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ツイート投稿まとめ 備中高松の役と其の後

kagataro‏ ツイートでほざく!

家久危うし!「備中高松城戦とその後の苦悩」



天正十年、備中高松城の攻防は東西十数万騎が対峙しましたが、結果は周知のとおりとなりました。この戦いの際、伊賀家久は宇喜多勢の進出を食い止めるため、上高田の忍山城を本拠とし、南に延びる山稜に砦を築いて頂上を急角度に削り大井の北方まで一大防衛線を構築しました。


更に、備前備中の国境の十二本木、日応寺などの出城をも強化し防備を固めました。虎倉城も塀を高くし矢倉を強固にして対応しています。 毛利勢としては、大勢力の動きがとりにくい高松城より北の忍山はら本陣山、虎倉あたりでの対戦を想定していたのではないでしょうか?

虎倉は、毛利勢自らが苦い経験を持つ攻め難い地形であり、地形を生かした戦略を立てやすく、大勢力の動きを封じやすい事が挙げられます。秀吉側も先に調査して忍山周辺から虎倉あたりではなく、南の平野部で決戦を誘導したのかもしれません。

ともあれ、高松城の決戦は信長の死によって終局は意外と早くおとづれ、清水宗治の切腹の形をもって終了しました。


高松戦後の織田氏と毛利氏との講和条件のなか、伊賀家久にとっては大変都合が悪く、東西境界線を、山陰では伯耆八橋川、山陽では高梁川とすることでした。

織田と毛利の高松講和条約は信長の死によって空文化され実施されませんでしたが、天正12年になると秀吉は兵庫以東を統一して天下を掌握し、毛利方に先の高松条約の実施を強く要望してきたのです。

毛利は、この条約は織田との締結であり、秀吉との締結ではないと抵抗し、東西の分割線を高梁川より備中国境とする事で合意しました。それにより、備前美作の諸城請取りに蜂須賀彦右衛門、小寺官兵衛の両名が接収をして回りました。

その際、秀吉は草壁氏、伊賀氏等には充分気をつけるように指示しています。

そして、伊賀家久は、遠くで決められた条約により所領を失うわけですからこれは当然納得できるものではなく、一時期は虎倉城に籠り徹底抗戦をする行動をとりましたが、妻の父である明石飛騨守より説得をうけました。

秀吉より交戦するなら干殺しにせよとの指示が出されており、意地で籠城しても虎倉城一城ではいずれ結果はみえている事、長田庄を長期の戦火に巻き込む事による住民の災難等から、明石飛騨はその立場から宇喜多勢力下になっても長田庄の後国の保証をしたのであろうと思われます。

伊賀家久は明石飛騨の説得を受け入れ、毛利方から大井五カ村、吉川、山ノ内等をあてがわれましたが鎌倉以来の長田庄、美作、備中竹ノ荘等を失う事となりました。また、虎倉将士は従来毛利と戦ってきましたので毛利に下る事をよしとはせず家久を諌めましたが聞き入れないため、登城しなくなったそうです

伊賀家久は虎倉城を出て、備中吉川に仮住居を構え、城は忍山城を主城とし、大井方面を収めました。忍山城は虎倉城と隣接した備中側にあり、その昔虎倉城の支城の一つで規模の大きい堅城です。

天正十三年三月、平秀吉従二位、同年七月、藤原秀吉ついに従一位に叙され実質天下人となりました。征夷大将軍従三位義昭は秀吉より一万石を贈られ和して将軍職を辞したのです。

守るべきもののなくなった状況秀吉の代官黒田官兵衛らの折衝によって備前備中の境界線は破棄され、高梁川を原則とし、備中松山城および竹之庄西半分を毛利氏とすることで決着しました。

このため、伊賀家久は、江戸時代換算で約20万石の所領から、高松戦後3万石あまりとなっていましたが、それも失い、従者数名を伴ったのみで芸州へ赴きました。まことに淋しい出立でした。

伊賀家久は幼弟太郎次郎を神原惣右衛門に預け、これが後の神原太郎右衛門久良となります。其の時、家久はこう詠みました。

 消えて行く淡とも今は身一つの心尽しの末の浦波

時世の移り変わり、時の盛衰とはいえ祖先以来、将軍家家人として主臣一体となって心魂を砕き、備前国に虎倉城ありと天下に馳せた高名も今は夢故郷を捨て、家を捨て、身命を賭して忠節を尽くし、豪勇で知られた家臣団をすてわが身一つで西下する心境はいかばかりでしょう。この句は心境を物語ります。

