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伊賀氏一族の其の後と加茂十三流荘官

伊賀氏縁故の家筋で御津郡北部七ヶ村旧加茂郷の地に加茂十三流荘官の家がありました。
何れも筋目正しき家柄で、その多くは伊賀左衛門久隆に縁がある家です。
 江戸時代、備前藩は、初期万治二年と寛文八年の二度に渡り、伊賀氏所縁の庄官どもが浪人して後も、家系、旧職を自負して権勢をはるので、民事上支障ありとし、各家系を書き上げさせ感状等の古文書を添えて代官所に差出させ取り上げました。
 そのため、岡山県中部の歴史に空白が生じたと云われています。

 伊賀左衛門佐殿御盃の次第
 一に 土井下総
 二に 鶴旨三郎兵衛
 三に 神原備中
 四に 河原六郎右ヱ門
 五に 新山民部
 六に 同(新山)平内

  右盃の次第如是也

 何れも伊賀氏の一族ですが

  その内、
  神原備中は病死
  同右京佐 同市兵衛共に作州にて戦死
  同越中は後、三村氏に仕え
  河原六郎右ヱ門は謀叛の嫌疑を以て殺され
  その子孫一時芸州に逃れていましたが、伊賀氏の滅亡後に帰郷
  新山は後に、宇喜多に仕えました。

そして、
  葛原、片山、菱川、河本、入沢、土井、河原、小林、鶴旨、津島、瀬尾、能勢、楢崎
 の十三家より先祖書、感状類を没収し、これを加茂十三流と呼びます。

 このうち河原と土井は筋目が二通りあります。
 すなわち、土井は伊賀河内守の二男三郎左衛門の系譜の家と伊予国土井備中守の末葉、土井相馬より出ている家
があり、
 河原は作州寺畠の城を切り落とした際、伊賀久隆が虎倉へ連れてきて、鍋谷城を与え、虎倉城の家老とした河原六郎右衛門、帯刀兄弟を元とする河原と、宇喜多直家の妹が伊賀久隆に嫁ぐ時、将軍家から宇喜多家へ預人となっていた河原源左衛門と弟宇兵衛兄弟が付き人として虎倉へ送られました。この兄弟は誠実で武勇に優れ、虎倉合戦にも活躍した人物で、この兄弟を元にした家です。

また、其の外に
  福島、黒瀬、小枝、富田、河原、近藤があります。
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将軍家から宇喜多家へ預人

野楽人さま、おはようございます。
伊賀一族の格式高さ、層の厚さに、改めて感じ入っております。

ズレたところに反応してしまいましたが→『将軍家から宇喜多家へ預人』という人が居て、その人たちが輿入れの付き人になるということがあるのだ…と初めて知りました。
普通の歴史書には書かれていない人々にも、それぞれに激動の人生があったことを、今更のように実感しております…。

名家の足跡

> > 領土を有するのは、単に力で奪うのみでなく、幕府から認められるか特定の寺社、貴族領として認められる必要があります。
> >
> > 皆、基本は文化知識人ですから動物の縄張りとは、やっている根本は同じでしょうが、少し違いますね。
> >
> > そのため、当然、将軍の動向、意志は強いものとなります。
> >
> > 従って、諸事情により、家が没落したり、名家の長男以外などを将軍が他家へ預ける事があります。
> >
> > 河原平内は宇喜多家が将軍義昭公から預かっていた人物なのですが、付き人として虎倉へやってきました。平内は後、河原源左衛門と名を改め、毛利の虎倉侵攻の際、奧宿鼓田の砦にいて、毛利の南部方面隊の穂井田元清に攻められ、虎倉からの救援が遅れたので、深手を負い、虎倉へ敗走の途中、敵を道連れに滝へ飛び込み戦死しました。
> >
> > 上杉禅秀の乱から関東公方足利持氏の乱により、佐竹、小栗、宇都宮の三家が衰えてしまい、将軍義持は伊賀河内守頼氏に北関東の名族、宇都宮家を客分として委ねました。
> > 伊賀下総守貞綱が宇都宮家を継ぎましたが後に伊賀家郎党に戻りましたので、伊賀兵庫頭の息、仁熊若狭守勝明が宇都宮家を継いでいます。
>
> 岡山県には、関東の名族の流れの家が多くあります。
> 坂東武者の流れでしょうか。
> また、伊賀家以外にも、藤の紋を用いる家が多いのが特徴です。
> 歴史的に気候は安定し、重要な土地として位置付けられていたので鎌倉恩顧の武門が多いのと、荘園領などのからみでしょうね。
>
> 加茂川は京を偲んでいますので、京と同じ地名が多く存在します。

