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伊賀久隆 虎倉城主となり家督を相続する事

大永三年(1523)、伊賀伊賀守左衛門尉久隆は家督を相続し、虎倉城主となりました。
百控
「其後大永三年ニ山城守ヨリ次子伊賀伊賀守エ相譲リ其身ハ山城入道ト号ス、伊賀伊賀守久隆儀赤坂郡鍋谷ヨリ虎倉エ罷戻シ籠城ス」
其時の将軍の御教書は、
「備前国長田庄之内加茂同紙工保之内屋敷分(依行 直重 清房 名)等事代々帯御判御教書以下當知行仕之段先祖山城入道昌信譲状明鏡同国所々三分貮者父山城守如合存知時領掌不可有相違之状如件
大永三年九月九日               花押
伊賀伊賀守殿                   」

伊賀伊勢守左衛門尉勝隆(晩年は山城守)は応仁元年頃、十九代伊賀兵庫頭行隆より虎倉城を相続し、大永三年まで凡そ五十六年間、応仁からの続く大乱の中をよくぞ切りぬけ長田の領地を守りました。
伊賀伊勢守勝隆(山城入道昌信)は、三村氏の侵攻などに備え、備中方面を固めるため、竹荘大原の神原氏、藤沢城、大畑城の仁熊氏などと連携した防備強化を目的として、一子左京進を伴い仁熊の藤沢城へ入ったものと思われます。
備前、備中周辺の状況は、浦上氏の東からの度重なる侵入と、備中側においては備中守護細川氏の衰退に伴う備中国人の台頭に伴い、猿掛城の荘氏、成羽の三村氏などが長田庄への進出を伺う様になり非常に厳しい状況となりつつありました。
天文元年(1532)山陰より起こった尼子氏は、勢力を拡大し、山陰を制圧、美作の苫田、勝田二郡へ侵攻しました。これに伴い、西備前の松田氏、伊賀氏は山名氏の衰退に伴い、尼子氏と盟約を結びました。

県下の大勢
当時の県下の大勢は
 一 東備前   浦上氏
 一 西備前   松田氏
 一 長田庄と備中東部美作の一部   伊賀氏
 一 東美作   後藤氏(吉野郡塩湯郷地頭職)
 一 西美作   三浦氏(幕府御家人)
 一 松山城   荘氏(松山城 細川氏守護代)
 
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