スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

伊賀氏関係諸家(5)

円城 伊賀家


円城 伊賀家は伊賀伊勢守勝隆の二男で、虎倉城主伊賀左衛門尉久隆の弟である三郎兵衛友隆より出ています。
伊賀三郎兵衛友隆は、虎倉城の重臣として作州一円と備中の一部を領して預かり、大永年間、鶴旨(鶴峯)郷、円城中学校の敷地となる王屋舗に住し、鶴旨姓を名乗りました。
 一説によりますと、伊賀久隆の子、第二十二代虎倉城主伊賀家久は、この三郎兵衛友隆の子であるとの説もあります。

 鶴旨三郎兵衛友隆は、虎倉落城と共に、武具一切を円城寺に納め郷士となりました。嫡子平左衛門の時代、辻屋敷に移り、弥左衛門の時代に伊賀姓に改めています。

 伊賀伊勢守――久隆――――与三郎(家久)
      |      |
      ――三郎兵衛――五郎兵衛光久――与次兵衛光利――久光――伊賀光平(鶴旨弥左衛門改)――①
                                |
                                ――女子――美作田原森谷家――② 
                                         |
 ①――光直――光兼――高清――光包――光武―――清兼(伊賀理右衛門)美作田原山上村森家与三右衛門三男伊賀家相続する




野原 伊賀家


天正十六年正月、虎倉城焼失の後、伊賀家久の子伊賀四郎左衛門清久は畑ヶ鳴に逃れ、宇喜多の追及をかわしていましたが、慶長五年、関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多氏は八丈島に流罪となったので、一子を「畑ヶ鳴」に残し美作国野原村に移りました。

 伊賀四郎左衛門清久家臣の守護により流浪の後、野原村に帰農、正保元年八十三歳にて卒

野原伊賀家によれば、当家は、初代より国司神社の宮司を務め、国司神社の若宮には、伊賀四郎左衛門清久が祀られているであろうとの事です。
同家は四代貞久の時、津山藩森家の庄官調べに際し、庄官に定められ、苗字帯刀を許され、代々庄屋、大庄屋を務めています。
 同家より派生して野原分家、一色伊賀家があります。


 伊賀久隆――家久――四郎左衛門清久――三郎五郎(畑ヶ鳴)
                  |
                  ――彦兵衛信久(野原)――弥右衛門直久――孫右衛門貞久――

 ――孫助秀久――孫右衛門秀久
 |
 ――秀久(一色村)――孫太夫家久



弓削 河原家


 伊賀久隆の五男、伊賀与三左衛門尉久道は、下加茂鍋谷城主河原帯刀の娘婿となりました。
 氏を改め、河原与三左衛門尉久道と号しました。

 慶長五年の関ヶ原の戦いに敗れ、美作国久米南條郡下神目村に蟄居し郷士となりました。

 鍋谷城の河原氏は、宇喜多時代には宇喜多氏に仕え文禄の役にも出陣していますので、宇喜多家中に居たのであろうと思われます。

 下神目に戻った久道は、其の後、一子を下神目に残し、同国久米郡南條郡弓削村に住居を構えています。
  二代目は弥次郎隆房、その弟、与三右衛門尉隆則は、同国福渡村に住居を構え、その子二郎左衛門隆次は、備前国津高郡建部村に住居を構えました。この子孫が代々、建部村に居住し、明治初年同所の大村家跡式を継ぎ、大村と河原を合わせ氏を大河原と改めました。

  伊賀久隆――久家(与三郎)
      |
      ――久道――隆房――惟房――敷房――惟蕭(俳号紫風)
          |            |
          |            ――武兼
          |            |
          |            ――金蔵(俳号 一柳)
          |
          ――隆則(福渡)――隆次――八代略――類蔵(大河原)

関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

円城 伊賀家

野楽人さま、こんにちはです。
なるほど、『家久さんは、久隆さんの甥』説は、円城 伊賀家の説から…なのですね。拙ブログにも、ご教示、どうもありがとうございました!!

『野原 伊賀家』と『弓削 河原家』のその後を拝読しても、一族のなかで、宇喜多と敵対し続けていた家、友好な関係が続いていた家…とあったことがわかり、興味深いです。
毛利と宇喜多が事実上和解したときも、一族内で、いろいろ心労があったことでござりましょうね…。

毛利or宇喜多 どっちにするの

伊賀家久が父久隆の死により毛利に援護を要請する時、親尼子の時代から反毛利の姿勢がありました。



それでも、織田(羽柴)の大勢力の後ろ盾の宇喜多に対し、いかに屈強で豪勇でならしたな虎倉勢といえども、一城で対抗する事は1~2年は籠城することが出来ても領土が焦土と化し領民に被害が及ぶのみで対抗には限界があります。はじめは、宇喜多相手に籠城戦を構えたのでしょうが、羽柴の影がちらつき始めたので、後ろ盾はいやでも、毛利に頼るか宇喜多に下るかしかありません。
  当然、父久隆に毒を盛られた家久は、宇喜多に下る気はなく、伊賀氏にとっても虎倉家臣にとっても、宇喜多は成り上がりで其の後の有名な宇喜多の家臣諸氏も立場としては、この時点では格下でしかありませんでしたので、宇喜多に下るのをよしとはしない者と、今まで争って来た毛利に下るのをよしとしない者に分かれました。
 ただ、当然、家久は私怨のみでなく、ずっと伊賀氏がとって来た幕府への忠誠もあり、将軍が毛利にいる限り、将軍忠義の姿勢はぶれる事がありませんでした。

