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足利将軍家の滅亡

備中高松城の合戦の頃も武家の棟梁としての権威を意味する征夷大将軍は足利義昭が保持しており、それでこそ毛利氏も将軍義昭を擁立して織田信長に対抗し、虎倉城の伊賀氏や美作の後藤氏、美作矢筈城の草刈氏などが最後まで将軍の側で戦ったのです。
将軍足利義昭が、征夷大将軍としての権威を保持していたのは、天正十三年平秀吉が藤原家の養子となり、藤原朝臣の姓を用い、関白となり、義昭に対し秀吉から一万石を送られ将軍職を自ら辞するまでの事です。

実際には、天正十二年十一月の平秀吉 従三位に叙されるぐらいには秀吉が公然と天下人だったのでしょうが、、、。


この権力の流れからまだ、義昭の影響があったため、秀吉は備中美作の代官である蜂須賀彦右衛門、黒田(小寺)官兵衛に対し、高松条約による虎倉城、美作矢筈城等の諸城請取に際し、義昭公擁立の立場を変えない伊賀与三郎、草刈重継には充分警戒するように指示し従わない場合は干殺しするように申しつけています。

伊賀家久は、舅の明石飛騨から内密に、このまま在城して頑張る事はのちのち都合が悪くなると忠告を受け、退城を勧められました。
また、頑張って籠城しても後詰が得られなければ、叶わず、長田を戦火にさらす結果となるので、毛利氏からも大井五カ村、吉川、山ノ内等をあてがう話もあり従う事になりましたが、鎌倉以来の長田庄、備中竹ノ庄および北部を失う事となりました。

虎倉城を明け渡した伊賀家久は備中吉川に居を構え、城は備前の勝尾と備中上高田の境にある忍山城を主城とし、毛利方より勝山城等を預かっていたようです。
忍山城は虎倉城の支城であり、規模の大きい要害の堅城で所領である備中大井庄を見下ろす位置にあり統括するに適した条件を備えていたのです。



夜の忍山城城祉
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