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虎倉城麾下の諸城(9)

十二本木城
城主  伊賀家久


位置は、御津町勝尾の東、宇垣の西、馬屋上の北、岩田の東北で、近辺で一番高い山の頂となります。
周囲が一望できる眺望に優れた場所でこの麓には加茂から勝尾、日応寺を経て横井から岡山に至る旧表往来、虎倉から岡山まで六里の道程の中間の要衝に位置しています。

天正六年、宇喜多直家の将軍側から織田側への寝返り離反に伴い、毛利、伊賀の連合により宇喜多討伐戦が開始され、十一月に備中境の忍山城攻略戦が行われました。

前年、父伊賀久隆に毒を盛られ、当年春、久隆は毒の影響からか死亡したため、伊賀家久は悲涙の復讐を誓い、父に代わり、采配をふるってこの山に籠り、救援に来るであろう宇喜多直家の背後をつき討取る算段をして待ち受けたが、直家は身の危険を感じてか岡山を動きませんでした。
作戦は不成功に終わりましたが、憤懣やるかたない家久は、宇喜多春家の守る金川城へ再三討入り攻め立てました。
もう少しで落城へ持ち込めるまで攻め立てましたが、守勢も頑張ったので落城にはいたりませんでした。攻め方の伊賀家久は少勢であったため、夜明けとなり、明ければ形勢不利となりかねないので、五十数名を討取り、そうそうに引き上げました。

御津郡誌によりますと、十二本木の山の傍らに船山城址があり、二つは別の山なり、とされています。


忍山城  信夫山城
城主  岡剛介(在番)、伊賀伊賀守家久


岩田村大字上高田山頂にあり、渓路を隔てて信倉山(鎌倉山)と相対した四面険峻な要害です。
現在は城址の下に道路があり、上高田トンネルが開通しています。
虎倉領の大井方面の基地で加茂から岡山に至る街道と足守から建部に至る街道の交差した交通の要路でもありました。
永禄六年以来、虎倉城伊賀氏と宇喜多氏は同盟関係にあったので、この城を宇喜多家の将岡剛介が在番していましたが、天正六年播州で信長軍と交戦している最中、宇喜多直家は信長と内密に同盟し、将軍家より離反したので、虎倉城より攻められる事を危惧して久隆毒殺を企て虎倉城乗っ取りを図りました。
計画は失敗しましたが、直家離反の事実が判然としたので、毛利氏および伊賀氏は宇喜多討伐戦を備作において展開することになり、この忍山城戦が天正六年十一月より(私個人の見解としては、天正七年十一月ではないかと思いますが、、、)行われました。

備前軍記などには忍山城攻略後、伊賀家久は虎倉城には帰城せず、毛利氏と共に西国に下ったとの記述があります。
天正十二年備中備前の国境を以て東西に二分された高松条約によって、伊賀家久が虎倉城を出て備中大井、及び吉川方面およそ三万石を食邑とした時、吉川に仮所を設け、城は忍山城を主城として行動したのではないか、と思われます。

その頃、安全を配し、吉川に仮所を設け伊賀家久の子、伊賀三郎左衛門を匿い、吉川伊賀家が誕生したのではないかと思われます。


陰徳太平記には
四畦合戦と忍山合戦が混同されていますが、
尼子勝久本国へ帰入せんと毛利が手の中尾太郎左衛門尉、香川左衛門尉が籠りたる作州高田の城を攻むべしと故の高田城主三浦氏これに従い此城を取返さんと、宇喜多に加勢を乞ひければ、岡剛助、長船紀伊守、岡信濃守等作州に赴き其の後、宇喜多直家吉川元春の爲、作州数城を陥れられ、此の積念を晴らさんと備中国忍山城に宇喜多信濃守岡剛介を入れ置き毛利が持城一カ所にても攻め取るべしと、天正七年十一月毛利輝元、吉川元春父子小早川隆景等三万騎を督して発向す、宇喜多、岡は聞ゆる勇士なり、相従う所の兵士一千何れも精選の士卒なれば、いかに毛利の三家たり共一戦の間に追立べきものをと鏃を磨いて待ち掛けたり。
吉川経言は二千騎を率い備前より加勢有りと聞き近く押し寄せ強弱の程を窺ふ所岡越前守、長船紀伊守忍山援兵として押来ると聞へしかば、さらば彼に向はんとし引き返すを見て城中より信濃守剛介一千余人打出てひたひたと相戦ふ。
経言、これぞ願う所なりと鉄砲はらはらと打ち遺ると等しく無二無三に馬馳せ入れば岡も経言が若輩何程の事かあるべしと思い侮り、只一時に討取らんと勇み進んで戦ふたり。
経言は年未だ若しと雖も知勇兼備、父祖にも劣らぬ良将なれば、今、是を眉ともせず、諸士に下知して、宇喜多、岡をめがけて打ちかかる信濃守が先陣引き返すと剛助押し返して戦ひけれど、後陣崩れ立て城中へ引取りければ、経言敵に息な継がせそとて山下を焼き払って引退ける。
かくて此の日、諸将城を取り囲みけるに、経言、下清左ヱ門に下知して夜半城中に忍び入り、小屋に火を付けたりければ、経言一番に乗入、吉川経言一番に攻入りたりと名乗り給ふを聞き、毛利、小早川の旗本其の外、中国八州の兵共やれ経言の手により攻入りたるとて、皆吾不劣と切って入る。
城中、思ひも不寄、夜半に内より火を放ち、外よりは敵滋く攻入りぬ。あはて騒ぎ父子、父よ子よと呼び叫び、取り物も不取敢足に任せて落行けり。
信濃守剛介は、「こは、口惜しき次第也」とて目と目を屹と見合せ、朋友の契、未来二世にも違うまじとて左右に分かれ、向かう敵に切って蒐り爰に戦ひ、彼所に組伏せ、向ふを幸いに相手を嫌はず戦ひける程に、両人があたりには、何人も人塚を築かせて累々たり。去共、身鉄石ならねば、終に所々に討たれにけり。
かくて、討取頸共点検するに五百三十余級と記せり。夜に紛れ落ち行く者は不数知。此由を聞きて長船、岡も半途より引き返しければ、直家は彌々忿怒に余りして寝食不安。
扨て当城には、毛利家より桂左衛門太夫、岡惣左衛門を被入置けり。


