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虎倉合戦 2

毛利氏は芸州勢の精鋭をもって本隊を編成し、一気に備前虎倉城を落とし東上の陸路開拓、備前侵攻をはたそうと大将毛利輝元自ら芸州吉田を出陣、副将小早川隆景沼田の城を出立、備中松山城に到着しました。(陰徳太平記)
先ず、虎倉城の出城、美作方面に攻撃をかけ、美作寺畠城を攻略しました。(毛利史料集)
続いて、美作城全て毛利の占領する処となりました。中津井の佐井田城は永禄十年以来宇喜多側の植木氏の居城でしたが、毛利元清に討たれ、幕下の前原左ヱ門、熊谷玄蕃が城番として滞在しました。
虎倉方の中津井、水田、有漢の城も次々と破られ、遂には国境の四畦、飯山の両城も毛利の手に渡りました。(虎倉写記)四畦城は高橋右馬允資高、飯山城は山県三郎兵國吉が城番となりました。
更に、毛利輝元は、美作城攻略後、有漢を経て本陣を竹ノ庄に移します。これによって、竹ノ庄、吉川方面が主戦場となり、伊賀方は多数討死しました。大畑城、藤沢城も毛利氏の手に落ち、粟屋与十郎が城番となりました。(虎倉記)吉川方面でも、丸山城、菅野城陥落。備中猿掛城主穂井田元清が備中福谷、岩田、高田方面から攻撃、これにより勝尾城、六本木城が落城。更に馬屋上、野谷、日応寺方面にも攻めよせ、毛利の大軍の前に、虎倉城の防備は次々と破られていきます。毛利氏は虎倉城総攻撃を四月十四日と定め、輝元自ら、有漢飯山の城から竹ノ庄に本陣を移しました。
まず、有漢飯山を出発した山県三郎兵衛の北部隊は、笹目から新山民部の守る尾原城を抜き南下。輝元自ら指揮して、福山城を虎倉城攻めの前線基地とすべく、旗本らを派遣し、自ら藤沢城へ入りました。

  福山御取付の為備中竹ノ庄に至って、輝元様、隆景様、御陣替成され候備中の有漢と申処より福山へ御陣替候時小姓衆夜ごめに御先へ罷り越され候。福山より二里程候て虎倉の尾顎へ行き懸られ候。(毛利史料集)

  輝元、隆景、芸州吉田、並に沼田の城を発足して彼の地に上り、先ず、虎倉城に付け城を構えられるべき為に多気ノ庄に至って陣を移されければ、福山に在る所の敵堪え難く退散す。これにより福山城を修理して、軍士を入置くべしとて、有漢と云う処より福山に入り給ふ。(陰徳太平記)

 この二つから、輝元は本陣を福山城に移し、自らもこの城に入ったものと見られます。
 福山城では、尾原城を撤収した新山民部、伊賀兵庫の両軍が福山城に籠っていましたが、寄せてくる粟屋与十郎、山県三郎兵衛の軍に僅かに抵抗しただけで上加茂に退きました。十カ城も同じく退きましたが、毛利方はこれが伊賀久隆の作戦とは知らず、大軍に恐れをなしたものと思い込み一気に虎倉にせまるべく、夜どうしかけて上加茂の清常山に至り、粟屋与十郎陣を置き、更に坂を下って夜の明け染める頃、全軍上加茂の谷に集結した。夜明けと共に加茂川を渡って虎倉城の大手に迫る予定でした。(吉備叢書)
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