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伊賀氏関係諸家(3)

田土 神原家

田土 神原家は、伊賀河内守頼氏の弟伊賀出雲守光昌が大字黒土に大原城を築城した事により始まります。
虎倉記に
「伊賀左衛門殿御盃の次第に、一 土井下総、二に鶴旨三郎兵衛、三に神原備中」とあります。
 神原備中、大原市兵衛まで三代大原城にいたそうですが「出雲は老人で、備中川上大幡山にて芸州と共に討ち死にした」との事です。
 天正二年、虎倉合戦の時、神原備中は旗本千二百騎で上加茂八幡山に出陣しています。この戦いで、神原右京は藤沢城付近まで攻め込み鉄砲で戦い、敵将を討取り、感状を受けています。
 「神原惣右衛門足を痛め、歩行不叶旗本に罷在り、御秘蔵の鹿毛の馬給ふ」

伊賀出雲守――備中守益信――右京――市兵衛――惣右衛門
             |
             ―越中(神原宮内少輔)
             |
             ―神原六郎右衛門
             |
             ―吉川刑部


湯山 神原家

  伊賀一族より出て、神原姓を名乗る家は二家あり、一家は田土神原家、もう一家は湯山のお北神原家です。
  天正十三年、第二十二代伊賀与三郎家久が虎倉城を退去した際、久隆の遺児で当時三歳の太郎左衛門久好を虎倉老臣の神原惣右衛門に委ね、惣右衛門が湯山横部に居を構えさせたところから始まります。

  神原太郎左衛門久好は成人して湯山庄屋となり、その孫にあたる神原治左衛門宅益は傑出した人物と云われ、足守藩の士分に取り立てられ、知行百石を領していました。治左衛門は木下藩へ大筒二挺と長柄槍二十本を献上した有名人で、木下様の雨乞いの筒として伝えられているものです。
  同家は、江戸時代中期頃から、湯山庄屋を代々務めた家です。



高倉 新山家

兵庫頭行隆―――伊勢守勝隆
      |
      ――民部輔益忠――兵庫祐益澄――小兵衛
             |
             ――玄蕃祐益義
             |
             ――三郎五郎益正(近藤若狭)

 虎倉城主、伊賀兵庫頭行隆の二男伊賀右衛門佑益忠は、長田荘の内、新山邑に居城。
号を改めて新山民部輔益忠と号しました。
 長子が新山兵庫祐益澄といい、新山城主で、共に虎倉城家老を勤めました。
 次子は新山玄蕃祐益義といい、備中有漢の常山城主となりましたが、天正三年の松山城戦で三村氏に属し討ち死にしました。
 新山城主の益澄は虎倉城戦の際毛利氏に攻められ討ち死にしたとなりますが、福山城の守備にその名が伺えますので、退いて後の戦いに参加しているのかもしれません。

 新山家は益澄の死後、小兵衛が相続しましたが、その死後は近藤氏(三郎五郎益正の後禽)が引請け相続しました。
 同家は、江戸時代苗字、帯刀、裃着用をゆるされ、旧田井村、旧春木村の庄屋を代々務めた家であるとの事です。
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