スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

伊賀高光と讃岐伊賀城

正平十七年(貞治1 1362)備前国住人、伊賀掃部亮高光、細川頼之に従い、讃岐に押し渡り、南党の将細川相模守清氏を討ち、四国の南朝系の勢力は衰えました。
 姓氏大辞典には、
「讃岐の伊賀氏、讃岐山田下村に伊賀城あり伊賀掃部助高光之に居る。高光は備前国の国人なり、貞治元年高屋役に功あり、細川頼之賞するに山田下村を以てす。」とある。

 太平記
 讃岐には細川相模守清氏(四国南朝方将)と細川右馬頭頼之(備中守護北朝方)数月戦けるが、清氏遂に討たれて、四国無事閑まりにけり。其の軍の様を伝聞に、右馬頭頼之は山陽道の蜂起を静めんとて備中国に居たりけるが、(中略)備中、備前両国の勢千余騎を卒し、讃岐国へ押渡り(中略)七月廿四日(貞和元年)相模守の城、白峰の麗に押寄る、相模守はいつも己が武勇の人に超えたるを頼みて、寄手の族の手をみると均しく木戸を開かせ、一騎駆出給へば相従ふ兵三千余騎、数千騎が中へ破って入り、寄手千余騎の兵共相模守一騎に駆分けられて馬人共に辟易せり。爰に、備中国住人陶山三郎と備前国住人伊賀掃部介と二騎、田の中なる細道をしづしづと引けるを、相模守追付けて切らんと諸鎧を合わせて責められける所に、陶山が仲間そばなる溝にをり立って相模守の乗給へる鬼鹿毛と云ふ馬の草脇をぞ突きたりける。この馬さしもの駿足なりけれ共、時の運にや引かれけん。一足も更に動かずすくみて立たりける。相模守が近付て敵の馬を奪はんと手負ひたる体にて馬手に下り立太刀を倒に突いて立たれたりけるを真壁孫四郎馳寄って一太刀打て当倒さんとする所に、相模守走寄って真壁を馬より引落し、ねじ頭にやする。人飛礫にや打つと思案したる様にて中に差上てぞ立たれたる。伊賀掃部介高光は懸合する敵二騎切て落し、鎧に余る血を笠符にて押拭い何くにか相模殿のおはすらんと東西に目を賦る処に、真壁孫四郎を中に乍提其の馬に乗らんとする敵あり、穴かしこし凡夫とは不見、是は如何様相模殿にてぞおはすらん、是こそ願ふ所の幸よと、伊賀掃部介畠を直違に馬を真闖に馳懸てむずと組んで引きかつぐ、相模守真壁をば右の手にかひ抓て投棄、掃部介を射向の袖の下に押へて頭を撥んと上帯延て後に回れる腰の刀を引き廻されける所に、掃部介心早き者なりければ、組むと等しく抜きとりける刀にて相模守の鎧の草摺をはねあげ様に三刀刺す。刺されて弱れば刎返して頭をぞ取たりける。さしもの猛将勇士なりしかば続いて助ける兵もなし。森次郎左ヱ門と鈴木孫七郎行長と討死しける外は、一所にて打死する御方もなし。其の身は深田の泥の土にまみれて頸は敵の鋒にありと云々。

この戦いで、細川相模守清氏の敗死によって四国にあった南朝方の勢力は一掃され、幕府方の勢力に統一されました。
この功によって、伊賀掃部介高光は、讃岐国山田下村を賜い、伊賀城により代々伊賀氏が居住し今に続くのです。

この伊賀高光は何処の伊賀氏か次の説と云われる。
 東寺文書の中に「紙工保地頭職、伊賀六郎左衛門光隆と書かれている人物は、弘安十年頃の人であるがこの子か孫にあたる人物が「掃部介高光」ではないか、代々その直系に通し名をつける習慣から見てそう考えてよかろう」

此処で伊賀掃部亮高光は松田の家人とも赤松の家人とも書いてなく、幕府直属の御家人として出陣しているのです。


この戦いをイメージすれば、細川清氏はまさに巨大な体躯、で圧倒的な強い武人だったのでしょうね。まるで、原哲夫先生のワールドでしょうね。
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
プロフィール

野楽人(のらくんど)

Author:野楽人(のらくんど)

最新記事
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新コメント
TOEICボキャドリル

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。