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伊賀氏関係諸家(2)

畑ヶ鳴 伊賀家

畑ヶ鳴伊賀家は、吉川伊賀家と同じく、虎倉城主伊賀家直系の家で、吉川伊賀家が伊賀家久の子息、三郎左衛門を祖とし、畑ヶ鳴伊賀家が四郎左衛門清久の子三郎五郎を祖としています。

この三郎五郎はその身分を次のように表しているといいます。(備前虎倉城 伊賀氏一族より)
  『伊賀鶴旨左衛門守末々 百姓藤原朝臣』

これを解説すると伊賀は本来の氏、鶴旨は親の氏。左衛門は父祖の官職名。守は国司の長官の意で、例えば伊賀守、伊勢守、兵庫頭の意味を表し親、或いは先祖がそういう地位にあったという事である。
藤原朝臣は姓で、藤原氏の系を表す。百姓は、現在の職業身分で土地を有し一戸を構えた本百姓の意である。
 畑ヶ鳴の地を居住の場所とした伊賀三郎五郎は、山中深く、只一家を構え祖先の遺芳と鎮守の神並びに祖霊の加護を受け、世俗を絶って、大自然の中に自主独立の小圏城を確立して、自給自足、朝(あした)に耕し夕(ゆうべ)の星辰に恒久不変の宇宙を観じ、自然に任せて恙なく年を送り、代を重ねて天明の頃、七代目岩右衛門に三男子があり、長子を熊次郎、次子を多次郎、三子を栄之丞といったが、長子が相続し、次子三子は新しく夫々一家を起てて住居を構え茲に初めて小部落を形成した。
 熊次郎は学問を志し、医業を修め、又、山役人も務めた。幕末の頃は山役人は多次郎の家の方で行っていた。

この小部落にも、人の世の常なる多少の変遷はあるものの、城敗れてから凡そ四百歳を鬱蒼たる森林の懐深く俗界との関わりを絶って、ひたすら父祖の遺業を継いで、只一朝の夢の如くに過ごして来たのであるが、世の移り変わり、思想の変化、産業構造の都市集中化は農村人口の流出となり、その影響はこの小部落にも例外とはならず、草木の繁茂は次第に部落を侵し、累代この地に骨を埋めて十四世。人それぞれの血と汗によって維持し来た数々の遺畳も、今や大自然の中に埋没し去らん事の遠からざる事を看るのである。

この畑ヶ鳴には先祖墓と呼ばれる墓碑があるとの事。
  銘 白月妙心禅尼
  天正十一年十月  癸末
豊島石製の家型墓標で蘭塔墓と云われる、江戸初期より正徳頃流行した形です。

家久の子四郎左衛門の裔が居住した地に、先祖と崇める女の人といえばその記銘年代から考えて、家久の妻、即ち四郎左衛門の母であろうと考えられる。
また、鶴旨の居館のあった円城横倉の辻屋敷には
  銘 白月円心禅定門
  寛永二年九月
豊島石製の家型墓標で蘭塔墓がある。

この二つは、男女の相違があるだけで、同じ銘を刻んであり夫婦の関係を持つ人の碑であろうとされ、伊賀左衛門尉伊賀守家久の供養碑であろうとしています。
伊賀家久は淋しく西国へ下り見知らぬ他国で慣れぬ苦労の末、病死し、弔う者も無いのを憂いて、一族相集い、父祖の地の屋敷に寛永二年九月塔婆を建立して供養したのではないかといわれる。
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