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忍山城跡

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岡山市北区上高田の忍山城へ行ってきました。
この城は虎倉城の支城で、築城は伊賀久隆、城主は伊賀伊賀守家久です。

伊賀久隆が宇喜多直家に毒を盛られる事件後、嫡子伊賀与三郎隆家(後の伊賀家久)は復讐を誓い、まずは、宇喜多方の岡郷介の守備する備前備中の境目城で大井⇔建部往来の拠点であるこの城を奪い返すため、毛利方の小早川隆景に忍山城攻略の応援を依頼しました。
自らが先陣を切る旨を申しましたが、小早川は「忍山城は毛利方で攻める」とし、伊賀家久は勝尾に潜み、宇喜多直家がやってくるのを待ち受けました。しかし、直家は出陣せず、家久は宇喜多直家を討ちとることができませんでした。
 後、伊賀家久は、宇喜多方の金川城を夜襲し、城兵五十七の首を討ちとり鬱憤をはらしました。

そして、毛利方に味方した伊賀家久は備中高松城戦後、備中吉川の地に居し、この忍山城主として、大井、吉川他3万石を領しました。
(この忍山城襲撃時は、最盛期で約20万石ともいわれます)

そして、伊賀家久には最大の苦難、備中高松城戦に突入していきます。

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激動の天正十年前後ですね

こんにちは。
お写真とご解説、どうもありがとうございます!

忍山城攻城の先陣、城を知り尽くしている家久公に…というのが自然と思われますに、毛利で…という措置、小早川隆景さんに『万が一』を警戒されたのでしょうか…。
敵だった頃の伊賀一族の強さが、毛利首脳陣の記憶に刻まれていて、その後も恐れ続けていたのかも知れないですね。

備中高松の陣では、家久公も周辺にご出陣だったのでしょうか…。
宇喜多対策のため、忍山におられたのでしょうか。
西国の運命を決する戦だけに、激動の毎日だったことでしょうね…。

No title

ナタ55様、コメントありがとうございます。

それこそ、備中高松の役の際はこの忍山城にて北方の押さえに廻っていました。

天正10年頃には羽柴の軍勢が見受けられるようになり、毛利方は東方の守備として、伊賀家久には相当期待して、虎倉城より東、旭川を越えて今の赤磐市仁堀の方まで、伊賀家久の知行に加増して防備を依頼したようです。
それにこたえ、伊賀家久は、この忍山城の東側の尾根をつなぐ稜線の防備の砦を築き、宇喜多、羽柴の北部への侵攻に備えています。

忍山城はけっこう遺構がキレイに残されており、大きな城で築城に手を入れてるのがよくわかります。

身近であるのに、様子がよくわかる城跡で、上にあがると、なんだか感慨深いものがありました。
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