍋谷城
城主  伊賀勝隆、伊賀久隆

瀧ノ城の下、旭川の東岸の絶壁の上にあります。峠を越せば山陽町仁保に出ます。
牧石河原で松田氏と浦上氏が戦った際に、伊賀勝隆はこの城を基地として出陣しています。
伊賀久隆は、大永三年に虎倉城を相続するまではこの城にいました。

虎倉城麾下の諸城(8)

石原城
城主  不明

虎倉の東、紙工(しとり)字石原にあります。
城主は、石原氏であろうが、この石原氏は、長船越中の石原新太郎とは別人で虎倉城の家老に石原氏がいたようです。

奧宿鼓田城
城主  河田七郎、河原源左衛門

本陣山ともいい、天満の奧、備中境にあります。
虎倉城南方大手の鼓田の山頂の南、宿村の更に南の備中境にあり、虎倉城の備中大井方面の押さえの砦でした。

天正二年四月、毛利軍南部方面隊大将、穂井田元清は、大井庄を席巻しこの城を攻めました。
守将の河田七郎、河原源左衛門は、救援を乞うたのですが間に合わず、攻め落とされてしまい、河田氏は討ち死に、河原氏は負傷して虎倉に逃れるべく百谷の東の滝まで来た時に敵兵に見つかり、敵兵二人を脇に抱えて道連れに瀧に飛び込んで討ち死にしました。
この豪勇を伝えられる河原氏は、鍋谷城主の河原氏の系とは別で、元は将軍の臣であり、浪人して宇喜多家中に身を寄せていた際、永禄六年の虎倉城と宇喜多氏の同盟がなり、伊賀久隆の室となった宇喜多直家の妹の付き人として虎倉城に来住したものである。

また、本陣山は忍城合戦の際、毛利輝元が本陣を設置した場所です。


寺畠城
城主  牧菅兵衛(三浦氏)、河原六郎右ヱ門

久世町にあります。当初、高田城主三浦氏の出城で、牧菅兵衛が在城していましたが、虎倉記によれば、天文の頃、尼子氏によって三浦氏は滅びましたが、この戦の時、伊賀氏は尼子氏に与力して出陣。久世寺畠城を攻めました。寺畠城は落城し、当時の城主、河原氏は降参し長田庄に来て、虎倉の家老職となって、鍋谷城主となりました。
寺畠城はその後も多少の攻防はありましたが、虎倉城の管理下にありました。
天正二年、虎倉合戦の際この城も毛利方の攻撃を受けましたが、他と同様、僅かの抵抗をしめしたのみで、作戦により、撤退し毛利軍が入りました。


真木山城
城主  鈴木孫右衛門近重

落合町鹿田にある。
鈴木氏は多年虎倉城の与党として、松山城戦では搦め手で戦功をあげ、岩毛、佐井田戦でも戦功を挙げています。


野々平城
城主  伊賀三郎五郎(近藤若狭守)

福沢にあります。
伊賀伊勢守三男、三郎五郎は浪人して美作高田城主三浦氏の家臣となりました。
備中花見山の城主近藤石見守は尼子氏に攻められた際に三浦氏に救援を求め、三郎五郎が大将として近藤氏の城を取り返しました。その褒美として花見山城及び近藤氏跡式一切を賜り、伊賀三郎五郎改め、近藤若狭守と号し、将軍家より六万石を賜りました。
その後、虎倉城と高田城が不仲となったので、長田庄の森久村(福沢)に戻り、野々平城を築いて併せて四ツ畦城、有漢の飯山城も預かりました。

天正三年、備中松山城主三村元親の一子勝法師丸は城を逃れ篠吹城を目指そうとしましたが、途中で伊賀久隆の人に遭遇し捉えられました。しかし、あまりの利発さゆえ、毛利氏はこれを生かしては後の禍になると強いてこれを殺したといわれていますが、、勝法師丸は家来の山県新介の守護により篠吹城に逃れ、後に森久村の近藤与三兵衛を頼り森久村で帰農し、母方の姓を用いて入沢と名乗ったとも云われています。


四ツ畦城
城主  近藤氏、新山氏

溝部の奧にあります。
美作国境にある城です。

伊賀家久は、地下人を支持してこの城の占拠を図った(四ツ畦騒動、四ツ畦合戦)、また、竹之庄の地下人により松山城の占拠を画策したと云われていますが、不明なので今後、調べて行く予定です。

虎倉城麾下の諸城(9)

十二本木城
城主  伊賀家久


位置は、御津町勝尾の東、宇垣の西、馬屋上の北、岩田の東北で、近辺で一番高い山の頂となります。
周囲が一望できる眺望に優れた場所でこの麓には加茂から勝尾、日応寺を経て横井から岡山に至る旧表往来、虎倉から岡山まで六里の道程の中間の要衝に位置しています。

