スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

宇喜多直家 勢力拡大の事(永禄二年 1559)

浦上宗景の麾下、邑久郡砥石山城には島村貫阿弥、上道郡沼亀山城には中山備中がいました。永禄二年(1559)の春、宇喜多直家は浦上宗景に、島村貫阿弥が叛いている事を密告し、討ち手を志願しました。宗景は其の忠義を、言葉を尽くして褒め称え、謀をし、誅罰を申しつけました。
宇喜多直家は妻の父である中山備中を酒宴の後、寝所へ向かうところを抜き打ちにして殺害し、城を乗っ取りました。
そして、かねてからの謀り通り、島村貫阿弥をおびき出し切り殺し、砥石山城も乗っ取りました。そして、中山備中、島村貫阿弥の所領の大半をせしめ、宗景の家臣の中でも直家に肩を並べる者はいなくなりました。その後は、宗景の指示を待たず、直家の判断で次々に、城を攻め落とし取り仕切って行きました。

上道郡龍口城に穝所冶部元常が在城していました。元常は金川城松田氏に与していましたから直家は是を討ち取ろうとしましたが、瀧口城は要害堅固な城で力攻めでは損失が増えるばかりです。そこで直家は岡清三郎(岡剛介)を使い、穝所冶部元常の男色につけこみ、殺害させました。主君を失った瀧口城は指揮が上がらず落とされました。
この結果は松田氏にとって大きな痛手となりました。
伊福郷の富山城と金川城の間に楔を打ち込まれた形となり、松田氏も伊賀氏も旭川の水運を利用しての瀬戸内交易が出来なくなり、不便な陸運に頼らざるをえない状況となりました。

文明の初め、松田将監元成が、守護赤松に叛き西備前を治めるようになってから、松田氏と浦上、宇喜多氏の戦いは終わりなく繰り返されました。
しかし、尼子氏が衰えたため、松田氏もまた、勢力を失いつつありました。この形勢をみた宇喜多直家は松田将監元成に和睦を申し入れこれを松田は受け入れました。その背景には三村氏の備前侵攻がありこれに対処するため、松田、伊賀、後藤氏と和睦し四者同盟が締結されました。
以後は浦上宗景の先鋒として左近将監自身も天神山城へ出仕しています。
浦上宗景の命令により、同盟の印として、宇喜多直家の二人の娘は、左近将監と、あと一人は美作三星城主後藤摂津守勝元に嫁ぎました。伊賀久隆には宇喜多直家の妹が送られました。

備中の成羽城主三村紀伊守家親は年来、毛利元就の麾下となって、休む暇なく尼子勢との合戦に明け暮れていました。そのため、自国の防衛が手薄となり、松田氏はしばしば、備中へ兵を出し、領地を侵犯しました。
しかし、尼子氏は勢力が弱まり、僅かに出雲の富田城ひとつ維持するにすぎなくなり、三村家親は本国へ戻り領地を固め、松田氏追討を計画しました。松田氏も宇喜多氏と和議し、備中侵攻を企てていた事をしった三村家親は、先手をとって備前に進出、岡山城を攻め、ついで舟山城を討ち、金光与次郎、須々木豊前らを降参させ備中へ引き上げました。この侵攻が備前勢同盟のきっかけとなったのです。
永禄七年(1564)、先の同盟の結果が功を奏し、瀧口城は奪回されましたが、岡山城、舟山城はいまだ三村氏に奪われたままの状況でした。
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
プロフィール

野楽人(のらくんど)

Author:野楽人(のらくんど)

最新記事
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新コメント
TOEICボキャドリル

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。