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宇喜多直家、伊賀久隆に毒を盛る!(Twitter投稿まとめ)その二

そして、天正六年九月、岡山城(石山城)


浮田忠家
「兄(直家)殿、久隆殿の妻はこの宇喜多の出なれば、事を荒立てず仕舞するためには、私の謀りといたしましょう。幸い、家臣の難波半次郎という者が毛利方に内通し情報を送っております事をつきとめておりますのでこれの仕業といたします。いつも、久隆どのには子供扱いされるけれど、今回は」


直家 「久隆ちゃん、よく来てくれました。僕を信じてくれてるんだね。これからも一緒にがんばろうね!」

忠家 「久隆殿、ささっ、奥へどうぞ、ずーっと奧側へお席を用意して御座います。どうぞ(出にくい方へ)」

直家 「今日は精いっぱい、特別な料理を用意したから、充分に食べて行ってね。」

   「もう少しで用意できるけえ、もうちょっとまっとてえよう」 ゴソゴソ、、、。


襖を隔てて、囲む家来
  「合図があったら一斉に斬りこめとのご指示じゃ。今日の褒賞は大きいらしいでぇ~」

  「相手はだれなら」

  「なんでも、今日のお客は伊賀久隆公らしいんじゃけど」

襖の奧直家の家来
  「あの人は先の虎倉合戦の時も直家様は、わざと後詰せんと毛利にやられるように仕向けたんじゃけえど、つえ~から、虎倉の連中だけで毛利をやっつけてしもうたらしゅうて、それで直家様はどうにかして力を削ごうとしとるらしいで」

  「とにかく、今日は褒賞がおおきいけえはりきるで」



伊賀久隆 「おいおい、早速囲んでくれてるじゃねえか。殺気むんむん。」


  そこへ本日の料理を担当した料理人が密かに
    「今日の料理には毒が入っております。解毒剤を服用下さりませ」
      と告げました。

伊賀久隆 「おいおい、今日早速ここまでやるか。」

     「直家が仕組んだなら、ぬかりはなかろう。」
    
     「今ここで解毒剤をのんだ事をしれば、斬りこんでくるであろう。」

伊賀久隆 「切り結んだとして、仮に逃げ出せても、(伊賀)家久はこの状況を知らない。直家はすぐに家久を狙うだろう。」

     「家久も知らないで不意に襲われると対応できないであろう。それはさけねばならん。」

伊賀久隆 「この場で首をくれてやる事はできん。かといって、家久への襲撃もさけねばならん。」
    
     「ええい、どうせ人間一度は死ぬ命。武士としてはいちかばちか毒を食んでもこの場を逃れ、虎倉に戻って一戦交えようぞ。」



伊賀久隆 「今毒を解きて難を免るるとも迚も生きては置かれまじ。終に死なん命、城に籠りて討死にする事こそ本望なれ」
     と戦国武将の気概、死生観をみせました



伊賀久隆 「私が饗応に応じて時間を稼いでいる間に、家久に虎倉城へ帰城し身の安全を確保するよう伝えよ」

    隙を見て沼の城に出向いていた家久へ伝令を送り、無事に家久を虎倉城へ帰城させました。


直家 「ささ、久隆殿、一献いかがかな。」

久隆 「おお、かたじけない。馳走になろう(わっ、これ備前焼の二層徳利じゃねえか。)」



伊賀久隆 「本日は接待頂きかたじけない。虎倉は山故日暮れが近いでこれにて失敬させていただこう」

      門を出た久隆と家来の後を宇喜多の草が隙あらばとねらうが久隆は早馬を立て虎倉へと急いだ。


伊賀久隆、虎倉城に戻り急いで城の門を固め宇喜多の襲来に備えた。
    
     「虎倉でやるなら、直家の勢力といえども、簡単にはやられる事はない。」


直家 「虎倉城に攻め込むのは危ない。あんな所へ攻めたらこちらの被害も相当覚悟せんといけんし、時間も相当かかってしまう。久隆殿が毒を飲んだのだから勢力は弱まるはず。様子をみよう」