この伊賀家久の西下を以て、鎌倉幕府以来三世紀半に及ぶ備前長田庄伊賀氏は断絶したのです。  伊賀氏は鎌倉幕府、室町幕府ではその創設以来御家人でしたが、その盛衰は領幕府の消長に左右され浮沈を重ね、その最後も将軍義昭の辞任と時を重ね、足利幕府と共に消え去ったのです。




その他 虎倉関連ツイート抜粋


>「伊賀氏」の存在も虎倉城も県内でも非常に薄くなってきていますね。私も、金川などに教えて欲しいと、お話しましたら「こんな地元のマイナーな城、人なんか、、、」と言われましたし、急に、「高齢なので体調が、、、」などとお相手して頂けない現状です。

>ネット上で「虎倉城」をみたら、いつのまにか松田氏が築城したり、金川城の支城って事になってるよ!地元の御津町史でもすでに、史実が無茶苦茶になってる!鍋谷城のみにとどまらず、本城虎倉まで、松田に占拠されたよ(;一_一)


>虎倉城本丸入り口の石段は「なぜあんなに鋭角で危ないの?」って聞いたら、「昔はわらじで、もし、攻め込まれた時、走りこめないように」だって。


>金川の歴史資料館に「虎倉物語」を聞いたら、備前軍記以外は知らないらしく会話にならなかった。


>今では一般の人はもちろん地域史に関わる人さえ、そこに城があったとは知らない人が増えました。まして、忍山城の周りには、鎌倉山、十二本木城、本陣山、勝尾山等ありますが人の入りがなく寂れる一方です。虎倉城でさえ地域の方が高齢になり上がれないとの事です。



この時代を考察し推測しますと、伊賀家久および虎倉城は「毛利にも付きたくはない」し「宇喜多への鉾を収める」のもしたくない。苦境のなか、家久は備前、備中の境目に勢力を持ち、その昔から、近隣在住国人と協調安定をはかって歴史からも地域の反宇喜多勢力を結集し、浦上家の残党などと組んで在住安定圏内を構築しようとしたのではないだろうか、と考えます。むろん、毛利等の勢力の協力なしには為し得ないでしょうが、、。明石飛騨に相談し拡げようとしましたが、意に反し、明石飛騨の実行を得られなかったのではないか、逆に明石飛騨より、「後は心配せず任せる」ように説かれ、毛利に下ったのでは、、?などと。

備中の国人精力=反宇喜多、浦上残党の行方と勝山勢、後藤などの動き、明石飛騨の勢力圏、伊賀家久の赤磐、美作方面への勢力拡大、などをみますとそのような動きがあったのではと思われます。これだけの勢力が何もせず、むざむざと領土を明け渡す事はどう考えても、常軌を逸しています。
たぶん、家久は織田の情勢も力も判っていながら、宇喜多に対し意地を通したのでしょう。

家久が意地を曲げるなら、たぶん宇喜多の中で存在できたのではないかと思われますが(一応家久の母は宇喜多ですから)、それをさせなかった家久の心は悲しみの句に現れています。

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家久公の誇りに感服であります

野楽人さま、こんにちはです。
こたびも、大変興味深く拝読いたしました。
『家久が意地を曲げるなら、たぶん宇喜多の中で存在できたのではないかと思われますが』との儀、名族の誇りと共に、如何なる状況に立ち至ろうとも、父の仇には絶対に屈しない…という、家久公の信念を感じます。
信念…と申しますか、それほどに父上を尊敬し、誇りに思っておられたのでしょうね…。
信じていた宇喜多に、その大事な父上を毒殺された無念、想像を絶するものがあります。

毒殺のこと、明石景親は、宇喜多から何も知らされていなかったのでしょうか…。娘の嫁ぎ先にそういう仕打ちをされて、その後、宇喜多にどういう感情を抱いていたのでしょうか…。
事前に知っていたとしたら、景親、相当の悪人と思われますし、知らなかったとしても、その後もっと、伊賀家に良いように計らうことが出来なかったのでしょうか…。その辺りも、とても気になります。

