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宇喜多和泉守能家(常玖)が島村豊後守に殺害された事

邑久郡砥石山城主宇喜多和泉守常玖と、同郡高取山城主島村弾正左衛門貴則は、共に浦上家の重臣でしたが、常玖は老衰して砥石山城に隠退し、島村貴則は摂津の合戦で討死しました。
 常玖の子は宇喜多興家といい、家督を相続したものの愚昧で物の用には立ちませんでした。そのため島村貴則の子島村豊後守が、浦上家の政治向きをひとりで取り仕切っていました。
 ところが、次第に快からぬ間柄となり、天文三年六月晦日のこと、島村豊後守は、先君村宗の遺命なりと称して、宇喜多氏の居城砥石山城を奇襲しました。
 常玖は、城を枕に自害して果て、浮田興家は愚昧であるうえに臆病であったから、防ぎ戦う事もせず、城を捨てて逃げ出しました。興家の嫡子八郎(直家)は当時僅か四歳であったから、乳母に抱かれてようやく福岡へ落ち延びています。
 宇喜多興家は、父の仇を討つ意志もなく、最初その子八郎と共に流浪して備後鞆に隠棲しましたが、備前福岡に戻り、同地の富豪阿部善定が宇喜多の家臣の縁者であったことから、父子共、善定のもとに身を寄せ隠れ住んでいました。興家はやがて阿部家の娘を妾とし二人の男子(忠家、春家)をもうけました。
そして、天文五年、興家は病没し、八郎直家は叔母や母に養育されました。
八郎は七、八歳までは人並みすぐれて賢明であったが、十歳を越えてからは愚鈍を装い成長したといいます。そして、天文十二年(1543)八月、八郎直家は浦上宗景に召し出され、その側近に仕える事になりました。
その年、十五歳で初陣した直家は兜首一つを打ち取って武功をあげました。翌天文十三年、八郎は元服して宇喜多三郎左衛門直家と名乗り邑久郡乙子村のあたりに知行三百貫の地を賜りました。そして、乙子城の守備を任され戦功をあげ三千石の所領を受けました。
しかし、乙子城主の頃の直家はまだ、領地が少なく兵卒は多かったので、兵糧が乏しい状況で、家臣の者共は皆自ら耕作し、また、近郷へ夜盗、辻斬りなどに出かけて兵糧の調達をしていました。それでもなお不足すれば一カ月に三度か五度は失食と称して絶食し、兵糧として蓄えるなど、あの直家の若き日には艱難辛苦の日々もありました。
其の後天文二十年(1551)、宇喜多直家は浦上宗景の指図により、上道郡沼村の亀山城主中山備中の娘を妻に迎え、備中の女婿となりました。
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