伊賀久隆 「さすがに私も、毒のために体調が悪い。」
     
    「与三郎よ。お前に家督を譲るから、伊賀家久と名乗り、虎倉城を守れ。官職は私と同じ伊賀守、左衛門尉が与えられるようにたのんでおく」



天正七年三月、

伊賀家久 「父上、少しお体がよくなられた様子なので、狸狩りでもして、狸鍋でもして精力を付けましょう。」



伊賀久隆 「ぱく、ずずー」
  
   「狸汁はくさいのぉ。鹿にしようぜ」さしずめ今なら、虎倉はイノシシだね。
  
伊賀久隆 「ウッぷ」

虎倉城家来 「一大事じゃ、殿が血を吐かれましたぞー。」


  伊賀家久はすぐに父のもとに駆け付け看病しましたが、昨年の毒の影響から亡くなってしまいました。


  家久は、父の死を知られると宇喜多が虎倉に攻めてくるとして、城門を固く閉じて臨戦態勢を整えました。



  虎倉へ偲ばせていた草からの一報により久隆の死をいち早く知った直家は、見舞いと称し浮田源吾兵衛に50人を付けて虎倉の様子を伺わせましたが、伊賀家久は城を閉ざし、受け入れませんでした。



直家 「久隆殿が亡くなったとあらば、与三郎はまだ若いゆえ、虎倉の勢力も落ちよう。これで、羽柴殿の後押しがあれば、八郎の時代も宇喜多家は安定できよう。」



直家「この件(毒盛り)は久隆公毛利に内通のために仕方なしとせえ。義昭公の命により、毛利と通じているのだから通じている事は事実。むしろ、こちらが裏切って織田に通じているのが真実なんだけど、、、。」

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有り難く拝読いたしました!

野楽人さま、こんにちはです。
PC不調で動転している間に、かようなる素敵ご更新が♪(PC不調の件では、本当にどうもありがとうございました!!お言葉、とてもとても心強かったです!!!)

宇喜多家の毛利・織田間での揺れ動きと、伊賀久隆公毒殺の流れは、複雑に関連し合っていて、雰囲気的にどうしても把握し切れないところがありましたので、読みやすいご解説、まことに有り難く拝読であります!!
以前にこちらでたくさんご教示いただいたことも思い出しつつ、整理して考えることができました。

(こちらで書かせていただくのはご無礼…と思いつつ)拙作で、この毒殺事件の少し前に、二兵衛の宇喜多調略があった(←俗説っぽい気もしますが)ということにしてしまって、じゃあ(前に拙作で描いた)小西経由の調略は、いつ頃、どういう流れで入ることになるのだろう…と、自己矛盾ラビリンスに陥っております☆

信長が、宇喜多の本領安堵を秀吉が勝手に決めたことに怒って、宇喜多内応をすぐには受け入れなかった…ということと、伊賀家と毛利のやりとりなどで、(宇喜多が)いったんまた毛利寄りに??という気持ちにもなったりするのですが…。
宇喜多三家老の、それぞれ誰が毛利寄りで、誰が織田寄りになっていたのかも知りたいです。
天正5年~天正7年くらいの流れは、本当に複雑で、マイ豆つぶ脳では、思案に余る気持ちです…。

信長の西国侵攻と情勢の私的キーワード

こんにちわ。

この激動の時代について、私はキーワードがあるのではないか、と思っています。

先ず、荒木村重の信長への反旗と西播磨の反信長についてですが、その後の伊賀氏の件と根本的につながるものとして同じ秀郷流の荒木村重や波多野秀治などがとった行動の根拠も根本的な事は同じなのではないかと思ってます。(流派は違えど別所も)

やはり、将軍家に対する忠義と信長の侵攻に対する考え方、侵攻に対応するため毛利に頼ったであろうと、、。
そして、将軍が毛利方にいる以上毛利に真を求めたのでは、、、。

宇喜多は織田と同盟を組んだ浦上氏を大儀を以て毛利と組み滅ぼしました。そして、播州路を押さえるため、織田方に与する諸城を落とし上月城にはいりましたが織田に下った尼子氏に奪回されたので、直家は再び軍を進めて、上月攻めを行いました。当然、虎倉城士も宇喜多軍に参戦し意気揚々と戦果をあげています。しかし、天正五年秋、織田信長は羽柴秀吉を播州に差し向け上月城を取り巻き攻めました

