スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

将軍足利義昭が備後鞆津に下向、三村氏逆心の事

天正二年、将軍足利義昭は宇治の槙島に籠城しましたが、織田信長は六万余騎をもってこれを破り、上洛、将軍義昭は毛利を頼り、中国へ下向、備後鞆津へ着岸しました。
小早川左衛門佐隆景は「昨日まで頼みとしていた織田信長が今日は敵となり、尼子一族を近年追手に下された。毛利家は今日よりお味方と頼りに思召され、これまでご下向下さったのは当家の名誉であり、代々のご恩に報いるために忠節を尽くしたい。少輔太郎は若年であり、父陸奥守が私に家督を預けている。急ぎ吉田へ申し聞かせ、安らかにお過ごし出来るように致します」と申し上げ、鞆城の普請を申しつけ、将軍義昭公をお移ししました。

将軍義昭は、織田に対抗し、再度帰洛のために毛利家を頼り、相談しましたが、中国地区の武士にも一丸となって協力するように頼み、その一つ、宇喜多直家にも味方になるように頼みました。
そのため、これまで不和であった毛利家と宇喜多家は再び和睦し、将軍帰洛の謀をすすめたので、宇喜多直家は、織田家、尼子家と断絶するようになりました。

織田信長は、中国の武士が結束し、義昭公の命に従い、近日にも攻め上がられるとの情報を受け、驚いて諸国の国守、郡守へ間謀を遣わされるとともに、松山城主三村修理進元親へも密使を立て、「このたび、将軍義昭公に背き、信長の味方に加わり、将軍のご上洛および毛利家が上方に攻め上がるのを防がれれば、備中、備前両国をあてがう」と計略を怠りませんでした。
三村修理進は喜んで、一族従類を集め、「願ってもない幸せである。私は浮田に深い遺恨を持っている。父家親は、遠藤河内に闇討ちに遭い、兄元祐も浮田与太郎に討たれた。浮田は二代の怨敵であり、恨みは深い。時の来るのを待っていたが、このたび信長より一味の誓詞を貰った。待っていた甲斐があった。嬉しいことである。薄運の将軍を討ち取り、信長卿へ忠節を尽くし、その助力を得て浮田一族を討ち平らげ、恨みを晴らしたい」と評議をしました。
成羽城主三村孫兵衛親成、嫡男孫太郎は、時の至らぬことを悔やんで元親に同意せず、「信長卿の虎狼の謀に随い、一家が不義の逆臣となることは本意ではない。不仁の信長卿に頼みをかけても益は無い」と諫言しました。
元親とその一族は、この諫言を憎み、家中の讒者君臣の間を割き、三村孫兵衛親子を誅戮しようとしましたので、親成は松山城を退去し、鞆津へ参上し、阿波の三好に加勢乞うて意気あがる三村元親の謀叛を訴えました。
同様に宇喜多直家は使者角南隼人入道如慶を遣わし、三村家が阿波の三好を頼み毛利家に背いておりますゆえ、決して御油断召さるな」と忠告していたので、小早川左衛門佐隆景は、三村元親の謀叛は間違いないと判断し、一刻も早く三村元親を退治すべきと隆景、直家連絡を取り合い、同年十二月出陣しました。

