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虎倉合戦 4

「岩田村誌」より
 毛利氏備前に入らんとて先ず宇喜多方である虎倉城を攻めんとする。天正八年春、毛利輝元、小早川隆景五千騎を率いて備中に出で竹ノ庄に陣した。毛利方案内者として元、虎倉の家臣、河原六郎右衛門先陣を承り、先ず備前備中の境である藤沢城(下竹ノ庄仁熊)を固めて一気に虎倉を屠ろうとする。
 当時、伊賀氏は、備中の押へとして十力城(福山村高谷)福山城(福山村高谷)を築き、一族、伊賀伊勢守、伊賀兵庫頭をして之を守らしめた。
 四月十三日、未明毛利の将粟屋与十郎、太田垣源右衛門先陣となり、同勢二千騎河原六郎右衛門を案内とし河を渉って萩坂(俗におぎ坂という)より福山城を攻む 小城のこととて一溜りもなく攻め崩され、十力城も敵し難く城を捨てて、急を虎倉に告ぐ、伊賀方では、毛利軍備中出陣以来、来地の兵を集め備へを固くし、準備調ひければ直ちに城を出でて上加茂に向かう。
 加茂川を前にし虎倉への本道三宅坂(上加茂)に陣し、坂頭には大将伊賀久隆副将神原備中、同三百余騎で陣を取り左方は河原越中百騎許りにて河を渡りて百々(どうどう)に、右は新山兵庫白坂を下り、河を渡りて八幡山に陣す、兵数百五十騎、河原源左衛門は、二百を以て白坂に河原七郎、土井治郎右衛門は広面(ひろも 陣地不明)に河田平内は九折堺(つづらさかい)に、先陣後陣備を堅め兵数凡そ千五百騎毛利軍の至るを待つ、日既に暮れかけたが、毛利勢寄せ来らない。各陣地篝火を焚いて警戒する。勝ち誇ったる粟屋勢は十力を過ぎ平岡に出で清常山に進み、将に伊賀軍に迫らんとする。案内者、河原六郎右衛門、地の利を説いて進軍を沮み、清常山に本陣を置き臼井谷に遊軍を出し、先陣は、上加茂川を控えて清常坂に陣し以て夜を徹する。
 明くれば四月十四日春暁霧をこめて両軍の形勢認め難き頃、粟屋勢河を渡りて三宅坂に迫る。虎倉方盛んに砲火をあびせたから寄せ手崩れて坂下に退いた。かくと見た粟屋与十郎馬を飛ばし雨と降る弾丸を事ともせず、士卒を下知し右往左往に駆けまわる中馬を射られて清常坂に退き一息つく所を虎倉方の鉄砲上手片山与七郎向う岸の柳の木陰より狙いて唯一声に胸板を撃ち抜き葬る所を片山の仲間、河を渉りて首を取る。
 此の時毛利軍の大半は河を渡り山伝いに三宅坂に攻め寄す、虎倉方、河原越中、土井治郎右衛門は臼井方面の敵を拒ぎ、白坂勢は八幡山の勢と合し、奧谷(上加茂)より宮畦に出で、清常山の残兵を追撃し戦まさに酣ならんとす、たまたま虎倉の葛原三之丞弓にて敵将太田垣を射斃した。大将二人を失いたる毛利勢は浮足見えてあったので、伊賀の本陣一度に打ちてかかる、毛利勢崩れ立ち討ちたるるもの数知れず、斯くては寄せ手の恥じなりと児玉与七郎、名護屋与十郎、井上源左衛門等臼井谷にて返し合い奮戦の上討ち死にした。
 神田宗四郎は深手を負うてすでに危うく見えた所に、粟屋孫次郎吾が馬に抱き乗せて退かせ、己は追い来る敵を斬り伏せ、悠々と退いたのには、虎倉方も感じ合うたことである。(略)

 虎倉勢も長追いせず虎倉に入った。此の時追手の将土井三郎右衛門の馬俄かに暴れ出し、敵中に駆け入る、折りしも河原六郎右衛門今日の敗軍を己一人の恥辱と思い、殿して退かんと雑兵の中に混じっていたが、土井之を見てかねて見知れることであるから、駆け寄り組み合い、馬と馬との間に落ち重なり、組みしいて遂に首を取る。

 毛利方の一人に山県三郎兵衛という者があった。飯山(上房郡川関)の城主で先祖は源三位頼政、美濃国山県郡に住し氏を称す。
 此の日寄せ手に加わったが、かねて粟屋と刎頸の交があった。
 今日しも味方敗軍にて粟屋と離れ離れとなって藤沢の城まで退いたが粟屋の討ち死にを聞いて「死なば一所と契ったのに今や粟屋の死をも知らなかったことこそ口惜しいことだ」と唯一人、虎倉の城へ取って返す。頃しも春の半ばの事であるから、山躑躅咲き乱れ紅染むるその中に味方の横はるは、花か血汐か見え分かず、無念の涙噛みしめて臼井谷を駆け下りて三宅坂へさしかかると、虎倉方は新山兵庫殿して引取る所である。坂下より大声あげて毛利方の山県三郎兵衛国吉という大剛の者である。思う仔細あって討ち死にしようと引き返した。我と思わぬ者は出会い候らへと名乗かかれば、虎倉勢、それ討ち取れと二三十人打って出る。山県素より覚悟の前、真一文字に駆け上がり息もつかず戦い手疵を多く負うたから、今はこれまでと馬をうちすて、小高い所に駆け上がり、腹十文字に掻き割いて、伏したることは、武士の鑑と褒め称へぬ者はなかったということである。
 
 此の日、毛利方の討死に二百五十余、手負数知れず、虎倉方は六十余人、手負少々あった。
 輝元味方深入りして敗れたと聞いて本陣を五十余町進め、虎倉方は福山城を固め、清常山にも砦を置き虎倉へ帰る。
 さる程に毛利方は、山路嶮しく進軍に不便なるを以て虎倉攻めを断念し桂原右衛門等を藤沢城に残して輝元、隆景は、五月五日、松山城に引き取った。
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