この上月攻めの時、毛利家の命により備前から宇喜多直家を始めとする備前美作勢、芸州勢として清水長左衛門、中島大炊などが出陣しています。
そして、天正六年四月、毛利輝元卿の命により、吉川駿河守、小早川左衛門佐、毛利治部大輔が大将となって総勢六万五千騎をもって上月城を取り囲みました。あわや天下分け目の大決戦かとおもわれました。
信長は長男信忠、次男信男、三男信孝に八万の大軍を添えて援軍に向かわせましたが、明石あたりから進まず秀吉に退軍を命じました。
秀吉は、尼子孫四郎勝久、弟助四郎通久に中山鹿之助、亀井新十郎、池田東市介、立原源太兵衛等の侍大将を差し添え、七千余騎を籠城させ、中国より三木への通路を断って、岐阜へ帰陣しました。

浦上宗景を滅し、播磨平定を行うべく播磨遠征を行った際、秀吉軍の西国進出に伴い、その軍事力をまざまざと見せつけられた直家は「これからの時代は必ず信長が天下を獲る」と予感し、何とか信長に取り入るように手を打ち、織田と毛利勢の合戦は毛利が敗れるものと判断し、自らは仮病を構え出陣せず。
その上、角南隼人入道如慶を使者として織田信忠のもとへ味方の意を告げ和睦を請いました。

ところが思いもよらず、上方勢が討ち負け、上月城を見捨てて後詰の大軍を引揚げてしまいました。
直家の本心は、いずれであれ旗色のよい方へ味方する魂胆でしたが、毛利の陣でもすでに直家離反の噂は伝わり、直家を討取るべしの意見もありましたが、隆景が許さずそのままとなっていました。また、信長は直家の二心を疑い許容しませんでした。

直家は態度を明確にせず、勝負を見計らい、病気と称して出陣せずでしたが、家臣は戸川が信長につくことを強く進言、他も同調したとの事。このあたりはよくわかりません。
ただ、この時期の家臣はみな、叙爵されておらず、状況としては将軍義昭などの存在は関係ない立場であり、直家に従う事が唯一の立場です。直家の意向に掉さす者はいようも無く、異論ある者は心に秘めておくのみでしょう。

直家にとっては、織田に味方すれば、毛利方の侵攻ルートにあり常に対毛利の最前線にあった伊賀久隆が反旗を翻した際は大変な事になり、北から伊賀勢が、西から清水、中島等が攻められる状況は避けねばならず、今までの防備の要が逆に足元の爆弾になりかねない状況だったのです。

また、伊賀は国衆としても勢力が巨大で秀家の家督相続後に反勢力となってしたったら取り返しがつかないので、自分の目の黒い間にその勢力を削いでおかねば、との思惑が考えられます。

これが大体の状況であろうと思われます。

なお、私はその後の家久の時代にある想像をもっています。

宇喜多と袂を分かれた家久は仁掘荘を領しています。仁掘といえば赤磐であり地理的によくよくみれば、保木などに近くなります。

備前北部に約20万石を領していたわけですが、ひょっとすると、明石と組んで独立勢力圏下を築こうとしていたのでは、という妄想です。

直家と離れての家久の行動範囲は従来の虎倉城の範囲から多少避けたのか北寄りが多くなっています。(木山寺への寄進や四ツ畦騒動などから推測)また、再び、赤磐方面に力を入れている面もみられ、明石との関係から意外と接点があったのではないか、と思われるようになりました。また、時代背景に、浦上の残党が後藤と組んだりがありますので、県北の国衆とは安定した関係でありますので水面下の相互了解のもと国衆勢力の結集、浦上残党との協力等により備前北部に宇喜多に対抗しうる国衆精力を作ろうとしていたのではないか、との想像です。そのに、水面下で明石がからんでいたのでは、、、。と。

誰と誰が繋がってるの?

