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平安期の伊賀氏

伊賀氏の発祥は、佐藤左衛門尉木工頭公季が伊賀守に任命された時にはじまります。
平安時代中期白河天皇の承暦年間の頃です。
公季は木工頭として京都御所に仕えた官人です。公季の六代祖は武蔵守鎮守府将軍藤原秀郷です。
藤原秀郷は天慶三年(940)下野国の横領使に任ぜられ広大な土地を領し、軍事力もずば抜けて、強大な藤原の党の中核でした。
秀郷がなぜ、関東に在任するようになったかは、天応元年(781)太政官首席を務めていた左大臣兼太宰帥藤原魚名(北家)は罪状なきまま、だしぬけに大臣をやめさせられ、累は三人の子息にまでおよんだ。魚名の子孫が下野権守、下野大掾などを歴任しており、関東に赴いて地方受領として秀郷にいたるのです。

その藤原秀郷が、鎮守府将軍になったのは、天慶年間(938~940)の関東の大乱を収めた功によってです。
天慶二年十一月、平将門は常陸の国府を襲撃、進んで下野、上野を占拠、三年に入ると坂東八カ国を占領し、新皇とせん称し、坂東八カ国独立の形成となりました。この報告を受けた平安宮廷は「京官大いに驚き、宮中騒動す」と騒然としました。
この状況で、常陸堟 平貞盛と下野横領使 藤原秀郷は四千人の兵を集め、機を伺い、天慶三年二月一日戦いは切って落とされました。
壮絶な騎馬戦と、焦土戦が繰り返され「火の煙は昇りて天に余りあり、人宅は尽きて地に主なし」といわれる激戦です。
二月十四日、戦いで矢を受け落馬、さすがの平将門も落命し、幕は下りました。

その功により、藤原秀郷は従四位下となり、横領使から一躍下野守、武蔵守となりました。
以後、二代にわたり、鎮守府将軍になるなど子孫繁栄の基礎をつくり、全国の秀郷流の祖となったのです。

武士階級の内、藤原氏を称する者はほとんどこの藤原秀郷を祖とするもので秀郷流藤原氏と呼ばれます。
藤原秀郷は俵藤太といいます。近江国田原荘より興るといい、相模国田原を発祥の地ともいいます。
「秀郷龍神の請により、竜宮に行き竜神の敵を討ち宝俵を得る云々」

平貞盛、藤原秀郷両名の功で将門の乱は鎮圧されたがこの乱の加勢のため、武蔵介でこの時京都にいた坂東武者源経基も関東に向かっていたが、途中で乱が収まったので帰京。翌年の天慶四年、瀬戸内海で起こった藤原純友の乱を平定しました。これにより、それまで権門勢家に従属していた武士階級が独自の勢力をもつようになり、それぞれ、源、平、藤の武士の棟梁と仰がれる祖となったのです。
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