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伊賀家久、決意の戦い!

ツイッター投稿 まとめ

「天正七年、伊賀家久 悲涙の復讐戦」

天正六年九月、宇喜多直家は饗応を装い、伊賀久隆に毒を盛り、虎倉城の乗っ取りを画策しました。直家は計画どおり事を行いましたが、久隆は危うく逃れ嫡子与三郎も裸馬をかり、追手を振り切り無事虎倉城へ帰城しましたが翌年3月、久隆は毒の影響により血を吐いて亡くなりました。

父久隆が亡くなった事により、家久は涙が止まりませんでしたが、悲しみのなか、虎倉城を守り、憎き宇喜多直家に復讐する事を誓いました。

しかし、いくら虎倉城といえども、ただ一家のみで大勢力宇喜多に対抗するには限界を感じ、毛利方へ父久隆が亡くなった事と今後一味する事を約し、援軍の要請をしました。

伊賀与三郎家久が加勢を乞うたのに対し、小早川隆景は「当家へ味方する幕下の急難を救ってやらねば、後日当家へ随身し、味方に加わる者も無いだろう」と即刻、軍勢を出すように催促し、小早川左衛門佐隆景、毛利冶部大夫元清、宍戸備前守が一万騎を引き連れ出陣しました。


そして伊賀家久の出陣

 家久は悦び勇む春の駒繋ぎとめたる木々の枝の本の下影寒からで霧ふきとく谷川の木々の緑も秋深く流れて廻る虎倉山、白波高き岩橋は是も大手の要害なり、陣ぶれの日取りに従う八矢車の旗押し立てる大手先朝日縁どる馬印金地の扇涼やかに、黒皮おどし紺色は鶴峯、河原、土井、新山、床几に掛かれば物頭には吉川、片山、松本、小坂諸士の面々物の端固め、嘶く馬の数々は実にも城主の出陣なり。留守の備えは太郎次郎、神原久重(惣右ヱ門)後見の役目も重き長裃、三宝に熨斗、あわび、昆布、勝栗、かわらけ、書院先に馬のいななき家久は五候かざりし小桜に極彩色の陣袴黄金作りは久隆の形見と帯し二尺六寸、采配手に取り床几に掛かる。鍬形打ちたる甲を捧げ、側に控える侍は、皆旗本の備え武者、太郎次郎「今日は目出度き御出陣、御勝軍の吉待ち奉る」と聞ゆれば家久打笑みさらばといいて馬引き寄せてゆらりと乗ったる武者の骨柄孝有り義有り忠勇のあり合う者共引き連れて、後も見ずして出でて行く、云々。



伊賀与三郎家久は日応寺まで出て、小早川隆景卿に接見し忍山城攻略の先手を務めたい旨を申したが、「今回の忍山城攻撃は芸州勢にて行うので一旦帰陣し、次の出陣の際、忍、金川などの宇喜多勢の城の攻略をするように」と申しつけました。


伊賀家久は宇喜多直家が後詰に来るであろうと後詰押を買って出て勝尾山に陣を取り機会の到来を臨みましたが、反して直家は出陣しませんでした。そのころ、直家は「しりはす」という病気にかかり床にふす事が多くなっていました。


忍山城戦は、吉川経言が「一番乗り」を果たし、岡剛介、浮田信濃等は討ち死にし落城しましたが、伊賀家久は宇喜多直家が来ないので鬱憤が晴らせずされどこのまま引き揚げるのも口惜しくて、金川の城に夜襲をかけましたが、其の時は宇喜多春家がよく守り家久はたいして成果を上げられず引き揚げました。


其の後、再び金川城に夜襲をかけ、もう少しで落ちるという時、夜が明けて来たので、明ければ家久の軍勢は少勢で見透かされてしまうので首五十七を討取って引上げました。
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