虎倉城、見学に登ってみたいです。相当に険しい要害の由、足腰を鍛えておかなければ…という気持ちです☆

コメント有難うございます。

初めまして岡山城鉄砲隊の朱武者でございます。
当方ブログにコメント頂き誠に恐悦至極。
野楽人様のブログは素晴らしいでございますな。
よく研究されており感心いたしました。
演武は是非お越しくだされ~。
岡山城鉄砲隊HPや当方ブログでお知らせいたしますぞ。
近々では、備前長船刀剣博物館にて本物の甲冑着付け体験を予定しておりまする。
200~300年前の本歌でござるよ!
ではでは今後ともよろしくお願い致しまする。

ありがとうございます。

早速のコメントありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。

いつの日か虎倉城も復興しイベントが打てる日が来ればいいですね。

家久の思惑と明石飛騨の存在

こんにちは!いつもコメントありがとうございます。
家久(与三郎隆家)は、一応、母が宇喜多ですので、久隆が亡くなるまでは沼の城に出入りしたりと宇喜多とは結構親密だったのではないでしょうか?もちろん、宇喜多一の大身、明石飛騨の娘を娶っていることですし、、。その宇喜多よりに育った 与三郎隆家 は、やはり虎倉を背負う立場から毅然と反宇喜多を掲げたのでしょう!もちろん、後世においても、久隆公の名君ぶりはずっと伝えられるだけの偉大な人物で 隆家 も慕っていたのでしょう。その遺恨と家を守る重圧から、時代の流れをもろに受け、あふるる才を持つ 与三郎隆家(家久) はその能力を発揮する場を失い、世間の評価を落とし苦しむ結果となりましたが、、。それでも、意地を貫き通した心意気は晴れやかだったと願わずにおれません。

家久は、久隆が亡くなってからは、虎倉領の内、比較的北のほうでの行動が多かったように思えます。宇喜多が美作を攻めた事によるのかも知れませんが、宇喜多の勢力に押され、備中境や美作との境方面に押しやられ気味になっていたのかも、、、。

毛利の後押しを受けてからは、現在地で言えば落合、福渡、仁掘、真庭南部、竹ノ庄などでの動きが多く、虎倉から位置すればみな北方面ですね。そして、東西に動きが出ています。仁掘などに力を入れるにはその南部赤磐から瀬戸町なども当然、動きが関与されてくるはずです。

そして、家久西下ののち、福渡から美作南部、仁掘あたりの城の改修はなんと明石飛騨が行っているようです。

久隆公なきあと、家久は妻の父、明石飛騨を頼った?

家久としては、浦上残党の蜂起や美作国衆などの結束などの社会的情勢に乗って、明石飛騨かあるいは他の宇喜多の大身が味方に寝返れば勝算あり、と虎視眈々と狙っていた。

そして、明石飛騨は供応して宇喜多に反旗を挙げる事なく、さりとて家久の要請を断るでもなく、、、。

これまた、家久の持城、勢力をじっくりと観察し、これまた、虎視眈々と、、、、。

心のよりどころとし信頼した明石飛騨より秀吉軍の勢力が迫っており、強硬な姿勢をとるなら取り囲んで日干しにする計画がある事を伝えられる。
その頃、すでに、虎倉、忍山の城下にも秀吉軍の諜報隊は出没しており、家久も世間の情勢に疎い訳ではなかった。秀吉軍の強さも、いずれ、信長が天下を掌握するであろう事も感じていた。

しかし、大恩大儀の久隆公を殺害した直家の屈する事は許さない。また、虎倉での戦なら今まで負けた事がない。どんな大軍であろうと久隆公のように追い払う事が出来るもの、出来ずば城に籠って打ち死ぬことこそ武士の本懐との家久の強い想いであった。

しかし、不思議なことにいままで、毛利の虎倉合戦のほかは長田庄が戦火に見舞われた事がない。みな、迂回して虎倉領をさけ、美作へ攻め込んでいたのである。これは頼兼公以来のうわさに聞こえる虎倉城の強さと駆け引き、結束力などによるものであろう。

虎倉でやれば負ける事は無い、その想いは絶対なれど、その長田庄が戦火に見舞われる、しかも、虎倉が強固で長引けば長引くほど領民の苦しみは増えるのである。これに家久は苦悩し、色白策を練ったのでろう。

そこへ、明石飛騨より秀吉、直家軍の情報がもたらされ家久の退城を勧められたのである。家久一人が退城することによって、虎倉が戦火にまみえる事が回避される。
自分ひとりが泥をかぶる事によって多くの命が助かる、そして替わらない生活が、、。

その想いで、ついに家久は退城を決め、毛利に下り西下する事となった。

そして、虎倉、および虎倉領にある城はなんと、宇喜多領に吸収されると、勝手知ったる明石飛騨が改修を行って回ったのである。

明石パパ、やはり腹黒??

