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虎倉城麾下の諸城(5)

大原城
城主  神原備中守益信、神原右京、神原惣右衛門

上房郡誌には神原宮内少輔隆好(越中)、疋田右衛門元久(雲州尼子氏麾下)の名も挙がっています。

賀陽町大字黒土(現在の吉備中央町黒土)にあり、伊賀河内守頼氏の弟、伊賀出雲守光昌が備中の押さえとして大原城に移り築城したことに始まります。
 虎倉記にも「伊賀左衛門殿御盃の次第に、一に土井下総、二に鶴旨三郎兵衛、三に神原備中」と出るように虎倉城の重臣でしたが、「出雲は老人で、備中川上大幡山にて芸州とともに討ち死にした」との事です。
天正二年の虎倉合戦では、神原右京は藤沢城近辺まで攻め込み鉄砲を駆使し、敵将の首をとって手柄をあげています。
 「神原惣右衛門は足を痛め、歩行不叶旗本に罷在り、御秘蔵の鹿毛の馬給ふ」とあります。
 伊賀伊賀守家久が備中に下り西下する際に信頼する神原惣右衛門に幼弟太郎次郎を託し、その子が後の神原氏の祖となった神原太郎右衛門久良であるとされています。
 神原惣右衛門は伊賀家久より、伊賀久隆の子を託されたので、湯山の横部に館を築くべく小谷城の森大蔵に換え地を与え移転させようとしましたが、これに応じなかったので、すぐに取って返し、小谷城を攻め落とし、森一族を討滅ぼし、ここに新しく居館を建て久隆の遺児を住まわせました。


小谷城
城主  森大蔵

吉川と神原の間に位置しています。
天正十二年、豊臣秀吉が天下を掌握し、高梁川を以て京、芸の境界となったため伊賀家久は領土を失う羽目となり、伊賀久隆の遺児である幼弟太郎次郎を神原惣右衛門に託し、わが身一つで芸州に寂しい出立をしました。
僅か三百石ですので、家臣も追従する事も出来ず、帰農する者、宇喜多に与する者様々でした。

神原惣右衛門は、小谷城の森大蔵に城を開けさせ、太郎次郎を入れようとしましたが、森大蔵は一行を入れる事を拒みましたので、大恩ある伊賀久隆の遺児に対しての態度に腹を立て、取って返し、小谷城を攻め、森一族を討ち滅ぼしました。

後に、山裾を拓いて社を建て大蔵一族の霊を祀りました。これを「大蔵大明神」といいます。
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