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牧石の合戦と宇喜多台頭の事

松田、浦上の小競り合いは相も変わらず続き、明応六年(1497)三月十六日、浦上近江守宗助は千余騎を率いて三石城を出陣、上道郡に乱入しました。村々に放火し、御野川を渡り、牧石に陣を敷いて大安寺村の富山城を攻めたが、松田勢に背腹から攻められ敗北、龍口山にのぼり籠城しました。
三石城にあった宇喜多能家は浦上宗助が糧道を断たれ苦戦していると聞いて、その救援に赴き、松田勢の切り崩しを図りました。やがて、松田勢の僅かな油断を突き民家に火を放ち、松田勢が消火に気を取られているすきを図り、攻め立て松田勢を敗走させ、浦上宗助を救出。殿軍を務め、追手の松田の追跡を振り切り、無事、浦上宗助を護衛し、帰陣させる活躍をみせました。
また、明応八年の浦上則宗と浦上村国の同族による権力争いの際において、浦上則宗敗戦の危機に宇喜多能家の言が衆をまとめ危機を乗り切っています。
文亀二年頃は浦上氏も豪勢で、旭川を越え度々西へ進出、対抗し、松田元勝は、出雲の尼子、備後の山名と結び、浦上勢と抗争を繰り返しました。
文亀二年の冬、宇喜多能家を大将とし三百余騎にて吉井川を越え争い、翌三年正月にも牧石河原にて戦い、いずれも松田氏の惨敗、宇喜多能家の縦横無尽の活躍により、上道郡、磐梨軍は浦上氏に落ちています。
そして、浦上氏も主君赤松と争いを繰り返しながら勢力をのばしました。
大永元年、将軍家と結び、赤松氏と和睦して、当時赤松家に匿われていた将軍義澄の二男義晴を奉じて上京し、浦上氏ますます大いに勢力を振いました。松田氏は対抗するため、ついに尼子氏の麾下となったのです。
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