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伊賀氏関係諸家(6)

小森  近藤家


新山氏系図、及び近藤家旧記には、ほぼ同様の記載があり、以下の内容です。

虎倉城主伊勢守長男左衛門佐久隆本丸に居城。二男三郎次郎は虎倉二ノ丸に在城。三男伊賀三郎五郎は、浪人して美作の高田城主三浦氏家臣となり、備中花見の城が尼子氏の兵に攻め落とされた時、花見城主近藤石見守は三浦氏に救援を求め、三郎五郎が大将となって近藤氏の居城を取り返し、即ち褒美として花見城及び近藤氏跡式一切を賜り、伊賀三郎五郎改め、近藤若狭守と号し、将軍家より六万石を賜り居城しました。
其の後、虎倉城と高田城が不仲となるに及び長田庄の森久村に帰り、野々平城を築き、併せて、近隣の四ツ畦城、有漢の飯山城を預かりました。


  伊賀三郎五郎――近藤与三衛門――七右衛門――右衛門尉
        |
        ――近藤右衛門祐


 虎倉城が滅して新山城主、新山兵庫祐益澄の一子は他へ移り、兵庫祐の弟新山小兵衛が其の後に居住しましたが小兵衛は絶家となり、その跡式を近藤氏が相続しました。
 その縁で、新山城址には、近藤氏の先祖碑が建立されています。

「備中兵乱記」には、天正三年松山城が陥落し、三村元親の一子勝法師丸、城を落ちる途中で伊賀久隆の陣に捕らえられましたが、あまりの利発さゆえに、助命叶わず、毛利氏は成人後の難を恐れて松山城下の頼久寺にて斬ったと記されています。しかし、勝法師丸の子孫、入沢氏の旧記には、家臣山県新介の守護により美作篠吹城に逃れ、後に森久村の近藤氏を頼り、森久村にて近藤氏の援助にて成人し、為重村に帰農し母方の姓を用いて入沢氏と号しました。

 近藤家は近藤与三衛門より三代の後、男子早世して絶家となりましたが、三谷村に住む弟である右衛門祐の裔族栄えて、小森村に住しています。



西大寺 掛野家     備前 小橋家    建部 松崎家 伊賀家




新山城主新山民部輔益澄には一子源内がいましたが、虎倉没落後は幼少であった為、母に伴われ上道郡原村の内の河本と云う所に隠棲し帰農しました。

三代目新山甚四郎宣隆の時、西大寺の掛野に居住し、掛野と号しました。
四代目の時、建部村に居を構え移っています。
五代目実義の時、氏を改め松崎と号し松崎十因斉といいました。
六代目、長子松崎氏を相続し、建部に住しました。その第八子松崎得三郎和登は、邑久郡の大富豪小橋平兵衛の養子となり小橋家を相続しています。
和登の子、信敬は小橋家を相続、弟恒兵衛正篤は、伊賀を名乗り新たに家を樹てました。
妻女は和気の万波氏の出で「伊賀のえ」として歌人として知られる人物です。

兵庫守行隆――新山右衛門佑益忠――新山益澄――新山源内――新山宣盛――掛野宣隆――掛野旨直――松崎実義――松崎平宣――二代略――松崎常豊――彦三郎
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|           ――新山安仲――新山仙之介

――小橋和登――小橋信敬―
      |
      ――伊賀正篤――伊賀正長――伊賀正興――(備前友延 伊賀家)




笠岡高取  伊賀家


  伊賀四郎兵衛は、伊賀久隆、伊賀家久の一族で、四郎左衛門の子か孫にあたる人物です。
  虎倉城落城の後、宇喜多秀家の老臣 岡平内家利の所望により、岡家利に仕えました。

  岡家利の子利晴は明石掃部頭宗全と共に切支丹宗を信奉して、父利季の勘当を受け諸処流浪中元和元年夏、大阪城に籠城し落城の後、徳川氏より追及されたので、伊賀四郎兵衛は自宅に匿いました。
利晴は其の後捕らえられ京都妙顕寺にて処刑され、その家族にも捜査が及んできましたので、伊賀四郎兵衛はその子源右衛門に岡の妻子四人を擁護させ、美作に逃れさせました。
其の後、徳川の命を受け庭瀬城主戸川肥後守達安が捜査厳しく、伊賀源右衛門の外出中に捜査され、岡の妻は自刃、源右衛門は外出時連れていた岡の二人の子を連れ、勝南郡池ヶ原に逃れ居住しました。

  伊賀四郎兵衛――伊賀源右衛門――伊賀政之亟――伊賀幸助――伊賀得助――伊賀平助――伊賀得兵衛

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