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虎倉合戦 3

「備前軍記」
四月十三日、毛利輝元の畑本の将 児玉小次郎元兼、粟屋与十郎、神田宗四郎らは、旗本組の軍勢を率い、大挙して藤沢村を進発したが、近辺に敵の姿はみえず、備前の津高郡上加茂村まで進んだがなお敵兵の影はなく、やがて夜もほのぼのと明けて行った。それでは一挙に虎倉城に攻めかかろうと軍勢を整え城に迫った。
 虎倉の城内の者も、毛利勢が上加茂村に侵入し、やがて攻めかかると聞いて、城の近辺の嶺筋に弓、鉄砲三百挺を配備し、物陰にひそませていた。そこへ粟屋与十郎、大田垣某らが攻め寄せてきたから、伏兵たちは存分に引きつけておいて、山上より弓、鉄砲を撃ちまくったから、寄せ手はひと攻めも出来ず浮足立ってしまった。そこへ伊賀の軍勢が城中から繰り出し、槍をふるいついて掛かったから、毛利勢は総崩れとなって逃げ始めた。粟屋与十郎は陣容を立て直そうと、押し返し押し合い戦ったが、伊賀の家来の片山与七郎が川越しに鉄砲で与十郎を撃ち落とした。与七郎の仲間が川を越えて与十郎の首を取ったが、続いて太田垣某も討ち死にした。
 大将の粟屋、太田垣が相次いで討ち死にしたため、残兵は戦意を失って逃走したが、伊賀の軍勢は厳しくこれを追撃した。毛利方の児玉与七郎、名護屋与十郎、井上源右衛門、中島瀬兵衛、小寺右衛、転藤右衛門らは、上加茂村のうすい谷という所に踏み留まり、押し返して戦ったが、これもついに全員討ち死にした。神田宗四郎は四ヶ所に疵をうけ、討ち死にする寸前であったが、粟屋孫次郎が自分の馬にだいて乗せ、自分は追手を斬り払いながら引き揚げた。
 また児玉小次郎元兼も剛の者で、追撃する伊賀勢を何度も突き払い引き揚げ、満身に多くの疵を蒙った。しかし、それをものともせず、小高い所へ馬を乗りあげ、大音声をあげ、返せ返せと浮き足立った味方を励ました。
この時熊谷玄蕃、岡宗左衛門も殿軍を勤めて引き揚げ、井上七兵衛も弓の達者で、追い縋る敵を射払いながら、共に児玉小次郎のもとに集まった。そのほか敗残の兵も児玉の声に励まされて踏み留まり、合わせて百騎ほどになったが、児玉はこれをまとめ、「をき坂」まで引き取った。
 伊賀の追手はなお執拗に追い縋ったが、毛利勢百騎ばかりのうち、三澤摂津守とその郎党の野尻蔵人の主従が取って返し、暫く追手を支え、その間に毛利勢は備中に引き上げた。伊賀勢も軍勢をまとめ引き揚げにかかったが、伊賀の家来土井某の馬が、俄に猛り狂って駆け出し、如何に手綱を引いても止まらず敵中に駆け入った。これをみた河原六郎左衛門は、馬に駆け寄り土井を討ち取った。
 この河原六郎左衛門は、もともと伊賀の家来であったが、わけがあって追放され毛利家に仕えていたから、今度の合戦に備前の案内者に選ばれてこの陣中にあった。そのためこの負け戦を自分ひとりの恥辱と思い、責任を感じて殿軍に加わっていたが、はからずも土井某を討ち取り、やっと面目をほどこした。

 またこの寄せ手の毛利勢のなかに、山県三郎兵衛という侍がいた。山県はかねて粟屋与十郎と断金の契りを結んだなかであったが、この日の合戦のとき敵に隔てられ、粟屋与十郎と離れ福山まで引き退いたところで、粟屋が虎倉の城下で討たれたことを聞いた。山県は
「常々粟屋と、死する時は一緒に死のうと約束していたにもかかわらず、引き退いて生き残ったことは誠に面目ない。黄泉の世界で巡りあったとき、何と申し開きができようか}とすぐさま取って返し、ただひとり虎倉の城下へ攻めのぼり、大音声をあげ、
「某は山県三郎兵衛と申す大剛の者、思う仔細があって討ち死にしようとここに戻って来た。城内の方々よ出逢いたまえ」と名乗りをあげた。
 城内の者たちは、天晴れ剛の者よと感心し、われこそ討ち取って手柄にしようと、十人余も出て戦った。山県はかねて死を決めていたことゆえ、散々に戦いついに討ち死にしてしまった。
 この日毛利勢の討ち死にした人数は百三十余人、手負いの数ははかり知れなかった。
 虎倉の城兵は、馬が暴走して討ち死にした土井某の他は討ち死にはひとりもなかった。
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