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尼子氏上月城に滅す(1578)

毛利氏の先鋒として、宇喜多氏は播州路に攻め入り、織田方の諸城を落とし上月城に入りましたが尼子氏に奪回されてしまったので、宇喜多直家は、再び軍を進めて、上月城攻めに備前勢を投入しました。こうして、織田軍羽柴秀吉の軍と上月城をめぐって激戦が展開されることになりました。毛利、吉川、小早川三氏も加勢し、総勢六万後千騎をもって上月城を取り囲みました。これに対し、秀吉も上月城救援に四万騎を率いて出陣、あわや、天下分け目の大合戦の様相となりました。織田信長は、長男信忠、二男信男、三男信季に八万の大軍を添えて援軍に向かわせましたが、明石あたりから進まず、秀吉に退軍を命じました。

天正六年五月二十九日、尼子孫四郎勝久、尼子助四郎通久は自害して、尼子家は滅亡、山中鹿之助は「尼子兄弟は弓折れ、矢種尽きて自害した。一命を助けて下されば、芸州家の先陣に加わり忠節を励みたい。一命を助けて下さるよう取持ちをお願いしたい。」と告げて降参しましたので、毛利三将で評議され「鹿之助は主君を再三取り立てて戦った誉れ高い勇士である。一命は間違いなく助ける。今後、当家のために忠節を尽くすならば、周防の徳地庄で、五千貫をあてがうので、急ぎ下城されたい」と伝えられました。

六月毛利の三将は将軍義昭に上月合戦の報告をし、尼子兄弟が切腹し、山中鹿之助が降人した事を報告すると、義昭公は、「鹿之助は永禄の初めに我が祖父の威を借り、毛利家を攻めたが、攻め落とすことが出来なかった。今、また我に背いて信長に随身し、勝つ事が出来なかった。身の置き場が無いために降参したのであり、仁義を尊ぶ勇士ではない。後戦の種になる人物である。芸州へ下る道中で討ち果たすがよい」とおおせられました。
このため、天草五郎右衛門を打ち手に決め、検使として福間彦右衛門が後に付き添い、備中高梁川、阿恵の渡しにおいて斬り合い討たれました。
山中鹿之助は武勇の達人として天下にその名を知られていましたが、天命を全う出来ず、三十九歳で討ち滅ぼされ、名を後世に残し、これを惜しまない者はありませんでした。

この合戦には、備前、作州の将士が挙って参加し、伊賀氏一族も出陣しました。この時、宇喜多直家は病気と称して出陣せず軍勢だけを送りました。直家はすでにその頃、織田信長の力量は天下を制するものと睨んでいました。

信長が将来天下人になるであろうと予測した宇喜多直家は、播州戦には一度は出陣しましたが、その後は出陣せず、岡山城に籠って、ひそかに羽柴秀吉に意を通じ、信長への取持ちを依頼したのでした。信長はこれを容易に受け入れず、返って一旦は拒絶しました。この時、世上には宇喜多氏の毛利氏からの離反の風評は流れていたので、身の危険を感じた直家は、岡山の商人小西弥九郎に依頼して境の商人小西寿徳を通じて、信長と秀吉に周旋を頼むと共に、直家が織田氏に従った時、最も障害になるであろう虎倉城の乗っ取りを画策したのです。

将軍を保護する側に立つ毛利氏から離反することは、すなわち、将軍の臣として従う伊賀久隆の虎倉城と毛利氏の軍を引き受けることになるので、まず虎倉城の勢力を削ぐ事が直家の身の安全を図るうえで最も必要な事項となりました。
そので、伊賀久隆への毒盛り事件となるのです。伊賀久隆もある程度直家の企てを予測しながら、本心を確かめるべく宴席に臨んだものと思われます。
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