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虎倉合戦 5 奧宿鼓田城が攻略された事

奧宿鼓田城 攻略さる

虎倉城の南西大手の鼓田山頂の南、宿村の更に南の備中境に備中大井方面に対する押えとして奧宿鼓田城がありました。
ここは、後に忍山城攻略の際、毛利が本陣を置いたところで本陣山ともいう場所です。
天正二年四月、毛利氏虎倉攻めの時、伊賀左衛門尉久隆は、家来の河原源左衛門、河田七郎に足軽五十人を添えて守らせていました。

此の砦を任された河原氏は、鍋谷城主の河原氏とは別の系列で(元は将軍足利義輝の臣)、浪人して宇喜多家中にあった時、永禄六年の伊賀左衛門尉久隆と宇喜多直家の同盟の際、虎倉城に来た宇喜多氏の妹の付き人として来住し、虎倉城下(宇甘西 市場村)平松屋敷に居住し、弟平内は加茂の内和田、京ぐろという所に住したといいます。

毛利勢の南部方面隊大将、穂井田元清は大井庄を席巻してこの城を攻めました。
城といっても、小規模の砦で、少人数では、とても毛利の大軍に対抗出来るものではなく、守将河田七郎、河原源左衛門は救援を乞うたのですが、虎倉も大変で、応援が間に合わず、攻め落とされ、河田七郎は討ち死に、河原源左衛門は負傷して虎倉へ逃れるべく百谷の東の滝まで来た時、滝のほとりに隠れている際、敵兵に見つかりました。
それを見つけた敵兵二人が谷を越えて馳せよってきました。
源左衛門は、
「某はもはや見ての通りの深手の身。わしの首なら手柄になろう。くれてやるゆえ、ゆっくり近寄って首をとれ。」
といって、脇差を腰から抜いて投げ出しました。安心した敵は首級を挙げようと近寄ってきました。その時、とっさに、源左衛門は、二人の敵を左右の脇に引き挟んで、滝の流れ落ちる谷底へ飛び下りて死にました。
砦の中で討ち残された者たちは虎倉へ戻り、源左衛門の最後をこのようにつたえたとの事です。

この戦は宇喜多が少しでも、後詰を入れ、援護していたなら、二人の死はなく防げたはずなのです。
東は皆、織田方に与して、動こうと思えば宇喜多には何の不安もなく動ける状況だったはずなのに、、、。


これより少し前の頃の虎倉城の将達の段取りは以下のようでした。

 一に 土井下総
 二に 鶴旨三郎兵衛
 三に 神原備中
 四に 河原六郎右衛門
 五に 新山民部
 六に 河田平内
 
右盃の次第是の如くなり
 家老 土井下総
 同  新山民部
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