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虎倉合戦 2-2

虎倉合戦図


明くる天正二年四月十四日、虎倉方は、かねての作戦通り、城の大手の要害の白坂、三宅坂、広面方面に主力を配置し、伊賀久隆は三宅坂の中腹に本陣を据え、伏兵を八幡山、臼井等の要所に配置し、敵陣を今やおそしと待っていました。この朝は、霧が深く敵味方が判らぬほどで、虎倉方にとっては好都合ででした。
 戦いは、まず、片山与七郎の指揮する鉄砲隊によって切って落とされました。弓、鉄砲三百挺ばかりで峰々、谷々に走り渡り、差し回し差し回し射たて攻めます。
 粟屋与十郎の隊はたちまち混乱し、粟屋は戦死しました。狭い谷間に引きいれられた毛利の大部隊に対して、虎倉方は包囲の形で思うままに攻撃したので、毛利軍は逃げるに逃げられず、攻めるに攻められず、大軍は、散々に崩れ去ったのです。
 この戦いの損害は、毛利方の死者三百三十余人、負傷者数知れず、虎倉方は、死者土井惣馬一人、負傷者四、五十人とのことでした。なお、鼓田、宿の砦では毛利の穂井田元清が備中から攻め入り、河原源左衛門、河田七郎の救援が間に合わず、討死にしました。これは、もし、宇喜多が伊賀に援軍し後詰を入れれば防げたもので、宇喜多はなぜ援軍しなかったのか、なぜ、動かなかったのか、姻戚関係にあったとしても主従の関係ではなかったからでしょうか?直家も伊賀氏に対し、毛利に滅ぼされれば、手間が省ける、力を削いでおいたほうがよいと思ったのでしょうか?しかし、現実は、毛利氏の侵攻は大半が備中からの侵入で、南部や海上は毛利に押さえられていましたので、伊賀氏が街道筋で防戦しなければ、宇喜多はほとんど足元まで毛利に攻められていたのですから、伊賀氏が突破されると防備出来ない状況は当然緊迫の状況下のはずですが、、、。突破されれば、毛利に迎合し、再び転身するともりだったのでしょうか?

 この戦いの激戦地は、加茂川臼井谷、萩坂、百百(ドウドウ)で、猛烈な追撃戦が繰り返されました。そのような状態の中で、虎倉軍が一方的に攻め立てる戦が終日続き、ようやく毛利軍が退路を開き撤退を始めた頃は、長い春の日も傾きかけ、加茂市から下土井を経て和田を通り、加茂と有漢の境の大平山の甍に掛る頃は、暗夜となり、昼間に徹底的にやられた恐怖から混乱に陥り、統制さえ危うい状態となり、天福寺に火を掛け大松明としてようやく有漢に辿り着いたという事です。
 西国の覇者 毛利輝元、智将 小早川隆景、この両者が陣頭指揮を執った虎倉城攻めの結果は、毛利氏にとって散々で毛利史上、もっとも完敗した「加茂崩れ」となったのです。

 「虎倉記」
 「伊賀左衛門殿も二十丁計打、先備は土井治郎兵衛三千余騎にて、敵陣向の山に陣取、二の備は新山兵庫と河原治郎、千三百余騎上加茂八幡山に備へ、左は河原越中千五百騎川屋村に陣取、神原備中は旗本千二百騎、久隆後備は、河田平内三百五十騎、退備へ白坂は河原六郎右衛門三千騎上野へ備へ、備中境勝田孫右衛門二千騎宿村に備へ、河原源左衛門、土井治郎左衛門、坂部蔵人五百備へ、各軍法を守、敵を谷へ追下し、難所に引受取巻討つべしと相議して (略)    」


 毛利方は、総力あげての戦いの意地からも、果たさなければならない虎倉攻めであり、策を練ったであろうが、二十日後の五月五日、備前侵入を断念して松山城に帰陣しました。
 天下制覇を目指す毛利にとって虎倉敗戦は重要な時期の大きな挫折となったのです。

 大勝した虎倉城主 伊賀久隆は、この戦いで最も功のあった葛原氏、片山氏、多児文書によれば多児氏などの武将に閉門を申しつけたとのことです。意外な処置ですが、伊賀左衛門尉久隆はこの戦いの戦果をもっと大きなものにする作戦を立てていたのでしょうか?毛利輝元を福山城まで引きこんでおきながら、仕掛けが速く本陣を逃してしまった事を責めたのかもしれません。
 完全に、毛利輝元、小早川隆景のいづれかでも討ち取る算段だったのでしょう。

 しかし、これで、長年の憂慮する材料が減り、伊賀領である竹ノ庄、吉川方面が度々侵される事が少なくなり、長田が戦火に巻き込まれる事が少なくなる事は虎倉にとって大変喜ばしい戦果でした。
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