中島記(備中兵乱記)によると
伊賀与三郎其父の死亡に悲涙を注ぎながら、籠城の用意を爲し、急を備中の毛利方の諸将に告げ、援兵を乞う、諸将は之を隆景に注進すると
「当家へ与する幕下の急難を救い給わずば後日、当家へ随身の味方あるべからず」と時日を移さず領国へ軍勢の催促あり小早川隆景、毛利元清、宍戸隆家一万騎にて出陣、隆景は宮路山に、元清は冠山に隆家は信倉山に陣し、清水宗則、中島元行等鎌倉山茶臼山等にそれぞれ陣営して、忍山の城に迫った。
宇喜多直家一万余、平右ヱ門、花房又左ヱ門等、毛利方の諸手に戦を挑み、軍勢の手配手に入ったる儀と敵方にも誉められた。
伊賀与三郎は虎倉より勝尾山日応寺まで出て隆景に謁して忍山城攻略のことを請えるも、隆景「此度は御帰陣、重ねて出陣の節、忍、金川等浮田の持城を仕置きすべし」とて帰陣せられた
とあって、はかばかしい戦争がなかったように記載されて居ます。

陰徳記並びに備前軍記から併せ見ると
天正六年十一月中旬、毛利輝元、小早川隆景三万ばかりの勢にて出陣、備中備後の諸士を先鋒として、備中高田村忍山城に浮田信濃、岡剛助を囲む、吉川民部太輔経言(後の広家)は忍山の東に陣を取り、伊賀与三郎その手兵に毛利家からの援兵を加えて、七百ばかり津高郡勝尾山に陣取り、岡山からの後詰を押へて居る。
岡山よりの援軍岡平内、長船又三郎、片山惣兵衛等は忍山の東北なる鎌倉山に着陣した。
吉川経言一千人を二手に分け、岡山の援軍に当り、奮戦して岡山勢色めくを見て、城中より浮田信濃打って出で吉川が一陣を破る、二陣入り替はるところへ、岡剛助之に向かい、敵味方入り乱れて戦う最中、小早川勢横槍を入れたれば、浮田も岡も兵をまとめて、城中に引き揚げ、門々を鎖して厳重に防いだから、毛利方も強いては攻めず、かくて年も明け翌天正七年正月上旬、吉川経言、下清左衛門を召し、
「今夜敵の隙を窺い、城に火をつけよ、吾、一番に乗入り、浮田、岡を討取るべきぞ」と下知せらるる。
下、夜半ばかりに城中へ忍び入り、側なる固屋に火をかく、折節の強風に煽られて炎々と燃えあがるを見、吉川経言「一番乗り」名乗り、芸州諸軍我劣らじと攻入り城兵防戦の術盡き、浮田信濃、同孫四郎腹掻き切り猛火の中に飛び込んで果て、城兵は散々になって逃げたが、多くは途中に討取られる。
芸軍の獲た首級は五百三十余。

伊賀与三郎は直家に父久隆が毒殺された鬱憤散し難く、毛利家の力の下に如何にしてか復讐してやろうと忍山の戦にも誓って宇喜多が後詰押を望み、勝尾山に陣して機会の到来を望んだが、直家は当時既に秀吉と大挙毛利征伐を成さんとの企劃が成っているので辺境の小競合いには左のみ心を用いず、只管次の大戦の準備に従事したので伊賀は手を空しゅうして地団太ふんだ。されども此のまま引揚げるのも口惜しく、北備前の地理は掌を指す如く知っているのを幸ひに手兵を以て金川の城に夜襲を試みた。金川の守将宇喜多春家能く防ぎ伊賀は利あらずして引揚ぐ。
其後或夜又々金川の油断を見計らい銃隊を先登として攻め入るに城中にては人々皆熟睡の際なれば、奮起して守備につき、矢玉を放って堅く守る。
伊賀もとより小勢なれば明けて敵に見透かされては危うしと、首五十七を討取って引上げ、之を隆景に送る隆景其功を賞し、向後も忠節を心掛けるように懇命があった。
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