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天正十年、備中高松城の合戦並びに備中諸城攻めの事

天正十年の春、織田信長から毛利征討の命を受けた羽柴筑前守秀吉は山陰地方の毛利氏を制し、山陽路の平定に乗り出してきました.
宇喜多家は直家死去の後、八郎秀家が家督相続したばかりでしたがまだ幼少でしたので宇喜多七郎兵衛忠家、岡平内、戸川助七郎、長船又三郎らが総勢二万騎の大軍を率いて秀吉軍の加勢となり、先陣をつとめました。
まず、秀吉は加藤虎之助清正の一番槍で有名になった冠城等、毛利方の備中防衛ラインの諸城を攻めました。そして、高松城を包囲する形で総勢八万騎を展開させ、高松城の地形から水攻めを画策し蛙ヶ鼻から赤浜山の麓まで築石し水を堰入れました。かくして、東西両軍十数万騎の大軍が両備国境の足守川をはさんでこう着しました。
その後、この合戦の結果は周知のとおりですが、戦後の講和条件は山陽側を高梁川とするものであり、伊賀氏にとっては大変な結果となったのです。


この備中高松城での攻防については、個人的見解があります。
まず、毛利軍は高松城にての合戦ではなく、もう少し北側の両備境目で戦いたかったのであろうことです。
それは、毛利方は高松城を取り囲まれても、他軍の配置、位置取りが遠く悪い事と、鳥取での攻防ですでに情勢を認識していて、織田の流れは止められない事を悟った対応のごとく、大毛利としては弱腰の感がいなめません。
自らが、大軍を率いて敗退した国境山間部、虎倉から忍山、十二本木あたりでの大軍の動きを制した地の利を用いた攻防に引き込むことを予定していたのではないでしょうか?
また、そのあたりでないと織田軍の大勢力に対し、勝機は見いだせないところだと思います。

ただ、秀吉が龍王山に本陣を取って、地の利を知る宇喜多軍が北側からの襲撃を押さえると動けなくなりますね。
それに、清水宗治は備中境の毛利方にとって重要な大将ですから、助けたいでしょうから、、、。
それからすると、毛利の動きはやはり、中途半端で対応が常に後手後手、消極的に思えますね。
将軍擁護の手前、出陣はしても全面的に争う気概はなく、最少の譲渡、妥協案での打開を考えていたのでしょうか?
やはり、毛利に手を討たせなかった羽柴秀吉は戦の天才なのでしょうかね。


この合戦に際し、虎倉城は宇喜多の進出を押さえるため、上高田の忍山城を本拠とし、南に延びる山稜伝いに砦を設け、頂上を急角度に削り取って天然の兵や櫓を作り、日近川と足守川が合流する大井の町の北方まで、まるで万里の長城、総社の鬼ノ城のような一大防衛ラインを構築し、国境に面する出城の強化とともに防備に備えました。
天正十年頃には、虎倉城下にも秀吉軍が度々姿をみせるようになっていたとの記述もありますので、虎倉城も塀を高め、矢倉を強固にして戦に備えていたようです。

高松城の合戦は天正十年五月に終結しましたが、其の時の織田、毛利の講和条約は織田信長の死によって空文化され実施されませんでしたが、天正十二年になると秀吉は東を統一し天下を掌握して、毛利氏に先年の高松条約の実施を要求してきました。

毛利氏は、高松条約は織田氏と結んだ条約で秀吉と結んだものではないとし、高梁川境の東西の分割線を備中国境とすることとし、妥協しました。

この高松城の合戦の前後の虎倉城の領分は世家相続記に
「其の時、天下より右の領地被替仰其の後の領分は備前国にては赤坂郡、津高郡、備中は大井、竹ノ庄、有漢、中津井、水田、作国は真嶋郡の内南三郷十七ヶ邑垪和八ヶ邑也」
更に曰、
夫に付き、作国田原邑へ難波三郎兵衛廉友を置き右南三郷の大社牛頭天王御社寺へ天正十一癸末年より則ち木山邑其の他に鹿田下方二ヶ邑内にて所々抜々持寄
寄附状並に目録を寺領惣社領と立置く
とあります。

伊賀家久の木山神社への寄附状
 美作国木山寺社之事前々任寄状之旨号新寄進所立置諸役令免許者也、殊於惣社領者為公田之外聞先規姿聊不可有相違之状如件
   天正十一 八月十三日

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