野楽人さま、こんにちはです。
またもコメント欄ではもったいないような濃い内容のレスを、どうもありがとうございます!!

>そして、虎倉、および虎倉領にある城はなんと、宇喜多領に吸収されると、勝手知ったる明石飛騨が改修を行って回ったのである。

…明石パパも、めまぐるしく変転する情勢対応にいっぱいいっぱいで、伊賀家に良かれと立ち回っても、結果的にああいうことに…という感じだったとは思いたいですが…。

浦上を裏切ったことも含め、やはり、かなりの腹黒サンだったと見るほうが自然なようにも…。
ひょっとして、久隆公毒殺も、事前に知っていたのかも…とも疑ってしまいます。
早く仕事を終わらせて、またいろいろ調べてみたいです!!

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こんにちは!いが様。

はじめまして。コメントありがとうございます。

> 岡山のどちらの伊賀様でしょうか?御本家の所在は?よろしければ、お教え下さいませ。

> 農家で分家です。
  虎倉落城の後は、各家、関係諸家、家来衆、大半が帰農していますね。

> 家紋を調べていましたら、なんと宇喜多氏の家紋と同じ、丸に剣酢漿。
  岡山県は、剣酢漿の紋を使われている家が多いですね。「伊賀」の名乗りの家はやはり藤紋(上り藤)が多いようです。

> 宇喜多家の下にいたとすれば、私の先祖も伊賀家なのでは…と思いコメントしました。

  伊賀の名乗りの家の中にも虎倉城落城後は、宇喜多に加わった家もあるようですね。
  大半の家は先述のとおり、土民となり刀を治めたようです。
  家久西下ののち、虎倉領、長田、紙工などに住する大身はそのままなんら変わらずすごし、自然と宇喜多に吸収されていったようです。
  宇喜多に加わるを「よし」としない者は帰農しました。

  ちなみに、当家は、家久西下ののちは暫く身をひそめ浪居したのち、慶長八年に森忠政が津山に転封となった際、中老として津山森藩へ奉仕したようです。そして元禄十年森長成の時、森家廃絶となり、三郎左衛門昌則より四代の昌知は中老の職を辞し土民となったようです。

  もし、伊賀氏に興味をお持ちになられるようでしたら、よろしければ一緒に勉強しませんか?
  face bookもやっておりますので、よろしければアクセス下さいませ!
  https://www.facebook.com/events/list#!/eiji.iga

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Re: 伊賀喜平次

> 初めまして。横見様。
>
> この伊賀喜平次という者はよくわかりませんが、多分、哲西町か哲多町あたりの住人ではないか、と思われますが、、。毛利方の配下に、あのあたりの「伊賀」を名乗る人物がいたような、、。あの辺りでは、伊賀氏より出でた伊賀三郎五郎が近藤氏の跡式をしきり、花見山城主として在していた事があります。その系譜かもしれませんね。

伊賀家久は家久となる前は、伊賀与三郎隆家といいます。忍山城戦の前、父伊賀左衛門尉久隆の跡式を継いで、叙爵され、伊賀(左衛門尉)伊賀守家久 となります。

家久は西下したのは、備前軍記の影響で、すぐに虎倉城を明け渡し逃げたように思われますが、家久は天正十三年まで粘ります。しかし、動きは押され、少し北での行動が多いようです。


毛利に下ってからは、小早川軍に属し、隆景に従します。しかし、立場は、客人扱いで、毛利も勢力は持たせず、三百石(後、八百石)でしたから、大した動きはなく、埋没します。

そして、博多にて病死。連れて行った娘は、輝元の媒酌により、井原家に嫁ぐといったところですが、時代の表舞台に再び上がる事はありませんでした。

しかし、家久の亡き後も娘の処遇について配慮するなど、待遇をうけていたのであろう事は伺えます。

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