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吉川伊賀家の成り立ち

吉川伊賀家は、伊賀家久が虎倉を出て伊賀の所領である備中の辺境吉川の地に下ったところから始まります。
吉川へは、一族であり、属将である吉川氏をたより吉川千木に浪居したことに始まります。
系譜は伊賀久隆→伊賀隆家(伊賀家久)→伊賀三郎左衛門尉→伊賀兵衛尉→四郎右衛門→四朗左衛門と続く。
いまひとつ伊賀隆家→伊賀三郎左衛門尉昌則→重右衛門昌知→の流れもあるが今私では確認できていません。

伊賀三郎左衛門の添え書きには、伊賀昌則と号す。備前虎倉城滅亡し宇喜多直家の勢力下となるに至り、隆家一族は伊賀所領の辺域備中竹ノ庄吉川千木に逃れ浪居す、時に天正六年十一月也、その後慶長八年二月森忠政信濃より美作津山に転封の際忠政に奉仕し中老に列せられる、元禄十年六月森長成の時森家廃絶せられたり、為に昌則四代の孫昌知中老の職を辞す。とあります。
昌則四代の孫であるから、四郎左衛門の子か?しかし、四郎左衛門の添え書きには虎倉滅して土民となるとありますし、、、。

伊賀氏は最初吉川氏をたより千木の地に入ったが、後西庄田に移り住みました。そして、千木伊賀家と西庄田伊賀家の二つの流れができました。昭和初期までは交流があり、千木より年末年始等には西庄田伊賀家(おおうえ)へ挨拶に来ていたとの事ですが千木伊賀家も今や一家のみとなり、西庄田伊賀家本家においても今後吉川の土地での継承はないであろう状況となっています。現在は、あまり交流がありません。

西庄田伊賀家は現在三家が現存しており、屋号大上本家(おおうえ)、中倉(なかくら)、福繁屋(ふくしげや=副士下屋)といいます。大正期には、もう一家あったが現在は同町内他所へ移り住んでいます。

本家大上の屋敷は昭和37年三月二十八日に焼失、現在は土地を削り、昔より20~30メートル低くなっています。昔は大井方面から吉川への入り口「ゆずりだわ」から伊賀家の屋根が見えていたとの事です。
土地のまわりには番見、神見などの地名、屋号では掛坂(かけざか)、大勇峰(だあゆう)、上前(=上馬屋)、下前(=下馬屋)、しげ屋(=士下屋)、なら屋(=なら屋)などがあり、それより前は中筋の各家となります。

今から相当昔、私が若かった頃の話
自動車の免許を取得した私は友人と遊び、夜7時を過ぎた頃、足守の街道筋を走っていました。当時は今よりまだ道幅が狭かったように思います。当時私は三菱コルト1500SSDコラム3速シフトに乗っていました。みんなからは、「なんでコルト?」とよく言われていましたが結構気に入ってました。真四角で鉄板が分厚い奴です。
飛ばしていましたら、対向でバスがきました。道幅が狭いのであわてて急ブレーキを踏みましたが、ドラムブレーキはすぐにききません。道に駐車している車に後ろから追突です。当然、持ち主のおじさんが前の家から出てきました。名前を聞かれるので、答えますと、そのおじさん、中にいる人や近所の人を呼び「おい、この子は吉川の伊賀の子といってるぞ。」と言いました。みんな、口ぐちに「ほう〜。」と珍しそうにしましたが、おじさんは「ここへとめてたのはわしも悪いんじゃからかまわん。気をつけてかえれよ。おとうさん、おかあさんによろしくゆうてよ。」とゆるしてくれました。昔の人たち、大人はみんな名前を言うと一応に感心し、やさしかった記憶があります。

私は小さい頃から、「人に素性を聞かれても、知らない。わからない」というようにと教えられました。
それは、へたに近づいてくる人は、魂胆があるし、利用されるおそれがあるから知らない人には決して言うなと言われていました。このあたりの人は言わなくても「どこのだれか、氏素性はみんなしっている事」と言います。
しかし、時代は流れ、地元でももはや知らない人はほとんど、風化されてきています。このまま絶やす訳にも行かず後世に伝える事は使命かなと思う様になりました。あいまいになりつつある記憶を断片的にでも書き留めていきたいと思います。

吉川の伊賀家は嫡断の系譜であり、男は生まれても早死が多く、女系で継続されてきました。
そのため、女手一つで家を守るのは大変なことで、必要以上に内へ閉ざしますし、歴史の価値を知り、興味を持つ事より生活を維持する事の優先で重要視しなかった事などが、伊賀氏そのものの歴史を閉ざしましたし、資料等も「きたない」と昭和四十年代にほとんど焼いたりしています。鎧はクズ鉄買人が売ってくれといったから売ったとのことであとで岡山城で鎧を見たら、当家にあったような七色の糸で細かな鉄の板を編んだ派手な鎧は見ないといいますし、刀は戦時中、鉄の供出を恐れ、鍛冶屋で3本の包丁にしたといいます。
かろうじて、槍や火縄銃は残っていますがこれも、私たちが持って遊んだりしてさびたり、吉川八幡宮の当番祭に貸したりして石突がなくなったりしています。価値観て怖いものです。