毛利氏は三万の軍勢をもって、松山城の出城を次々と落とし、天正三年六月ついに松山城は落城しました。
伊賀氏は、松山城包囲網の一翼を担っていましたが、さすがに備中一国を支配していただけの城で落城まで半年も要したのです。
松山城落城に際しては、小早川隆景の軍勢に河原六郎左衛門という者がいました。
彼は、元来、備前加茂の生まれで、虎倉城主伊賀左衛門尉久隆に仕えていましたが、追放され、後に小早川家に赴き小早川隆景に仕えた者でした。近隣の生まれで、備中の事情に詳しく、三村家中に親しい者もあったので、間者となって松山城に潜入していました。彼は、石川源左衛門久式と共に天神の丸にいたが、久式が本丸に赴いた留守を窺い、合図して兵を城内に誘って、一気に宇喜多直家、小早川隆景の軍がなだれこみ、城を攻め落としました。
三村元親はもはやこれまでと、城を枕に切腹しようと覚悟を決めましたが、家臣たちはしきりに諌め、三好を頼り四国へ逃れるよう勧めました。
退去の途中三村元親は誤って谷へ転び落ち気絶しました。この介抱をしているうちに家来たちは散り散りになって逃げうせました。残った家来二人が元親を助けて落ちて行きましたが、今度は、元親の刀が鞘から走って彼の足を斬り、歩行が叶わず退去することもできなくなりました。元親はもはやこれまでと、頼久寺近くの松連寺に入って切腹して果てました。
また、先に阿波を目指して落ちて行った三村元親の子勝法師も、途中で伊賀左衛門尉久隆に遭遇して捕われの身となりました。
彼は当時わずか八歳でしたが、生まれつき大層聡明でした。
伊賀左衛門尉が「暫しの暑さ凌ぎに」と、勝法師に扇を与えたが、その扇には、
  夢の世に幻の身の生まれきて露に宿かる宵の稲妻
という古歌一首が記されていました。
これを読んだ勝法師は涙を流し、「自分は城内で自害して果てるべき身でありながら、ここまで生きながらえ、かえってこの憂き目をみることよ」と悔やみ、また見張りの侍どもに「その方どもの中には、三村の旧臣で降参した者もあるが、今では余を見て見ぬふりをしている。まるで畜生にも劣る振る舞いではないか」と物語ったが、その態度たるや大の大人にも勝る堂々たるものであると、見張りの者は顔を見合わせて驚き入りました。
そして、あまりに利発なので助命したいと望みましたが叶わず、やがて井山の宝福寺で首を刎ねられたとのことです。しかし、その時勝法師は少しも騒がず見事な最後であったと伝えられています。

「加茂十三流荘官」(虎倉聞書)によると、
  入沢庄左衛門は、備中松山、三村元親の弟の由、元親出生後母、病死の後腹也。禁裡より御すべり被成候を御呼取候うて、庄左衛門は此腹にて出生の由。松山藩落城の節七才にて、家来山県新介と申者召連缺落ち、同国有漢に居留、母方が入沢にて、候故則、入沢と改め申候。右の新介は、森久村近藤と申者縁者により近藤衍庄左衛門を森久へ指越し、尾原にて百姓に罷成申候。右、書上の時分も勘定は無之系図書先祖計り写書上申候。然共母方より伝申太刀掛物一ぷく有之候。

すなわち、勝法師丸の子孫入沢氏の旧記では、家臣山県新介の守護により美作篠吹城に逃れ、後に伊賀氏一族の森久村近藤氏の援助を受け成人し、為重村に帰農して母方の姓を用い入沢と号した、との事です。

備中兵乱の後、宇喜多和泉守直家、宇喜多左京亮、宇喜多与太郎、伊賀左衛門尉久隆、清水長左衛門宗治、中島大炊助元行、三村越前、笠岡掃部、村上弾正、村上八郎左衛門を鞆の津へ召され、戦功のあった将士へ猿楽能を催し、「この度、三村一類の謀叛にあたっては、それぞれ粉骨の稼ぎをもって追討してくれ、大いに喜んでいる。将たる者は敵国を治め、肉を分け地を裂いて直ちに賞功を挙げ、軍政をおこなわねばならぬが、われは信長の為に西海に蟄居する身であり、士卒の功に報いることが出来ぬ」と言われると、列席した者は皆感激し平伏しました。
スポンサーサイト
カテゴリ
プロフィール

野楽人(のらくんど)

Author:野楽人(のらくんど)

最新記事
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新コメント
TOEICボキャドリル

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。