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室町時代の伊賀氏

明徳三年、南北朝統一され五十九年間の争乱の時代もようやく落ち着きをみせ、足利義満の三十五年間の安定繁栄した専制政治の時代となりました。
南北朝時代は伊賀家の本貫地である伊賀国は、度々の戦で荒廃したのに加え、将軍、天皇、護良親王などがそれぞれ御教書を濫発したため、太守といえども事実上、領有は名目に過ぎないものとなっています。
しかし、そんな時代にあって、伊賀頼兼の領有する長田庄は鎌倉時代以来伊賀氏の領地であり、一族が地頭職を任官した皇室御領として安定した地域でした。

 昭和の大戦に供出され現存していないが、鷲林寺の梵鐘の銘文に伊賀頼兼の立場、意志が伝えられます。
  備前国津高郡長田庄中村牛頭山鷲林寺
  新撰鐘此方教体以音聲為佛叓天下
  叢林以禮楽為清規爰有耕然黙主
  比丘尼理常明此理故怱以年来所持天神
  筆之金字法萃経一部施入當寺令僧
  道林普化一字一銭少縁頓成千均大器
  可謂願力所全大切不奇寅夕鑑々扣
  推良哉依此上善々々祝廷皇国万歳
  日増輝本寺両檀那益昌家門繁栄山門
  弥堅開山基業三途八難盡脱輪筈法界
  有情同證圓通仍唱伽陀以當銘記矣
  七軸金文較半銭  千鈎重器鎮長田
  聞聲悟道不寄特  驚起き牛頭峰頂眠
  幹緑比丘  道休

  大檀那  藤原朝臣伊賀左衛門尉頼兼
          前伊賀太守沙弥直兼

  當寺比丘増極在宥謹誌
    太歳 明徳二辛未十一月日

これには、「地頭」と書かれておらず、長田庄全体を鎮めると、一地域のみでなく長田庄全体の領主としての立場を宣言しています。
一方、直兼は伊賀国太守でありながらも事実上は名目になっており、どうにもならなかったようです。
やがて、伊賀頼兼は総家として長田庄の四地域に別れた同族の地頭職を束ね諸家に対抗すべく努力されました。
頼兼は初め、紙工(しとり)に居館をかまえていましたが、その後豊岡村へ移り、大鶴山に砦を築きました。

時代は、安定の足利義満の時代を頂点とし、次第に統制が困難となり、将軍義教が赤松満祐に殺されるという大事件が勃発、世はあげて下剋上といわれる時代に突入したのです。
応仁元年(1394)東西両軍に分かれて天下の大乱となり、やがて「戦国」と呼ばれる時代となるのです。

足利義持、義教期の戦乱
  上杉禅秀の乱
   鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉氏憲(禅秀)の対立に際し、関東御扶持衆が討死、九州でも反乱が起こった。将軍義持は、管領畠山、細川、山名などに鎮圧を持ちかけるが事ははこばず、応永三十一年ようやく持氏の忠誠の誓書によっておさまりました。関東管領でさえ領国を空けるといつ地頭、国人の反乱が起きるかわからない状況なので、管領も積極的に動こうとはしなかったのです。それに、この争乱で北関東の「京都御扶持衆」の佐竹、小栗、宇都宮の三家が持氏によって滅ぶというたよりにならない事態となりました。

将軍義持は、この事態に当然御家人の強化を画策しました。
その一つとして、伊賀河内守頼氏に、備中竹荘、吉川、大井などを加増、四万五千石の御教書を下したのです。
伊賀氏はもともと守護の立場を考慮する必要のない立場であり、赤松、松田の郎党ではありません。
これを受けて応永の頃、豊岡から元兼に移った伊賀河内守頼氏は隠居し道印と号し、伊賀兵庫頭行隆が相続しました。
戦の砦として、大規模な山城の福山城を築きこれに拠りました。





