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伊賀氏とは

伊賀氏は初代を鎮守府将軍藤原秀郷とする藤原流である。
其の祖は6代前の大職冠藤原鎌足公であり、さらに21代前天児屋根命を太祖とする系譜である。
平安時代の末期、左大臣藤原との呼名から佐藤氏と名乗った。鎌倉時代、源義経公の臣佐藤継信、佐藤忠信兄弟、さらに佐藤義清(西行法師)などが出ている。
承久四年(1210)佐藤氏は伊賀の国守護に任ぜられ伊賀姓を名乗るようになった。
そして、九代伊賀伊賀守朝光の娘が鎌倉幕府の執権北条義時の後妻になったため、伊賀氏一族は鎌倉幕府の中枢として重要な位置を占めていた。
伊賀朝光の子伊賀光季、伊賀光宗の二人は幕府の政所執事、評定衆、頭人など要職を歴任し、公卿執権の式部太夫職も兼任した。また、伊賀氏の流れを汲む伊賀ノ局の子北条政村は執権職につく栄達ぶりであった。
しかし、鎌倉幕府も時を重ね、専制硬直化し、家人などからも信頼を失い、その機に後醍醐天皇の反幕運動(1320)は全国に広がった。
北条幕府の命を受け、足利尊氏が天皇方の制圧の為、京都に攻め上った時、十四代伊賀光長は軍の将として上京し、京都三条河原で討死した。しかし、北条幕府とともに滅亡は免れ、足利氏の信任を受け、足利家家人として、奉公衆、近習を務めた。
十七代伊賀頼兼は足利義満公の近習の臣となった。これは、全国に散在する伊賀氏の領地保全には都合よく一族の者は長田庄、紙工、建部などの地頭職についた。
十八代伊賀河内守頼氏は将軍足利義持公より四万五千石の御教書の下附を受け、長田庄の領主となった。そこで豊岡上に居館を設け大鶴山頂に砦を築いた。
応永末頃(1420)、十九代伊賀兵庫頭は虎倉城を築城しこれに移る。
二十代伊賀伊勢守は戦国動乱の始まりに、安定して長田庄を守り切って後の繁栄の礎を作った。
二十一代伊賀左衛門尉久隆(1523)は気字広大、統率力、戦略に優れ、知謀、勇猛の将が集まり、いち早く銃火器を効果的に用い、圧倒的戦力をみせ、備前虎倉の高名を広く世に伝えた。
然し、織田信長の天下侵略の野望は最終段階にはいり、毛利、織田の高松城の戦い(天正10年)の後、不幸にも毛利、織田の境界線が旭川ではなく高梁川と決まり、虎倉城及び長田庄は織田(羽柴)軍の領地となった。時は天正十三年の事である。二十二代伊賀家久は、虎倉城を豊臣秀吉に渡し、僅かの従者を連れ、芸州に下り、毛利家より、僅か三百石の食扶持を得てその部下となった。
その後は表立って歴史に登場することはなく今日にいたる。
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