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宇喜多直家、「梟雄」「奸雄」の名を残し、天正九年没す

権謀術数にたけ、悪辣なる手段を用いて領国を拡大していった「梟雄」、あるいは「奸雄」として有名な宇喜多直家の経歴は、僅か四歳の時、島村豊後守に砥石山城を奪われ、流浪の不遇時代を過ごし、備前福岡にて暗愚を装い、隠棲したのち、母の助けにより、浦上宗景に仕え、初めて乙子城を預かったところから始まります。

当初は、近郷へ夜盗、辻斬りなどに押しかけ食いつないでいましたが、徐々に頭角を表しました。
そして、妻の父の居城を奪ってから後、浦上氏の勢力拡大に中心的な役割を果たしています。

手に余る者には、自分の娘や姉妹、或いは親類の娘を養女として、縁組を成立させて親類の体を表し、時節を見はからった上で毒殺したり、闇討ちして寝首をかく(暗殺・謀殺)行いを駆使しその領土を奪い拡大していく悪逆非道・残酷無比の繰り返しにより、備前の雄として君臨しました。
仁も義も忠も信も関係なく、己の野望のため、手段も選ばない冷酷無惨な宇喜多直家も、ついに天正九年(1981)二月十四日、亨年五十三歳にて没しましたが、その翌年まで死を隠し、秀吉に庇護を頼み、その跡目はわずか十歳の八郎秀家が相続しました。

宇喜多直家の出目は、児島氏の後禽とするも、よく分からず、初めて従五位下和泉守に叙せられたのは、死のわずか二年前のことでした。
それまでは、備前の覇者でありながら、無官の成り上がり者でしかありませんでした。
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