そんなこんなで歴史をおざなりにしてきていましたがここへきて記録しようと思っています。
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旧屋敷跡

旧吉川伊賀氏居館跡
これは、田園のどかな吉川の旧伊賀家跡地あたりを空撮したものです。
上方は北となります。
虎倉はこの写真からは右方向になります。
伊賀氏は虎倉城を出たあと、吉川千木の地に入りました。まずは丸山城の吉川氏をたより、仮所を定めたのでしょう。
神原備中の湯山や藤沢城等へも近く、当時の往来からは北に松山城へ向かう備中街道になります。
しかし、千木の地は地理的に隠れ凌ぐ事は出来ても、いざ戦闘になると、前方に視界が狭く打って出るのが単調になりやすい印象です。
千木から西庄田に移ったのはいつなのか正確にはわかりません。
関ヶ原で宇喜多が負け、宇喜多の出方を気にする必要がなくなってからと推測されますが、それ以前、伊賀家久が芸州へ西下する以前に段取りをつけ、移ったのかもしれませんし、、、。
足守藩木下公の統治下となり南方面に目を向けるようになってから、岡山街道を意識して吉川の中心地へ移ったのかもしれませんね。
西庄田の旧跡地は丸山城と比べてもその敷地の広さ、東に八丁畷と呼ばれる準平原地帯を持ち四方に視界が開け戦闘場も確保しています。一番裾地は切岸となっており、一部石垣作り、上部の屋敷周囲も帯状曲輪なみになっていました。
ここは、吉川八幡宮の北側となり、明治初頭までは吉川地区の中心部で寺子屋等もありました。
土地の上部は昭和の火災により焼失後、整地し跡形もなくなっていますが、五輪塔があったりした事は記憶にあります。
しかし、この土地ももはや、孟宗竹が蔓延り徐々に荒れてきています。山に還るのも時間の問題かもしれません。

iga010.gif

吉川 伊賀家 旧屋敷跡をめぐる



現在、森になりつつある丘の上に吉川伊賀家の旧屋敷跡があります。
この地ももはや森になりつつあり、昔の状態を探る事も難しくなっていますが、記憶のある間に少しでもとどめておきます。



屋敷跡地の最下段取り付き部。周囲は全て1~2メートルにて切り岸とされています。





屋敷へ上がる侵入路です(東南側)

P1000558.jpg

正面の木立は他家の若宮神社です。
この辺りに番屋があったのでは?

P1000563.jpg

屋敷などがあったのではないでしょうか?
一段の石積や平地がそれなりの様子を伺わせます。

P1000561.jpg

下段、周囲はこの場所に限らず、昔から(いつ頃からかわかりませんが、、)栗の木が大量に植えられています。
上の方は、椎の木と女御竹が沢山です。やはり、いざの時の食(しいのみ)と弓矢にする竹のためでしょう。

P1000553.jpg


岡山県御津郡誌(大正十二年十月発行 御津郡教育会著)二百七十頁

吉川の伊賀に関する記述の抜粋

虎倉城落城と共に伊賀氏の一族中城を捨てて備中に遁れ去り吉川に入り此処にその生を終えたるものあり。その後を継ぐものあり。

毎年三月と八月の十六日に伊賀氏は先祖の霊を弔うために供養に出かけていた。
吉川の伊賀氏一族が虎倉からの落人だといっているだけでなく、虎倉地元の人もそれを信じているようです。

岡山県御津郡誌(大正十二年十月発行 御津教育会著)二百七十頁虎倉城及虎倉合戦 に次の記載があります。

「毎年三月十六日上房郡吉川村伊賀氏来りて供養す」


しかし、地方誌の記載を観ると 相当わるいやっちゃなあ

 伊賀久隆については、
  「天道その無道を悪み、幾ばくならずして宇喜多直家の臣難波半次郎の饞悪にかかって直家の爲めに毒殺されました。
 その子、与次郎これに抗し防戦しましたけれど戦敗れ天正七年正月虎倉を捨てて備中に遁れ去りました。
この時、伊賀の一族中吉川御堂の奥、河内田原を経て西荘田、千木の民家に忍び入り、ここに生を終えたるものあり。
 現在吉川にその後を継ぐものありとか言い伝えられています。

と記載されています。

 ようは、久隆公は悪いことばっかりするので、天罰がくだり宇喜多直家に誅され、その子は戦に負けて吉川に逃げ込み、民家に押し入ってそこに住みついた。そしてその子孫はたしかではないがいるらしいと言い伝えられている  ということらしい。
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