この上月城攻めの際、備中国高松城主清水長左衛門宗治が播州へ出陣中の留守に祢屋七郎兵衛配下の鈴木孫右衛門と祢屋の郎党秋山運右衛門が信長卿の味方となり(小寺官兵衛と祢屋七郎兵衛が交流があり、交わりがあった)、清水才太郎を人質にとる事件が発生した。ちなみに、この鈴木は高松の役にも毛利方で戦っている人物である。この時は、説得で才太郎を返させ無事おさまっている。
この鈴木孫右衛門であるが、別の件ではあるが、虎倉城家老 河原氏の後の鍋谷城主 片宗(片山宗兵衛久秀)からの手紙、伊賀久隆の感状を所有している。

常に毛利方であって、伊賀久隆が将軍義昭の仲介で毛利と和解してからは、行動をともにする機会もあったのであろうが、それぞれに属していても、交流のレベル、機会等の細かな情報は現代に伝えられておらず、備前軍記や備中兵乱記などの後に書かれた読み物では到底知る事が出来ないものがあったのであろう。

素敵キーワード、どうもありがとうございます!

野楽人さま、おはようございます。
『信長の西国侵攻と情勢の私的キーワード』、有り難く拝読仕りました!!
コメント欄にレスとして頂戴するのはもったいない内容であります!!
ぜひ、ブログ記事として再掲なさってくださいまし~~♪

以前こちらで、『将軍家の権威』や『中世社会の家格と秩序』といったことを『当時の空気感』としてご教示いただき、目からウロコでござりましたが…。
こたびも、やはり、そのことが彼の地一帯の複雑な変転ぶりを生んでいたのだな…と、改めて思い至る気持ちです。

殊に宇喜多家中は、直家自身が持つ合理(理詰めで利を追求する)感覚と、一族・家臣の旧来の感覚や思惑とが、内部で物凄い葛藤を起こしていたのだろうな…と、これも改めて強く思いました。

…今すぐ岡山に飛んで行って、野楽人さまからのご教示を賜りつつ、虎倉城跡を始め、あの周辺の史跡を巡りまくりたい!!と、現在、矢も楯もたまらない状態となっております☆
改めまして、判りやすくも内容の濃いご解説、どうもありがとうございました!!!

過分なお言葉をありがとうございます

過分なお言葉をありがとうございます。

伊賀氏の歴史をみますに、北条幕府滅亡に時に、危うくも一緒に滅してしまう寸前、なんとか運よく生き延び、次の足利幕府下に家をつないできましたが、足利幕府滅亡とともに、伊賀家も滅してしまいました。

まさに、時代の流れに栄枯盛衰をみるといいましょうか。

その中に、仁も義もなくば命運を賭けられなかったことでしょう。

本当に生きる事さえ大変な時代のリアリティを感じます。

是非、一度お越し下さいませ、ね。

仁も義もなくば…

野楽人さま、おはようございます。

『その中に、仁も義もなくば命運を賭けられなかったことでしょう。 』

このお言葉、じわじわと心に沁み入って参ります…。
本当の『仁』も『義』も、私は意味をわかっていないように思います。

『本を読んでもわからない』ということ(大切なこと)が、世の中になんと多いことか…と思います。
自分は『わからないこと』をたくさん抱えている人間なのだ…ということを、せめて、認識し続けていたいです。

五常の徳

「仁」「義」「礼」「智」「信」もの恒常不変の真理こそが最も必要であるはずなのですが、人はそれを求め完璧に身につけている者はいないのではないでしょうか?
常に、求めれば求めるほど奧が見え未熟さを知り、求めるのでしょう。
人が一生をかけて求める真実の姿かもしれませんね。
まさに終わりなき探求ですね。

人が人生を終える時、「感謝」の念をもって終える事が出来る時到達出来るのかも、と思いますれば、、、。

宗教論ではないですが、神の存在とは どのような宗教であれ、人生を終える際、初めて「ああ、神よ!」と感謝できればよい と感じておりますが、 人生を生きて行く導として神を求めるものにも通じるのでしょうか?

そこに、他力本願ではなく、自らの哲学と強烈な意志、向上心がなせるものだろうか などとおもったりする訳で、、、。

しかし、実際には目の前の誘惑に負けてヘタレの行動、意志を身につけ日々をやり過ごしているものでございます。

結局、難しい事は判らずとも、人の道を求め、人として恥じない道を歩む努力かな、としみじみ思うわけであります。

あまり、真剣にかんがえちゃうと、人間に遊びがなく堅くなっちゃうし、、。むずかしいですね。
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