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天正十三年、伊賀家久、西下し防長に下る

天正十二年の東西境界線の問題は、十三年までもつれこんで、虎倉城請取りは当然とする秀吉の代官、黒田官兵衛らの折衝により備前備中の境界を京芸の境界とする事は破棄され、高取川(高梁川)を原則とし、松山城及び竹之庄の西半分を毛利氏に与える事で決着しました。

もともとこの地以外は伊賀氏の領土であり、美作の一部を除いては毛利氏が所有していたものではなかったので、毛利の折衝も弱かったのでしょうか?

結局は、伊賀氏が領土を失う事と美作、児島が備前方になり決着したのであり、伊賀氏にとっては、大きな勢力の渦に巻き込まれて、他で話が決着した状態となり、もはや、単独では抗えない状態となったのです。

この為、伊賀家久は、従者数人を伴って芸州に赴く、寂しい出立をしたのです。

毛利輝元
「京芸和平令入懇傍爾之儀付而、為御届此方御取退 誠御入魂不浅次第候、向後不可有忘却候、仍於防長三百石進置候、御馳走之段 連々聊疎意有間敷候、恐々謹言
天正十三年二月十三日
       輝元 判

伊賀 与三郎殿  御宿所


京と芸の間に国境、和平が確定したが貴殿の志はまことにかたじけない。ついては、芸州に退かれる事は入魂まことに浅からぬ事故、向後忘れる事はない。その志として防長で三百石を贈りますから今後もご協力を。
という意味の内容です。

伊賀家久にとっては、わずか三百石を受け入れ下る事は先、その持てる能力を封印し、再び大身として勢力を振う事はなくなる訳であり、大変な決断であった事は当然です。

西下に伴い、伊賀久隆の子、幼弟の太郎次郎を神原惣右衛門に預けたといわれ、これが神原太郎右衛門久良であるとされています。
天正十二年には、虎倉城は失ってもまだ、大井庄や吉川等の自領を有していましたが、それも失い僅かの食扶持でもって西下するにおよんで自分が去った後の面倒を頼んだのであろうと思われます。

  消えて行く淡とも今は身一つの
    心尽しの末の浦波

時勢の移り変わりの盛衰、世の転変とはいいながら、祖先以来、将軍家家人として、主臣一体となって心魂を砕き、備前国に虎倉城ありと天下に馳せた高名も今は夢。
故郷を捨て、家を捨て、身命をなげうって忠節を尽くし、豪勇で知られた総ての家臣団をも捨て、只己が身一つ同然でするのも考えに考えた末の決断の策であったのでしょう。

かくして、この伊賀家久西下の時を以て、鎌倉幕府以来三世紀半にも至る備前長田庄の伊賀氏は全く断絶する憂き目となったのです。

伊賀氏の盛衰は、鎌倉幕府、室町幕府の消長に左右され、浮沈を重ねてきた訳ですが、その最後の滅亡断絶も、足利義昭の将軍職辞任と時を同じくして、幕府と共に消え去った感があります。

毛利氏の一家人として西下した伊賀家久は、僅かの従者を伴い、子供たちの内、娘一人を連れただけで出立したのです。
吉川伊賀家の祖となる伊賀三郎左衛門は家久が虎倉城を退城し備中吉川に退く際に連れて吉川に下っていたのでそのまま吉川に置き、畑ヶ鳴(ハタガナル)の祖である四郎左衛門はそのまま虎倉に置いたのであろうとの事です。
その父に伴われて行った家久の娘は、毛利輝元の媒酌により毛利家の家臣、井原元蔵と婚し嫡男井原与三郎を生んだが、その子は井原孫左衛門元良と名乗り将来を期待されながら若死にし、子孫は残らなかったと伝えられています。
家久は西下してからは、小早川隆景の傘下に加わりましたが、程なく、天正15年(1587年)、隆景が筑前名島に移封されると、それに従って同地へと渡り、間もなく没したということです。


伊賀一族にとって、最も無念な家久の退城については、家久の苦悩を思いはからずにはいられません。
鎌倉以来、二百五十年の長きに亘る備前長田庄の領主の地位を捨て退去するという事は大変な事です。
戦いに敗れたのではなく、備前、備中、美作の領地は無疵のままであり、各地に置かれた城地も将士も伊賀久隆公の時代と何ら変わる事はありませんでした。
そのような時、遠方で勝手に交わされた条約によって、これら全てを捨てて退去する事は常軌を逸した行動でした。
城内には、徹底抗戦を主張する者が多く、反毛利の意識を持つ者も多かったので議論沸騰し様々に家久を諌めたが、家久が聞き入れなかった為に、遂に重臣たちは怒って登城しなくなったとも言われています。
当然、当時の感覚は、「秀吉であろうが宇喜多であろうが、領地が欲しくば力ずくで攻め取ってみよ」との考えが当たり前です。
家久自身も、最初は、そのつもりであったはずですが、あえて退去に踏み切ったのは、時代の流れを読み取っていたからなのでしょう。
個人の意地とプライドを優先し、籠城戦で戦っても一カ月や二カ月は持ちこたえる事が出来たとしても後詰が得られなければ叶わず、無駄に領土は焦土と化し、住民の苦しみを招く結果となります。
わが身一人が耐え忍び汚名に甘んじる事によって領土領民の安全を守る方に踏み切ったのです。

妻の父であり宇喜多家の重臣以上の勢力を持っていた明石飛騨守の説得がなかったなら、家久の退城はなく「城を枕に討ち死に」を選んだのかもしれません。
明石飛騨守より、秀吉の考えや天下人になる状況も聞いていたでしょうし、もし自分が去った後の後国の事に関しても明石氏が約束保証をしたのではないかと想像されます。

興亡が常の戦国乱世の時代に、これだけの大身の家門が滅んで何も策を講じない事はまず考えられません。
ましてや、退城が平和裡に行われたのですから、、、。

結局、虎倉城は、家臣団も、領土経済力も、失われる事なく、ただ、伊賀家久が去ったのみで、他の大身の家臣は皆元のまま住み、荘内の武装解除も行わず、元の住民が追い出された訳でもないのです。

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