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天正十六年閏正月、虎倉城炎上す

長船又右衛門は越中守となり、虎倉城を預かったが、宇喜多秀家は幼少であったので、執政のため、岡山に移り、虎倉には己が妹婿である加番の組頭役石原新太郎に万事を委任して之を守らせていました。
天正十六年閏正月朔日、新太郎より、「来る四日、年始の賀儀として料理を参らせたく、御来駕ありたき」旨があり、越中守は喜んで、四日朝、弟源五郎、家臣寺田喜右衛門等を召し連れ、組侍、金光宗廻、河原甚右衛門を相伴に同道して虎倉に到着しました。
新太郎は之を迎えてさまざまに饗応し、酒宴夜に入って徹し、越中守は寝所にその他は各己が宿所に泊まりました。
翌五日の朝、越中守は弟源五郎と碁を囲んでいるところ、新太郎は矢倉の矢間より不意に鉄砲にて越中守を狙撃しました。
越中守は眉間より後頭部に貫通傷を負い絶息しました。居合わした面々は周章し、銃声のした方へ走る者、越中守を介抱する者、うろたえ騒ぐ者で争乱するなか、新太郎の嫡子新介(当時十八歳)は源五郎を一刀に斬り倒し、新太郎妻は越中守の死を確認すると奥に入り、長船の妻子をことごとく刺殺して、夫と共に矢倉に籠り、下から火を懸け、夫婦子供共猛火の中に自殺しました。
長船、石原両方の家人等何の意趣とも知らず、互いに抜きあい切り結びましたが、金光宗廻、河原甚右衛門、市村某等処々を駆け廻り「何れも主人の意趣を知らずして斬り合い犬死する事詮なき事なり、思うに新太郎乱心なるべし、皆々静まれ」と制し、急便を馳せてこの変事を岡山へ注進しました。
長船の嫡子、紀伊守はかねてより石原と不和であったので病にかこつけて虎倉へ赴かず、災難を免れたが、この変事を聞くと、裸馬に鞭をあてて駆け出し、多勢の家臣も追々後を追って馳せ加わったが、六里あまりの道でしかも難所が多いので虎倉に到着は日暮れとなりました。
此の日西風烈しく吹き、矢倉の火は城中一円に燃え移り、城郭は焦土と化し、三日三晩燃え続けて灰儘に帰しました。
紀伊守は生き残った家臣共にその場の様子を尋ねましたが少しも要領を得ず、新太郎乱心の沙汰として披露するほかなく越中守、源五郎等の遺骸を火事場より取り納めて岡山に帰りました。

石原新太郎夫妻が何故長船越中兄弟を惨殺したのか、一家皆残らず死んでしまったので全く不明となったが周到に計画された仕事である事は明白です。

この原因は虎倉記によると、石原新太郎が銀山を私し、私腹を肥していた事が長船越中守に分かった事によるものとの事です。

伊賀氏が長田庄で早くから、鉄砲隊を充実させていたもとになる経済力は、地下資源にあったと言われています。
宇甘、上加茂には鉄が生産され、虎倉記には三納谷の銀の生産について書かれ、三代実録では笹目の銅山について書かれています。その外、硝石なども得られていたのではないかとされています。

長船家家記には、
「加茂郷の内、三納谷に銀山あり。石原新太郎栽許にて掘らせ申候銀おびただしく出で候を新太郎隠し取り申候由風聞あり越中守立腹にて新太郎近頃我等を侮り我儘多く候故、仕手を向け刺殺すべしと申されし事を或方洩れ聞き、新太郎に内通し、新太郎女房に其方は殿の兄弟なれば申し難けれども箇様の次第なり子供等を刺殺して、切腹すべしと申されしに、女房涙を流して、扨も久しき馴染を捨て候事、是非もなき仰せ哉、兄弟とても敵なれば遁れず、犬死せんよりは、振舞にかこつけ、方便に寄せて、討取るべし、女なりとも男になどか劣るべきぞ、親子、諸共に越中守を討取り其上切腹相果つべしと答えければ新太郎実にもと頷き云々。」