天正六年、宇喜多直家の将軍側から織田側への寝返り離反に伴い、毛利、伊賀の連合により宇喜多討伐戦が開始され、十一月に備中境の忍山城攻略戦が行われました。

前年、父伊賀久隆に毒を盛られ、当年春、久隆は毒の影響からか死亡したため、伊賀家久は悲涙の復讐を誓い、父に代わり、采配をふるってこの山に籠り、救援に来るであろう宇喜多直家の背後をつき討取る算段をして待ち受けたが、直家は身の危険を感じてか岡山を動きませんでした。
作戦は不成功に終わりましたが、憤懣やるかたない家久は、宇喜多春家の守る金川城へ再三討入り攻め立てました。
もう少しで落城へ持ち込めるまで攻め立てましたが、守勢も頑張ったので落城にはいたりませんでした。攻め方の伊賀家久は少勢であったため、夜明けとなり、明ければ形勢不利となりかねないので、五十数名を討取り、そうそうに引き上げました。

御津郡誌によりますと、十二本木の山の傍らに船山城址があり、二つは別の山なり、とされています。


忍山城  信夫山城
城主  岡剛介(在番)、伊賀伊賀守家久


岩田村大字上高田山頂にあり、渓路を隔てて信倉山(鎌倉山)と相対した四面険峻な要害です。
現在は城址の下に道路があり、上高田トンネルが開通しています。
虎倉領の大井方面の基地で加茂から岡山に至る街道と足守から建部に至る街道の交差した交通の要路でもありました。
永禄六年以来、虎倉城伊賀氏と宇喜多氏は同盟関係にあったので、この城を宇喜多家の将岡剛介が在番していましたが、天正六年播州で信長軍と交戦している最中、宇喜多直家は信長と内密に同盟し、将軍家より離反したので、虎倉城より攻められる事を危惧して久隆毒殺を企て虎倉城乗っ取りを図りました。
計画は失敗しましたが、直家離反の事実が判然としたので、毛利氏および伊賀氏は宇喜多討伐戦を備作において展開することになり、この忍山城戦が天正六年十一月より(私個人の見解としては、天正七年十一月ではないかと思いますが、、、)行われました。

備前軍記などには忍山城攻略後、伊賀家久は虎倉城には帰城せず、毛利氏と共に西国に下ったとの記述があります。
天正十二年備中備前の国境を以て東西に二分された高松条約によって、伊賀家久が虎倉城を出て備中大井、及び吉川方面およそ三万石を食邑とした時、吉川に仮所を設け、城は忍山城を主城として行動したのではないか、と思われます。

その頃、安全を配し、吉川に仮所を設け伊賀家久の子、伊賀三郎左衛門を匿い、吉川伊賀家が誕生したのではないかと思われます。


陰徳太平記には
四畦合戦と忍山合戦が混同されていますが、
尼子勝久本国へ帰入せんと毛利が手の中尾太郎左衛門尉、香川左衛門尉が籠りたる作州高田の城を攻むべしと故の高田城主三浦氏これに従い此城を取返さんと、宇喜多に加勢を乞ひければ、岡剛助、長船紀伊守、岡信濃守等作州に赴き其の後、宇喜多直家吉川元春の爲、作州数城を陥れられ、此の積念を晴らさんと備中国忍山城に宇喜多信濃守岡剛介を入れ置き毛利が持城一カ所にても攻め取るべしと、天正七年十一月毛利輝元、吉川元春父子小早川隆景等三万騎を督して発向す、宇喜多、岡は聞ゆる勇士なり、相従う所の兵士一千何れも精選の士卒なれば、いかに毛利の三家たり共一戦の間に追立べきものをと鏃を磨いて待ち掛けたり。
吉川経言は二千騎を率い備前より加勢有りと聞き近く押し寄せ強弱の程を窺ふ所岡越前守、長船紀伊守忍山援兵として押来ると聞へしかば、さらば彼に向はんとし引き返すを見て城中より信濃守剛介一千余人打出てひたひたと相戦ふ。
経言、これぞ願う所なりと鉄砲はらはらと打ち遺ると等しく無二無三に馬馳せ入れば岡も経言が若輩何程の事かあるべしと思い侮り、只一時に討取らんと勇み進んで戦ふたり。
経言は年未だ若しと雖も知勇兼備、父祖にも劣らぬ良将なれば、今、是を眉ともせず、諸士に下知して、宇喜多、岡をめがけて打ちかかる信濃守が先陣引き返すと剛助押し返して戦ひけれど、後陣崩れ立て城中へ引取りければ、経言敵に息な継がせそとて山下を焼き払って引退ける。
かくて此の日、諸将城を取り囲みけるに、経言、下清左ヱ門に下知して夜半城中に忍び入り、小屋に火を付けたりければ、経言一番に乗入、吉川経言一番に攻入りたりと名乗り給ふを聞き、毛利、小早川の旗本其の外、中国八州の兵共やれ経言の手により攻入りたるとて、皆吾不劣と切って入る。
城中、思ひも不寄、夜半に内より火を放ち、外よりは敵滋く攻入りぬ。あはて騒ぎ父子、父よ子よと呼び叫び、取り物も不取敢足に任せて落行けり。
信濃守剛介は、「こは、口惜しき次第也」とて目と目を屹と見合せ、朋友の契、未来二世にも違うまじとて左右に分かれ、向かう敵に切って蒐り爰に戦ひ、彼所に組伏せ、向ふを幸いに相手を嫌はず戦ひける程に、両人があたりには、何人も人塚を築かせて累々たり。去共、身鉄石ならねば、終に所々に討たれにけり。
かくて、討取頸共点検するに五百三十余級と記せり。夜に紛れ落ち行く者は不数知。此由を聞きて長船、岡も半途より引き返しければ、直家は彌々忿怒に余りして寝食不安。
扨て当城には、毛利家より桂左衛門太夫、岡惣左衛門を被入置けり。