そして、忍山城戦。

毛利にとっては、願ったりかなったり。
今まで、何度攻めても無残な敗北をさせられてきた虎倉が味方となるのですから、、、。
そこで、羽柴の影が見えていた東方面の防備に対しおおいに、伊賀家久に期待しましたので、毛利は仁掘庄などの所領安堵しましたので、伊賀家久の所領は併せて20万石(江戸時代換算)となりました。

そして、高松城戦。そして、高松条約締結。
高松城の役の結果、境界線条約により、羽柴が虎倉城の請取りを求めてきました。

そして、羽柴は備中方面隊の黒田官兵衛、蜂須賀彦右衛門に対し、伊賀家久には気を付けるよう指示し、抵抗するようなら、兵糧攻めするように指示しています。

その情報を得て、明石飛騨は自分ひとりではかばいだて出来なくなるので、家久に、あとは任せて、備中へ退くように進言したのです。

遠方で勝手に決められた条約によって、全てを捨てて退去する事は、常識では考えられない事で、戦いをせずに退くなどもってのほかであり、力づくが全て、城を枕に討ち死にの死生観からは程遠い決断でしたので、重臣は怒って、登城しなくなったといいます。
そして、家久一人が城を出て、他は何も変わらず、家久の子四郎左衛門はその後も虎倉城内にいたのですから、領土の安全を守るため、自分ひとりが泥をかぶる苦渋の決断だったのでしょう。

 新山、土井等は虎倉消滅後は宇喜多の臣下へ下りましたが、多くはいやがり、武門を捨て土民となり、帰農しました。
 河原は毛利内通の疑いにより、久隆の命により新山が斬殺、弟の帯刀は毛利に移っていましたが、伊賀氏滅亡後、虎倉に戻っています

詳細ご教示、ありがとうございます!!

野楽人さま、こんにちはです。
詳細なるご教示、どうもありがとうございます!!
伊賀一族が、毛利・宇喜多間で如何に苦しい立場に置かれたのか、『実感』させていただけた気持ちです。
迫真のご文に、当時の空気感までもうかがい知ることができたような心持となり、深く深く感じ入っております。

明石飛騨のあの言葉は、最初に宇喜多領から出るときではなくて、高松城和議後の、国境裁定の折だったのですね…。
黒田官兵衛に関する幾つかの本で、毛利・宇喜多間の国境裁定にとても手間をかけさせられた…と読みましたが、境目城主のなかでも、伊賀は別格に警戒されていたこと、改めて認識できました!!

また、『将軍への忠誠心』が重要との儀、今の感覚からすると忘れがちな要素ですが、そこがとても大事であることにも気付かされました。
伊賀家が、如何に筋目正しき名族か、心底より実感できましてございます!!

時代の選択

この混沌とした時代、何が正しく、何が間違いなのか?
価値観によるのであり、絶対に正しいものはないのでしょうね。

直家も家を守り、繁栄する為に、今の勢力、これからの勢力をにらみ、次は織田が天下を獲ると確信し、いち早く織田に追従した、
伊賀は、織田、羽柴の勢力は認めながらも、君は君、臣として全うしようとした、それぞれに正しいのでしょう。

事実、天正十三年三月十日、平秀吉は従二位に叙され、七月藤原秀吉として従一位に叙されてからは、伊賀氏も毛利も、足利義昭は将軍職を降りたので、関白秀吉に従うのです。

これは、誰を主として従うか、現代にも問われる価値観ですね。

家久も「ぶれない」ところは評価でもあり、現代社会においては、融通の利かない、要領の悪い奴なんでしょうね。
敢えて、七難八苦の道を選んで歩むのは、今に伊賀家に伝わっているのでしょうか?

信長にしても、そうですね。今の時代なら受け入れられても、自分が主になろうなどの「うつけ」はその時代にはとんでもない事だったでしょう。
事実はもう少し違うと思いますが、今の時代なりの価値観に脚本されれば現代受けしますが、信長とて、逆族になるのは、恐れたでしょう。

私が思うに、弁明の余地がないのは足利直義などは強かったけれど黒いですね。
伊達の「なでぎり」も嫌いです。
理由をいかにつけようとも、大量虐殺に過ぎず、必要以上に殺戮を繰り返したとしかいえません。
勝てば英雄、の価値観は個人的には嫌いですね。

ただ、応仁から関ヶ原までは、力が全ても仕方なかったのでしょうが、、、。

価値観

野楽人さま、おはようございます。
しみじみと拝読仕り、もろもろ、考えを巡らせております。
他者から見れば、損な生き方だったかもしれない…でも、己の信念は決して曲げることなく、貫くべきものを貫き通して生涯を終える…という生き方は、やはり素晴らしいと思います。

人から見て、良かったか悪かったか…を意識しがちの己が小さく思えます。かと申して、透徹した心境にはなかなか達することが出来ませず…。
己に恥じない生き方ができますよう、本日もコツコツがんばりたいです。
清清しきご文、どうもありがとうございました!!

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

Re: はじめまして。

> ご先祖様について知りたい事があり検索をしておりましたら、こちらに辿り着きました。
> こうして、一族の血の歴史を知ることが出来て、嬉しく思います。
> ありがとうございます。


ご連絡ありがとうございます。
よろしければ情報をお寄せいただければ幸いです。

非常にマイナーですので、このブログを機会に皆さまの交流を図れればと存じております。
今後ともよろしくお願いします。
カテゴリ
プロフィール

野楽人(のらくんど)

Author:野楽人(のらくんど)

最新記事
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新コメント
TOEICボキャドリル

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。