また、河内守頼氏の弟の出雲守は、備中への備えとして、田土の大原に築城し、大原氏を名乗り後神原氏と称しました。
兵庫頭行隆は応永末期に小倉に築城し、これを虎倉城と称しました。
その当時、長田庄は東寺領でした。

嘉吉の変
時代は足利義教の時、其の将軍就任に反対した鎌倉公方足利持氏が反乱、上杉憲実と幕府追討軍により翌年持氏は自害し反乱はおさまりましたが、将軍義教は専制的で守護の家督介入や守護追討を行ったため、反感多く、1441年、播磨国守護赤松満祐が将軍足利義教を謀殺する事態となりました。これに対し、幕府の対応はお粗末で追討も遅れ、政治的軍事的空白が生まれ、侍所別当山名持豊が重い腰を上げたのは二カ月後のことでした。
この戦いで山名氏の力はさることながら、備前、備中、美作の国人地侍の動向は戦を大きく左右しました。
伊賀兵庫頭は奉行衆で御家人ですから、当然、最初から幕府の為に戦いました。
その功により、美作、真嶋郡の木山、鹿田あたりまで進出しました。そして、備中、備前、美作合わせて十五万石を領有するようになりました。
守護大名がいるのに、どうして伊賀氏は十五万石ももらっていたのか不思議に思うかもしれません。
当時、室町期の大名は戦国大名のように、自分の力で侵略によって領地を増やしていた訳ではありません。
将軍の力は弱くはなってもまだ強力でした。
京都駐在の諸大名はせいぜい三百騎程度であり、領国の統制も危うく、古来からの国人や地侍などに脅かされている状況で、将軍の御教書に頼らざるをえないのでした。
したがって、直接の将軍奉行衆などは、守護といえども一筋縄ではいかない存在でした。

赤松氏滅亡の後、山名教之が備前守護となり、赤松の残党を追捕し備前邑久郡福岡の城に小鴨大和守を守護代に置きました。元赤松の郎党であった松田、難波、宇野や東備前の土着武士は皆浪人となり機会を伺いました。
そして、細川氏の口添えもあり再び赤松氏が返り咲き、備前新田荘を与えられた事によって浪人していた赤松の武士がその下に集まり、和気方面で山名氏と抗争を繰り返しました。

寛正五年長田庄は萬寿領になりました。永徳元年白河上皇の御願で創建された寺です。

応仁の乱
細川氏と山名氏は両雄並び立たずの言葉どおり、次第に不穏な形勢となり、細川勝之、山名持豊の間の小競り合いが京都で続き、天皇も幕府も一方に加担し、諸国の守護豪族が応援に上がるようになりました。
なかでも、大内、斯波両氏が是に加わり、京都の町に火がかけられ炎上を繰り返しました。
東西両軍の加担者は一時細川東軍十六万、山名西軍十一万の大軍となり、それが京都で対峙し十一年間、戦乱と飢饉でまさに破滅の地獄絵図と化したのでした。

「足軽をする」とは、本来、放火、略奪など後方撹乱活動をしていたがのちにそのような行為を行う軽装の雑兵を意味するようになりました。

この戦乱の結果は結局誰が勝ったという事なしに終わり、浮上してきたのは、守護代、下級荘官、国人、地侍などであり、次の戦国舞台に登場することになります。

 近畿有数の荘園領主であった興福寺門跡の尋尊はかく述べる。
「天下のことはさらにめでたい事など一向にない、近国とはいえ近江、美濃、尾張、遠江、三河、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内などまったく将軍の下知に応ぜず、年貢なども一向に進上する事のない国々だ、その上、紀伊、摂津、越中、和泉はまだ国中戦乱の地方で、これも年貢の進上など問題にならない、けっきょく将軍の下知がおよぶ国といえば播磨、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国ばかりだ、だがそれらの国々でも守護が将軍の下知を奉じているだけで、じっさいにその下知が実施される段になると、守護代以下の在国の者共がいつこう承知しない、だから、結局のところは、日本国中ことごとくもって将軍の御下知には応じないということだ」

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