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天正七年三月、伊賀左衛門尉久隆逝去の事

上月合戦にて織田軍 羽柴秀吉と対峙した宇喜多直家は、織田軍の脅威をまざまざと知り、織田軍に加えてもらおうと小早川隆景、吉川元春が播州からの帰陣の際に岡山城に立ち寄るよう仕掛け、これを討ちとろうと密計しました。
しかし、直家の家臣が毛利家に内通し、密計を事前に知らせたので、小早川隆景は海路を、吉川元春は作州路をとり、帰国しました。
直家は、この度隆景、元春を饗応し、討ち手を掛けて討ち取り、その首級を織田家への忠勤の印に献じ、信長の威を借りて備中、備後までも奪い取ろうと謀ったがこの謀計も水泡に帰してしまいました。
しかし、直家は素知らぬ体を繕って毛利家とも親しい関係を続けたのです。

そして天正六年九月、宇喜多直家は、将軍義昭公が鞆津に在してから毛利に一味する伊賀左衛門尉久隆は上方に一味するのに弊害となるであろうことと、先の虎倉合戦の戦果からその実力をライバル視しており、「そろそろ押さえておかないといずれ自分の体力がなくなると足元をすくわれるのではないか」との想いから久隆殺害を企てました。この頃の直家は未遂になりましたが播州からの帰路の小早川隆景、吉川元春を狙った時等、饗応による殺害を企てる作戦が目立つようになりました。

難波半次郎
 「殿、私の得ました毛利方の情報によりますと、伊賀久隆は内密に毛利方に内通している由に御座います」

 半次郎は元来、外様である伊賀左衛門尉久隆の威勢が強くなっている事を快からず想い、討ち取って首級を持って毛利方に走ろうと策略し、直家に讒言しました。

宇喜多直家は、讒言であろう事は気づいていたが、これを幸いと一気に殺害への謀計を策略し、饗応を装い討ち取る事にしたのです。

饗応当日、岡山城の招かれ、着座したところ、宇喜多の料理人で伊賀の家来の所縁の者が配膳の際宇喜多方の隙をついて「本日の料理には毒が入れられています。解毒剤を服用下さりませ」と密かに告げました。
驚いた家臣が、解毒剤の服用を勧め、切り結んでもこの場を逃げるべく行動をするため刀を手にしようとしたが、久隆は静かにこれを制し、「今、ここで解毒剤を飲んだとしても、直家が狙ったならぬかりはあるまい。毒を食らうのを見届けねば、ほれ、襖の向こうはすでに殺気だって構えておるわ。この場で首をくれてやるわけにはゆかぬ。それに、今、我が切り結んでこの場を逃れられても、事の次第を知らぬ与三郎にも手が及んでいるやもしれぬ。我が死んでも、与三郎が岡山屋敷を抜け出て無事虎倉へ戻る事こそ大事よ。」
「直家が狙ったのであれば、今毒を解いて難を免れてもとても生かしてはおくまい。終に死なん命、城に籠りて討ち死にするこそ本望なれ」と気概を見せ、落ち着いて何もないように毒入りの料理を口にして見せた。久隆が毒入りの料理を口にするのを確認し、直家は事はなしたと控えの座に構えていた打ち手は使わず、そのまま饗応は終わり伊賀久隆は岡山城を脱出し、伊賀与三郎に報を告げる使者を立て、自らは虎倉城へと急いだ。

「宇喜多が攻め来るぞ。急ぎ防備を固めよ」久隆は解毒剤を服用したが、すでに時間がかなり経過しており、痺れを感じながらも段取りを指揮した。
門という門を閉め固め、岡山の討ち手を待ち構えたが直家の追手はすぐにはやってこなかった。

翌天正七年三月十六日、伊賀久隆は虎倉城周辺で狸狩りを行い、皆で狸汁を食している最中、昨年宇喜多直家に盛られた毒の障りによって、血を吐いて死んでしまいました。

   伊賀左衛門尉久隆

   賢徳院殿恵光浄英居士
    天正七年三月十六日 没

 戦国乱世において、虎倉城を安泰に置いた知謀の将、人は一騎当千の将と称えた伊賀左衛門尉久隆、優れた才覚を遺憾なく発揮し七十有余年、ここに眠る

正に院号の如く、賢徳の人物で部下をよく収攬し、大局をあやまらず二十万石の大名となった。
鎌倉時代の伊賀氏全盛には及ばずとも、正に壮観であった。

ちなみに
   室 宇喜多女
   雲照院殿齢岳永寿大姉
    天正六年九月二十五日 没


伊賀家久は、父の遺領を相続し、左衛門尉に任じ伊賀守に叙せられました。この時、諱を隆家から家久と改めました。
   伊賀与三郎隆家 → 伊賀伊賀守左衛門尉家久


また、伊賀久隆の死を記す書には
城に帰って即日、急死とするもの
翌年まで生きていて狸汁を食って死んだとするもの
鈴木孫右衛門宛の感状の日付から、天正7年ごろまでは確かに生きていたという説
があります。
急死したなら、伊賀家久の動き(毒盛り後に当日虎倉にいて、その後、もう一度、沼の城に行っていた(?)、
久隆が殺害された後も、憎き宇喜多側に立ち四つ畝合戦や竹ノ庄の地下人による一揆騒動等の糸を引いていたとの動きは不自然ですね。少し、発生年と久隆、死亡年、伊賀と宇喜多の関係変化の時間考証が必要でしょうね。

狸汁は狸(直家)の汁(饗応の馳走)を食って死んだ事かもしれませんね。
虎倉だったら何も臭い狸でなくても鹿でも野兎でもいいのに、、、とは狸に失礼でしょうか?
最近は、虎倉城でも猪の跡が頻繁ですね。



急いで与三郎を呼び、虎倉城を固め宇喜多の討ち手の来襲に備え虎倉の城門を固めました。そして、与三郎は、宇喜多に対抗するため、毛利方に伊賀久隆の死亡を告げ、味方の要請をしました。
そして、これを受けた小早川隆景は、「当家へ与する幕下の急難を救いたまわずは後日、当家へ随身の味方あるべからず」と時日を移さず領国へ軍勢の催促あり小早川隆景、毛利元清、宍戸隆家一万余騎にて出陣、隆景は宮路山に、元清は冠山に、隆家は信倉山に陣し、清水宗則、中島元行等鎌倉山、茶臼山等にそれぞれ陣営して忍山の城に迫りました。

伊賀与三郎家久は虎倉より勝尾山日応寺まで出て小早川隆景に謁して忍山城攻略の事を請うも、隆景「此の度は御帰陣、重ねて出陣の節、忍、金川等浮田の持城を仕置きすべし」と命じられました。
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