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三村家親の美作侵攻とその死(1565)

備前国は毛利氏の備前侵攻に備え四者同盟を結んで以来、防衛線がが強化され、三村家親も備前への侵入が思うにならずにいました。永禄八年(1565)三村家親は、勝山の三浦氏と伊賀氏の境目の手薄な落合から津山方面へいったんでて、吉野郷の後藤氏を急襲したが、宇喜多、後藤の連合軍に阻まれ、すぐに備中に退きました。次の永禄九年(1566)三村家親は、前年後藤氏を攻撃して失敗したので、力の弱まった三浦氏の境界線を通り、篠葦城のあたりから南下、虎倉領の垪和郷の東を通り久米郡籾村に押し出し、宇喜多攻撃を行いました。
これに驚いた、宇喜多直家は、当時浪人で虎倉領内備前加茂に居住していた遠藤又三郎、喜三郎の鉄砲上手を抱き込み、籾村の興禅寺の本陣にいた三村家親を、夜陰にまぎれて射殺しました。

この時期、三村氏、毛利氏、宇喜多氏が常に伊賀氏の領地を避け迂回して戦い、攻撃を加えていないのは、足利将軍の御家人、奉公衆、近習の立場からの流れが功を奏していたのかもしれませんが、むしろ、伊賀氏の持つ他にさきがけた火力の力の充実ぶりと鉄砲上手が多く存在していたことから、うかつに手が出せなかった事実があるのでしょう。
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