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金川合戦、松田氏滅亡の事(1568)

さて、備中、備前への侵攻を考える際、重要になるのは、その境界に位置する金川城と虎倉城です。
金川城主松田左近将監は、去る永禄五年(1562)、宇喜多直家の女婿となり、宇喜多家と同盟を結んでいましたが、直家は機会があれば、松田を滅ぼそうと伺っていました。
 時代は、尾張の織田信長が甲斐の武田、安芸の毛利を抜いて将軍義昭を奉じいち早く入京、天下統一の一歩を記しました。そのため、尼子の復興に協力した宇喜多氏は毛利の東上開拓の侵攻戦も警戒される状況でした。

 そんな中、金川城の松田氏は日蓮宗の済国利民にこるあまり、領内社寺に改宗を強要し、改宗しない社寺は焼き払う暴挙をし、又、武人よりも文人的方面に重きを置き、時勢の対処を怠り、譜代の重臣、家臣から見放されて行きました。その上、三村氏に近づく様子もあったので宇喜多氏は誅伐を決意しました。

 伊賀氏は隣国同盟国であり、領民が疎み領内から退去、虎倉領へ逃げてくる姿をみるにつけ松田氏に注意しいさめていましたが、松田氏は聞き入れませんでした。

 松田氏と日蓮宗については、
 現在備前法華と呼ばれ、隆盛を極めた日蓮宗の繁栄の基は、その昔、大覚大僧正の御巡錫の功によるものとはいえ、文明年間松田氏の菩提寺、伊福郷の真言宗福林寺の座主が大覚大僧正との法論に敗れ、日蓮宗に転宗したことに始まります。この事によって、松田氏も帰依し、寺号も妙善寺と改め、又、一寺を創設し、自分の法号をとって蓮昌寺と名付けました。
 松田氏は日蓮宗の云うところの、立正安国によって現世に浄土を導くという理想を樹て京都の貴人等とも深く交わって、理想的な面での済国利民を考えたのですが、時代には合わずその理想は達成されるどころか、疎まれました。しかし、日蓮宗は、のちも広く人々に受け入れられ、宇喜多氏の時代も引き継がれ、世にいう備前法華隆盛の基は、大半が松田氏の功績によるところです。

 一方、伊賀氏の本拠地長田庄においては、日蓮宗はほとんど信仰されず、伊賀氏自身は天台宗を基本とするものの、強制されることなく、寺院創設時の伝統をそのままにして、元の宗旨が伝わっています。この一事でみても、当時の両者の思想の影響は今なお人々の間に生きているのです。

 松田左近将監は、従わない金山観音寺や吉備津宮を焼き打ちしましたが、伊賀氏は信仰心厚く寺社の保護に勤めており、特に備前の者にとって吉備津宮は特別な存在ですので、たいそう心を痛め、いかに松田氏が鎌倉以来の盟友であるとしても、戒めを受け入れないこと、時勢が切迫している事から、不和となっていました。

 宇喜多直家は、松田家の失政に付け入り、取り敢えず、有力家臣である宇垣与右衛門を鹿狩りと称し、撃ち殺しました。
 そして、永禄十一年(1568)、七月、伊賀左衛門久隆、与三郎父子に「近頃専らの風聞では、松田左近将監は余に二心を抱いている由、よってこれを討ちはたそうと思うが、さてどうしたものであろう」と相談を持ちかけました。
 これに対し、伊賀父子は、「昔の松田であればともかく、今の松田であれば、これを討ち滅ぼすことはいともやさしいことであります。松田討伐とあれば、わたくし共がその先手を勤めましょう」と請け負いました。

伊賀氏にとって、金川城は同盟として東南方面の守備の重要な位置にあり、北西側からの毛利方への備えに加え、南方へも防備を二分する事は大変です。二国同盟して、東南方面は松田、北西方面は伊賀が主力となって防衛線を張って守ってきた状況から、金川城、富山城、その城下に他国の勢が自由に通行するのを見逃す状況は虎倉城にとって危険きわまりない事ですし、時勢の緊迫に敏感に一刻も早く対応していくことが自国を守る手段ですので虎倉防衛のため、四者同盟を三者同盟に切り替えても維持のためには、もはや、同盟国松田へ攻め入る事もやむをえない事でした。

 そして、約束の七月五日、直家は、百騎ばかりを率いて赤坂郡の矢原村に進んで陣を敷きました。
 伊賀久隆は、かねて忍びの者を城内へ潜入させていたから、五日の夜、金川城の道林寺丸へ人数を忍び込ませ、これに鬨の声をあげさせました。ちょうどその時、左近将監は城外に出て留守でしたが、家老横井又七郎は直ちに手配りをして、城の諸門を固めさせました。伊賀の軍勢は鉄砲を撃ちながら本丸を攻め立てました。
この異変の報を受けた左近将監は城に馳せもどり、搦め手の門から城に急ぎました。横井も人数を出して左近将監を迎え入れ、追撃する伊賀勢に弓、鉄砲を放ってこれを防ぎました。
櫓に登った左近将監は伊賀勢に向かい、
 「お前たちは何の理由があってわれらを不意打ちするのか、理由があるなら申してみよ」と呼びかけました。これを皮切りに暫く言葉合戦が続きましたが、やがて伊賀勢の兵士が櫓の上の左近将監をねらってこれを射ました。
 その翌日六日、直家の軍勢は伊賀勢と合流し朝から晩まで息もつかせず攻め立てました。しかし、要害の地で、容易に乗っ取る事はできないまま夜となり、城側は大勢が討死し守りを続ける事が困難なっていましたので翌七日の払暁、松田孫次郎、左門兄弟は密かに城を忍び出て、備中を目指して立ち退きました。
大将が落ち延びると、部下の将兵もまた多く城を捨てて退去したのを見て、伊賀久隆父子はしきりに兵を励まし、一の城戸、二の城戸を攻め破り、本城内に攻め込んだから、城に踏みとどまった松田家譜代の郎党達は枕を並べて討死し、ついに金川城は落城しいました。
 松田兄弟は、若干の家来を連れ、西の山伝いに下田村まで逃げ延びましたが、虎倉城からこのあたりまで伏兵を置いていたので、見つかり、切りあいとなり、松田孫次郎は討死しました。弟の左門盛明は雑兵に紛れて危地を脱し、備中へ落ち延びました。

この戦いで、伊賀方の片山与一郎の鉄砲の活躍が吉備群書集成には所々に述べられています。片山氏はこの功により赤坂郡土師方を領知しました。

  片山氏領知状
  今度、金川松田方城忍取、片山八郎左ヱ門打取候事、無比類候、為褒美自直家はぢかたの内吉田村被遺候、即請取人を入可申候、仍感状、如件
  八月十一日        久隆  花押
  片山与一兵衛殿

 金川城戦で鉄砲の名手として勇名を馳せた片山氏に対し、松田領であったはぢかたの内、吉田村が功賞として贈られたのです。
この戦は、宇喜多の持ちかけたものであるから、その功賞を宇喜多が贈るのは自然ですが、この時点で直家は次の目標を定め伊賀氏の兵力確認もし、伊賀氏の内に通じておきたかったのかもしれません。

  「文中自直家はぢかた云々」は、直家よりはぢかたの内を与えるので、請取人を入れるように言ってきたという文面であるが、直家に対する伊賀久隆の対応が判る文面で、直家殿でも直家様でもなく、同輩以下と見ている文と知る事が出来るのです。
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