伊賀一族

私の家の家系図では1650年頃~1730年頃までの2代~3代の記載がありません。上記の事と関係があるのでしょうか?仮説ですが、江戸時代に伊賀一族のほとんどが、家系図を没収されて先祖の事を公に語ることができなかったのではと推測しました。私の先祖の空白の記載からはっきりするのが1760年頃の平山に移ってからです。竹荘で暮らすのが厳しくなって、分家である一族はみんな他の地へ移っていったのでしょうか?何せ資料がまったく残っていないので、推測しかできませんが、先祖の事を知らなかったり、口外しない人が伊賀一族に多いのと関係しているのかもしれません・・・・

備前岡山藩による弾圧と備中

こんにちは。
仁熊様。伊賀氏一族については、口頭にて語り伝えられる事が多く、文書はあまり残っていません。
 たしかに、伊賀氏一族からは、直接、語られる事は少ないです。
しかし、この加茂川町分にしても、賀陽町分にしても、古くから続く家が多く、皆、「どこがどうの、、」などは結構知っているのが当たり前の状況となっています。近年は経済成長とともに、歴史的過去の認識を深める傾向が薄れ、逆に知らない人が増えていますが、、。
今、70以上の人は伊賀氏以外の事に関しても、大雑把には地域の歴史に関して当たり前に知っているでしょう。

 伊賀氏に関しては、「畑ヶ鳴」と「吉川」がありますので、どうしてもそこが何も言わない限り、他が取って代わる発言は出来ないでしょう。
 根本的に、虎倉城=伊賀氏の歴史は、最後に滅亡した家ですから、やはり隠匿の方向に向かうのhが仕方ない事かもしれません。
 そして、吉川もそうですが、やはり嫡断の系譜ですから、それが大きく影響していると思います。

 当家にしても、私の曽祖父などは、虎倉祭りの時は、虎倉城から呼ばれていたので夜12時を越えたら、家紋提灯を下げて、歩いて虎倉へ行っていた、といいますし、昔は御津や加茂川、岩田などでは、吉川の伊賀と言えば何も言わなくても、皆知ってる事で、私自身も平成になっても、高梁などでは、「賀陽の伊賀といえば、、、」と初対面の人からはよく言われてました。

 もっとも、若い時は、それが嫌でしたけれど、、。

歴史背景としては、加茂川は備前岡山藩が、江戸時代になっても旧虎倉伊賀氏の権勢を誇示し、統治に問題アリ、として系図や資料没収などを行っていますが、足守藩については、そのような事はないと思います。

従って、住みにくくなる、といった事はないと思いますが、虎倉滅して時は過ぎ、徐々に過去の威光も薄れ、貧していったのだろうと思われます。

系図については、やはり、津山森藩に奉仕していたようですが、津山森藩の移封に伴い士分を離れ就農した時点から、あやしくなっています。
 一般土民には、系図はいらない、といったところでしょうか。

理由はよくわかりませんね。

 ちいさなエリアの在地勢力として、神社やお寺などには、或る程度関わっているようです。(というか、寺の維持などは今に至っても、伊賀家が中心になってやらねば、、などと大変な事は持ちあげられる傾向はかわりませんが、、)
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