仁熊八郎氏は、私家本「備前虎倉城 伊賀氏一族」のなかでこの事件に対し次の見解を述べています。
宇喜多家の前途は洋々の時期にあって日の出の勢いの時期にこの件は石原氏にとって、何一つとして得るものがないにも拘わらずこのような大事件を引き起こした背景にはよほど大きな事情があったとしています。
それは、長田庄の旧勢力の策謀があったのではないかとの推測です。
昔の栄光を忘れ得ぬ、旧長田庄の人々にとって、伊賀氏の再興と人々の名誉の回復は、血の出るような悲願であったというのです。昔の同輩、或いは以下であった宇喜多家の人々が、我が者顔に世の春を見せびらかすにつけ、人々は涙を噛んで日々を送り陰に陽に城代石原氏に働きかけ、遂に石原氏も長田庄の人々の虜となって行ったのでないかとの事です。ひとたび石原氏が長田庄に心を寄せるや、事態は急速に動き、長田庄の人々の思うが侭の方向に移って行き、遂には長船氏の感知する処となったのです。為に、石原氏は事が天下に顯れる前に主君を討ち、己も自害して果て、城地を焼き払い、総てを闇から闇へ葬り去るより外になかったのであろうと推測しています。

すなわち、長船氏と石原氏の確執に伊賀氏が関係していたとすれば、それは已むに已まれぬ家門再興の悲願の集積が表面化した為起きた事件としています。


そして、この事件の際には、伊賀家久の子伊賀四郎左衛門清久は虎倉城内にいたとされます。
伊賀三郎左衛門は虎倉にいたのか、吉川にいたのかは不明です。
しかし、吉川伊賀家にも、この虎倉落城の話は伝承されています。

虎倉城焼失の際、逃げ場を失った人々は、宇甘川に面した絶壁を滑り落ちて逃れ、川に落ちて死んだ女、子供も多く、姫ヶ淵の名を留めていて、今でも夜中に矢風の音がする、と云い伝えが残っています。
この時、子供は幼かったので、畳に載せ縛り付けて滑って逃がしたとも伝えられています。これが、太郎次郎(神原太郎左衛門久良)なのでしょうか?
また、逃げる際、農民に扮し逃げたとも伝えられています。

いずれも現在では、断片的な口頭伝承に過ぎず、特に女系継承にて興味が薄れ、無関心からあやふやになっています。
一部には、宇喜多に攻められ、三日目の晩、矢倉に火を掛けられて炎上、以下逃げる際のエピソード等となる展開の話もあり、伝承の際、どこかで変わってきたのでしょう。
とにかく吉川では、「宇喜多にやられた。宇喜多許すまじ。」の一念は今だに最初に語られますが、他はあいまいで、ハタガナルへ一緒に逃げた後、吉川へ入ったのか、それとも、忍山城攻めの後、吉川へ移住していて、其の後も虎倉城へ出入りしていたのかはあいまいとなっています。が、虎倉落城により逃げた話は当家にも伝わっています。


話は戻り、長田荘あたりに伝わっている伝承では、虎倉城は、正月に落城し、正月の賀儀の膳を食していた者は殺され、祝っていなかった者は生き延びる事が出来た、といいます。伊賀一族は、正月、虎倉落城の時落ちのびて、下加茂から本宮山の内懐深く原始林の中に隠れ住んだといい、その途中、小屋を掛けて一夜を明かした所を正月小屋といいます。

人も通わぬ山中深く隠棲し、巨木を伐り払い、荒野を拓いて小屋を建て、農地を開墾し、自給自足で世間とは全く交渉を断って時世の収まりを待ったのです。
その場所の名を「ハタガナル」と言い、「畑ヶ鳴」と書きます。

世俗を断ち、大自然の中に自主独立の圏域を確立し、小部落を形勢して約四百数十年。暦それぞれの血と汗によるこの地も、今は徐々に人が離れ、草木の繁茂激しく、再び大自然に埋没する日も遠くはないと感じさせられるところです。
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