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虎倉城麾下の諸城(2)

福山城
城主  伊賀河内守、伊賀兵庫頭、新山兵庫輔益澄 等

応永年間、伊賀河内守頼氏は、居館を加茂市場の東元兼に移しました。そして、それに伴い戦時の砦として福山城を築きました。
大手を十カ村に、搦手を元兼として、本丸の東に地形を利用して三段丘をこしらえ大手の備えとした大規模な山城です。
後に、東どなりに隣接して十カ城を築き両城で連携して、備中方面に対しての防衛の城でした。
河内守が引退した後は兵庫頭行隆が相続しましたが、応永末期に虎倉城を築城し虎倉へ移りましたので、其の後は家中の武士が在番となり、難波氏、高見氏などの名が城主としてあげられる。

天正二年の虎倉合戦の際は、新山兵庫輔益澄が立て籠もって毛利氏を迎え撃ったが、作戦により、僅かな抵抗のみで陣を引いたので、毛利の先鋒が入場し、毛利輝元自身もこの城に入り虎倉攻撃の指揮をとった城です。

この城の麓に伊賀左衛門、河原五郎兵衛、河原源左衛門の別荘跡が三か所あるとの事です。

清常城
城主  不明

虎倉城大手、三宅坂から竹之庄へ通じる加茂往来にあり、備中方面に対しての大手の防衛の城としての役目があります。
城主として決まった人が在した記録がありませんので、時に応じて在番したのでしょうか?
しいてあげれば、確たる史料はありませんが、信頼が厚く平岡に居館があった片山与一兵衛、弟の弥左衛門など片山氏を中心としていたのではないか、との意見もあります。

天正二年の虎倉合戦の際には、毛利先鋒の将粟屋氏が入場し、陣所としました。
城址に討ち死にした粟屋氏の墓碑があるとの事です。

藤沢城
城主  藤沢左馬進頼兼、伊賀伊勢守入道昌信(伊賀伊勢守勝隆)、仁熊左京進 等

旧賀陽町と加茂川町(現在は合併して吉備中央町)の境付近にあります。
藤沢氏の旧記によれば、相模国藤沢の住人、俵藤太秀郷の後裔藤沢太郎信恒は関東で源頼朝の挙兵に戦功をたて、その子藤沢左馬進頼兼は頼朝の命により平家討伐のため、備前加茂庄に至り藤沢城を築いたとの事です。

時代は過ぎ、戦国の頃、応永より150年間、伊賀氏一族が居城していましたが、備中、備前の境目でもあり、北に出雲街道、南へ岡山街道が通じている場所で長田庄、竹之荘を繋ぐ重要な要地です。
毛利氏が備中平定を唱える頃には、何度かの攻防戦があったようです。
永禄年間には「藤沢と云う山に虎倉方の者共取登り籠り在る所に芸国より乗取る其の後、扱に致し右領分半納宛所納す」云々等と見え、又、河田又左ヱ門、寺田帯刀、伊賀与二兵ヱ、片山弥左衛門等がこの城に籠って戦っています。

これより先、大永初年、毛利氏がまだ台頭しなかった頃、伊賀伊勢守勝隆は、隠居し昌信と号し隠居しこの城に籠った事があると云われています。
虎倉城の備中方面への防備強化として、伊賀河内守の弟伊賀出雲守光昌は備中に進出し大原城を築き、虎倉方は加えて湯山城、小谷城、大畑城、藤沢城など幾重にも城塞を築き、神原氏、仁熊氏等の一族を置き、又、伊勢守自身も藤沢に入り備えを固める等重要な要地でした。

天正二年四月、毛利氏は虎倉城を攻めた際、中央方面隊の将粟屋与十郎が入場したが上加茂で討ち死に、毛利軍敗走の際、桂源右ヱ門が殿軍として在番したが、同年夏、毛利氏と伊賀氏は将軍義昭の仲介により同盟した事により、元のように藤沢城はもとより竹之庄は虎倉城の所有に帰されました。
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