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鎌倉時代の伊賀氏

源頼朝は、朝廷より守護、地頭の設置の権利を獲得し、今までの支配層である権門、勢家、庄公の何れからも、兵糧米を徴収し、文治元年(1185)鎌倉に幕府を開きました。
承元四年(1210)形部丞佐藤光郷の子 従五位上佐藤伊賀守朝光は伊賀の国の守護に任ぜられました。
以後、伊賀姓を名乗ります。
そして伊賀朝光の娘が執権北条義時の後妻となったため、この頃から伊賀氏の勢力は盛んとなりました。

「吾妻鏡」
元久二年六月 義時の後妻(伊賀局)男子京兆(北条政村)を出産す。

承元四年十二月 伊賀二郎光宗、 中原太夫仲業、問注所の寄人を相兼ぬるべき由仰せ含められる。
建保三年九月十四日  佐藤伊賀前司朝光 頓滅す。
  佐藤朝光
   従五位上行伊賀守藤原朝臣朝光散位光郷の男
   母は下総守邦業が女
   正治元年左衛門少尉に任ず。
   建永元年四月二十五日使の宣旨蒙る。
   建永二年四月十日  叙流
   建永二年五月二十三日 辞職
   承元四年三月十九日 伊賀守に任ず。
   建暦二年十二月十日 従五位上
建保四年八月   故伊賀守朝光追福のために永福寺境内に造立の塔婆供養す。 導師は荘厳房律師行勇、施主は義時の室、ならびに光季、光宗等也。

 建暦二年九月  伊賀光季常陸国地頭職並びに明主を安堵さる。(本補地頭となり常陸国の伊賀氏の祖となる)
 建暦三年五月  和田義盛討伐の賞として、上野国岩門荘を伊賀光宗に、常陸国佐都荘を伊賀朝光に贈る(陸奥国伊賀氏の祖)
 建暦三年八月  将軍実朝新御所に入御の行列の前駆に伊賀仲能、後ろに伊賀朝光、同光季があり。

建保七年二月   伊賀光季 京都警護のため、上洛。京都守護職、検非違使。
承元元年七月   光季の使者京より到着す。
         曰、「源頼茂後鳥羽院の叡慮に叛くによって討たると。」
承元元年九月   伊賀光宗政所執事に補す。二階堂行光病のため辞退の替わりという。
承久元年十月   伊予一条実雅朝臣、右京兆(北条義時)の嫡女(母は伊賀朝光の女)に婚す。

承久三年五月   後鳥羽上皇と幕府の間は源実朝死後、反目していたが、ついに鳥羽離宮内の城南寺の流鏑馬ぞろいと称し、諸国の兵を招集し、在京の武士千七百余騎が集まった。その中には幕府側の守護の一人、大江広元の子、親広も院方に加わり、其の他諸国の家人の中にも院方に加わる者があった。
  親幕府の西園寺公経、実氏は直ちに逮捕、拘禁され伊賀光季は、京都高辻の屋敷を襲われ、抵抗したが戦死し、承久の乱となった。

  伊賀太夫尉光季、去ぬる十五日の飛脚関東に下着す。申していわく「この間院中に官軍を召し集めらる、よって大江民部少輔親広入道、敷喚に応ず、光季、西園寺公経の告を聞くによって、障りを申す間勅勘を蒙るべき形勢あり」と。
  未刻、公経の家司三好善主税頭長衡の去ぬる十五日の京都飛脚下着す。申していわく、「昨日公経ならびに西園寺黄門実氏は、二位法院尊長に仰せて、弓場殿に召し籠められ、十五日午の刻官軍を使わして伊賀光季を誅される。」

吾妻鏡
「(法皇は)十四日の晩景、大江親広入道を召し、また右幕下父子を召し籠めらる。十五日の朝、官軍きそい起こりて、凡そ一千七百余騎、同日大夫尉雅信、佐々木広綱、三浦胤義、佐々木高重等勅定を承り八百余騎の官軍を引率して、伊賀光季の高辻京極の館に襲いて合戦す。事火急にして、光季並びに息男寿王冠者光綱自害し、火を宿蘆に放つ南風激しく吹き余烟延びて数十町に至る」

北条九代記
「昨日までは、鎌倉殿の御代官とて伊賀判官光季都を守護してありしかば、世の覚え時の綺羅肩を比ぶる人もなく目出度栄へしに、一朝に滅亡して忠義の道を顕しける志こそ由々しけれ」

この乱は、尼将軍北条政子の決断対応によって、幕府大軍が上京、僅か二ヶ月で平定され、後鳥羽上皇はじめ三上皇は配流、味方した公卿武士の処断、その所領没収となり功績のあった武士に与えられました。これが新補地頭であり、これによって幕府の権力は西国にまで及ぶ事になりました。
備前国は伊福郷が相模国足柄郡の松田氏に与えられ、備前松田氏の基礎となったのです。
 備前長田庄は皇室御領で後鳥羽上皇の荘園であったが、伊賀次郎左衛門尉光宗の子、光泰などに与えられました。これが、備前長田を領有する始まりです。
 備中国では、新見荘に新見氏、有漢保に秋庭氏、美作国では吉野郡湯郷に後藤氏が夫々補任されました。一方、京都で討死した伊賀太郎左衛門尉光季に対しても、残された息達に本領が安堵されたのです。

吾妻鏡
「貞応二年、六月二十八日、故伊賀太郎判官光季が息四人(光高、光時、光義、寛光 )二品(北条政子)御亭に参ず、此十才に未だ満たざる幼童なり、廉下に召してこれを見る奥州(義時)その砌に候じたまふことごと光季が顔貌に相似るの由、御悲涙を催され、亡父の跡を継ぎて忠直を励ますべきの由、直々に仰せ含めらる。

嘉禄元年九月十三日  四郎季村は故太郎判官光季が遺領(常陸国塩籠荘)を拝領す。
 
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