中島記(備中兵乱記)によると
伊賀与三郎其父の死亡に悲涙を注ぎながら、籠城の用意を爲し、急を備中の毛利方の諸将に告げ、援兵を乞う、諸将は之を隆景に注進すると
「当家へ与する幕下の急難を救い給わずば後日、当家へ随身の味方あるべからず」と時日を移さず領国へ軍勢の催促あり小早川隆景、毛利元清、宍戸隆家一万騎にて出陣、隆景は宮路山に、元清は冠山に隆家は信倉山に陣し、清水宗則、中島元行等鎌倉山茶臼山等にそれぞれ陣営して、忍山の城に迫った。
宇喜多直家一万余、平右ヱ門、花房又左ヱ門等、毛利方の諸手に戦を挑み、軍勢の手配手に入ったる儀と敵方にも誉められた。
伊賀与三郎は虎倉より勝尾山日応寺まで出て隆景に謁して忍山城攻略のことを請えるも、隆景「此度は御帰陣、重ねて出陣の節、忍、金川等浮田の持城を仕置きすべし」とて帰陣せられた
とあって、はかばかしい戦争がなかったように記載されて居ます。

陰徳記並びに備前軍記から併せ見ると
天正六年十一月中旬、毛利輝元、小早川隆景三万ばかりの勢にて出陣、備中備後の諸士を先鋒として、備中高田村忍山城に浮田信濃、岡剛助を囲む、吉川民部太輔経言(後の広家)は忍山の東に陣を取り、伊賀与三郎その手兵に毛利家からの援兵を加えて、七百ばかり津高郡勝尾山に陣取り、岡山からの後詰を押へて居る。
岡山よりの援軍岡平内、長船又三郎、片山惣兵衛等は忍山の東北なる鎌倉山に着陣した。
吉川経言一千人を二手に分け、岡山の援軍に当り、奮戦して岡山勢色めくを見て、城中より浮田信濃打って出で吉川が一陣を破る、二陣入り替はるところへ、岡剛助之に向かい、敵味方入り乱れて戦う最中、小早川勢横槍を入れたれば、浮田も岡も兵をまとめて、城中に引き揚げ、門々を鎖して厳重に防いだから、毛利方も強いては攻めず、かくて年も明け翌天正七年正月上旬、吉川経言、下清左衛門を召し、
「今夜敵の隙を窺い、城に火をつけよ、吾、一番に乗入り、浮田、岡を討取るべきぞ」と下知せらるる。
下、夜半ばかりに城中へ忍び入り、側なる固屋に火をかく、折節の強風に煽られて炎々と燃えあがるを見、吉川経言「一番乗り」名乗り、芸州諸軍我劣らじと攻入り城兵防戦の術盡き、浮田信濃、同孫四郎腹掻き切り猛火の中に飛び込んで果て、城兵は散々になって逃げたが、多くは途中に討取られる。
芸軍の獲た首級は五百三十余。

伊賀与三郎は直家に父久隆が毒殺された鬱憤散し難く、毛利家の力の下に如何にしてか復讐してやろうと忍山の戦にも誓って宇喜多が後詰押を望み、勝尾山に陣して機会の到来を望んだが、直家は当時既に秀吉と大挙毛利征伐を成さんとの企劃が成っているので辺境の小競合いには左のみ心を用いず、只管次の大戦の準備に従事したので伊賀は手を空しゅうして地団太ふんだ。されども此のまま引揚げるのも口惜しく、北備前の地理は掌を指す如く知っているのを幸ひに手兵を以て金川の城に夜襲を試みた。金川の守将宇喜多春家能く防ぎ伊賀は利あらずして引揚ぐ。
其後或夜又々金川の油断を見計らい銃隊を先登として攻め入るに城中にては人々皆熟睡の際なれば、奮起して守備につき、矢玉を放って堅く守る。
伊賀もとより小勢なれば明けて敵に見透かされては危うしと、首五十七を討取って引上げ、之を隆景に送る隆景其功を賞し、向後も忠節を心掛けるように懇命があった。
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