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南北朝時代の伊賀氏

鎌倉幕府も終焉を迎える頃は、重臣の畠山氏、和田氏、千葉氏など諸家が滅亡、北条家の専制支配は頂点に達し、身内や守護さえ不満をつのらせるようになりました。一方、御家人は零落し領地を失い、非御家人(寺社に仕える武士、貴人に仕える武装した従者、武力をもつ荘官、僧兵等)が経済力をつけ、台頭して、御家人の領地を買い取ったりするようになりました。悪僧、悪党が横行し、乱暴、略奪をほしいままにはたらき世間を騒乱させていきました。政治が腐敗し、不満が満ちて治世の転換を求める機運がたかまりつつある状況でした。
そして、伊賀氏はこの頃はまだ中央に在していましたが、北条家の身内としては離れた存在であったようです。

元弘の変

元弘元年、御醍醐天皇は討幕計画をたて、以後、南北朝争乱の時代へ突入していきます。
  元弘二年三月  後醍醐天皇を隠岐へ配流。
  元弘二年十二月 楠木正成、赤坂城を奪回。
  元弘三年一月  赤松則村(円心)挙兵。
      二月  千早城攻防戦 続く。
      三月  赤松則村 六波羅軍と戦う。
      四月二十九日 足利尊氏、北条氏の命を受け、隠岐脱出の御醍醐天皇の軍、千早城の楠木正成の軍の討ち手として上京、丹波へ進出し、篠村に陣をとるが、そこで諸国の武士に反幕の兵への参加を呼びかけ、篠村八幡の社前に反北条の挙兵のための自筆の願文を収めた。

 伊賀光長は足利尊氏とともに上京していたが、「足利尊氏公京に攻め上りしに従う」と足利に従い、この時から足利氏と深いつながりが出来たようです。
  元弘三年五月二十二日 新田義貞、鎌倉を攻略。北条高時ら自刃し北条氏滅亡。
  元弘三年六月  御醍醐天皇、伯耆より帰京。建武元年 天皇新政。

しかし、建武政権も意気込みよく発足したが、旧慣無視の法命や、護良親王自ら発した令旨の乱発や、足利尊氏の天皇無視の行動など混乱につぐ混乱を招き、のっぴきならない状況となりました。
1335年、中先代の乱で足利直義が護良親王を殺害する事件が勃発。これを機会に足利尊氏は建武政権を離脱しました。1336年(建武3)三月、足利尊氏は鎌倉より入京、御醍醐天皇は叡山へ逃れる事態となり、新田義貞、北畠顕家の軍と交戦し、足利軍は敗北、丹波へ退いたのです。この戦いで伊賀光長は京都三条河原にて討死しました。

御醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行われ、その戦功によって、伊福郷地頭松田氏は備前守護となりましたが、足利尊氏が天皇に反旗を掲げるや、山陽、四国の武士団も挙って足利氏に従い党に加わりました。松田氏もこの時、足利方に加わりました。後に、南北朝対立による戦乱は激しく、貞治四年の頃は南朝勢は備前でも勢力強く、遂に松田氏南朝の軍を支え得ず敗退し、替わって播州の赤松氏が南朝勢を一蹴。その功により赤松氏が備前守護となり、その被官浦上氏が守護代として和気郡三石城に居城し、国政を取り仕切りました。これによって松田氏も赤松氏の党となり、国中、赤松氏の令がおよんでいました。
正平七年(文和1)、山陰伯耆の山名氏が南朝に帰属し、備作地方は抗争に明け暮れました。正平十七年(貞治1)頃になると、北朝優勢となり、山名氏もまた、幕府に帰順し、備作地方はすべて幕府側となりました。

 美作守護
 正平18年(貞治1) 山名義理
 備中守護
 正平5年(観応1)  南遠江守
   11年(延文1) 細川頼之
   17年(貞治1) 高師秀
   20年(貞治4) 宮下野入道
   21年(貞治5) 渋川義行

明徳の乱(1390)
 山名氏は山陰から近畿地方にかけて十一ヶ国を領有し、全国の六分の一を占有したので六分の一殿と呼ばれた大身でした。しかし、この年一族の惣領権をめぐって内紛が生じました。この機をチャンスとして幕府が干渉し大乱の様相となりました。足利義満は奉行衆の軍事力を動員して制圧に成功し、山名家に山陰三国を残して後を没収しました。もちろん、この戦いに伊賀頼兼は参加し戦功をあげました。この事から伊賀氏の勢力が美作、備中へと及ぶようになりました。

この頃の伊賀氏は、伊賀兼長は美作守であり長田荘地頭になっており、その子伊賀頼兼は将軍足利義満公の近習になっていました。
 当時、守護は、任国内の地頭、御家人を自己の組織内に組み込もうとしましたが、地頭、御家人は、将軍に対しては同じ直臣であり、守護の幕下に収まる事を嫌い、直接幕府の指揮下に入ろうとし、幕府もまた、自らの武力を必要としたので、これをもって直轄軍を組織しました。この事から近習、奉公衆などと呼ばれる存在が出来、普段は在京していたのです。
足利義詮は手許に強力な武力をもっていなかったので度々の敗走を繰り返しましたので、足利義満は近習奉行衆の組織をますます充実させ、政権を不動のものにしました。

伊賀氏もそのような立場にあり、備前守護松田、赤松の領国経営には伊賀氏は組み込まれていませんでした。
 足利義満の直轄軍三千騎といわれ、将軍の下に大きな力を発揮した、近習、奉公衆は各地に領地をもっていたので、将軍によって領地が保護されていたのです。

 戦国期の領地授受についても世家相続記に、
  伊勢守勝隆相続の時、天下ヨリ其節知行所被替召備前国所々三分ノ貮ニ被仰付候云々。
  又、伊賀守久隆相続の時、右ノ領地久々違変ナキ所ニ天下ヨリ知行ノ場所ヲ被替仰云々。
  又、伊賀守家久相続の時、其ノ時従天下右之領地被替仰其後ノ領分ハ云々。
という様に、その知行は将軍から直接伝達されていた事を記しています。


 
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