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虎倉城麾下の諸城(8)

石原城
城主  不明

虎倉の東、紙工(しとり)字石原にあります。
城主は、石原氏であろうが、この石原氏は、長船越中の石原新太郎とは別人で虎倉城の家老に石原氏がいたようです。

奧宿鼓田城
城主  河田七郎、河原源左衛門

本陣山ともいい、天満の奧、備中境にあります。
虎倉城南方大手の鼓田の山頂の南、宿村の更に南の備中境にあり、虎倉城の備中大井方面の押さえの砦でした。

天正二年四月、毛利軍南部方面隊大将、穂井田元清は、大井庄を席巻しこの城を攻めました。
守将の河田七郎、河原源左衛門は、救援を乞うたのですが間に合わず、攻め落とされてしまい、河田氏は討ち死に、河原氏は負傷して虎倉に逃れるべく百谷の東の滝まで来た時に敵兵に見つかり、敵兵二人を脇に抱えて道連れに瀧に飛び込んで討ち死にしました。
この豪勇を伝えられる河原氏は、鍋谷城主の河原氏の系とは別で、元は将軍の臣であり、浪人して宇喜多家中に身を寄せていた際、永禄六年の虎倉城と宇喜多氏の同盟がなり、伊賀久隆の室となった宇喜多直家の妹の付き人として虎倉城に来住したものである。

また、本陣山は忍城合戦の際、毛利輝元が本陣を設置した場所です。


寺畠城
城主  牧菅兵衛(三浦氏)、河原六郎右ヱ門

久世町にあります。当初、高田城主三浦氏の出城で、牧菅兵衛が在城していましたが、虎倉記によれば、天文の頃、尼子氏によって三浦氏は滅びましたが、この戦の時、伊賀氏は尼子氏に与力して出陣。久世寺畠城を攻めました。寺畠城は落城し、当時の城主、河原氏は降参し長田庄に来て、虎倉の家老職となって、鍋谷城主となりました。
寺畠城はその後も多少の攻防はありましたが、虎倉城の管理下にありました。
天正二年、虎倉合戦の際この城も毛利方の攻撃を受けましたが、他と同様、僅かの抵抗をしめしたのみで、作戦により、撤退し毛利軍が入りました。


真木山城
城主  鈴木孫右衛門近重

落合町鹿田にある。
鈴木氏は多年虎倉城の与党として、松山城戦では搦め手で戦功をあげ、岩毛、佐井田戦でも戦功を挙げています。


野々平城
城主  伊賀三郎五郎(近藤若狭守)

福沢にあります。
伊賀伊勢守三男、三郎五郎は浪人して美作高田城主三浦氏の家臣となりました。
備中花見山の城主近藤石見守は尼子氏に攻められた際に三浦氏に救援を求め、三郎五郎が大将として近藤氏の城を取り返しました。その褒美として花見山城及び近藤氏跡式一切を賜り、伊賀三郎五郎改め、近藤若狭守と号し、将軍家より六万石を賜りました。
その後、虎倉城と高田城が不仲となったので、長田庄の森久村(福沢)に戻り、野々平城を築いて併せて四ツ畦城、有漢の飯山城も預かりました。

天正三年、備中松山城主三村元親の一子勝法師丸は城を逃れ篠吹城を目指そうとしましたが、途中で伊賀久隆の人に遭遇し捉えられました。しかし、あまりの利発さゆえ、毛利氏はこれを生かしては後の禍になると強いてこれを殺したといわれていますが、、勝法師丸は家来の山県新介の守護により篠吹城に逃れ、後に森久村の近藤与三兵衛を頼り森久村で帰農し、母方の姓を用いて入沢と名乗ったとも云われています。


四ツ畦城
城主  近藤氏、新山氏

溝部の奧にあります。
美作国境にある城です。

伊賀家久は、地下人を支持してこの城の占拠を図った(四ツ畦騒動、四ツ畦合戦)、また、竹之庄の地下人により松山城の占拠を画策したと云われていますが、不明なので今後、調べて行く予定です。
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