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加茂崩れ「虎倉合戦」 - 「平岡の千人塚」

「平岡の千人塚」

 天正二年四月、毛利輝元自ら大将として出陣した虎倉合戦。毛利方は破竹の勢いで虎倉に侵攻したが、伊賀久隆により、大敗を喫し粟屋与十郎をはじめ多くの戦死者を出しました。これを「加茂くずれ」と呼びます。

この合戦で戦死した多くの毛利兵を弔った場所が「平岡の千人塚」です。


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まとめ【加茂崩れ「虎倉合戦」】

「平岡の千人塚」 天正二年四月、毛利輝元自ら大将として出陣した虎倉合戦。毛利方は破竹の勢いで虎倉に

まとめ【加茂崩れ「虎倉合戦」】

「平岡の千人塚」 天正二年四月、毛利輝元自ら大将として出陣した虎倉合戦。毛利方は破竹の勢いで虎倉に

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こちらではお久しぶりでございます

おはようございます。
貴・過去記事(戦国伊賀氏)の虎倉合戦の辺りを拝読し直しておりましたが、合戦のあった年代、ほんに史料によってまちまちなのですね…。
なるほど、天正2年が自然…という気持ちです。
その年の秋には、毛利との和睦が…。その早さ、対・三村のため、ということになるのでしょうか??
本当に複雑で、何度読んでも、マイ豆つぶ脳では把握しきれない気持ちです…。

対 松山城

こんにちは。ナタ55様。

そうなんですよ。これが、激動の備前、備中、美作の情勢をよく表していると思います。

伊賀、宇喜多は尼子と結び、尼子は織田と結んでいた、そして、毛利は勢力を伸ばし、三村、中島などが傘下に、といった情勢でした。そして、天正に入り、将軍足利 源義昭は織田と不仲となり、上杉や毛利、武田を頼ろうとします。そして、毛利に中国地方がまとまり、将軍家を支える事を望み、各地方有力者に意向を促します。
それに答え、毛利と伊賀、宇喜多は和睦しました。
これにあわてた織田は三村に対し、味方すれば備前国を与えるとしてそそのかしました。そして、三村(織田)対毛利、宇喜多の争となったのです。
伊賀は三村とは隣国で小競合いはありましたが、三村も虎倉領への直接侵攻はなく、迂回して美作へ進出するコースをとります。
家臣に家などは、一族の内でも三村、伊賀のそれぞれに属している者も多く、均衡を保っている状態であったようです。

それが、三村が織田の後ろ盾によって対宇喜多戦となり、滅してしまったのです。

従って、いつも宇喜多の戦の先陣は虎倉勢ですが、この三村戦では地形をよくしっている久隆ですので、一歩退いて刃を振わず、松山城近くで落ちてくるならこの道と、遠巻きして見ていたところ、勝法師丸が落ちてきたのでは、、。

ご教示ありがとうございます♪

おはようございます。
伊賀家をめぐる織田、毛利、将軍家…そして宇喜多や三村の、当時の状況がよくわかりました!!
こたびも判りやすいご説明、どうもありがとうございます!!♪

勝法師丸のこと、久隆公は助けてあげたかったのでは…と、今、ふと思いました。
聡明だからこそ、殺しておかなくてはならない…という小早川隆景の冷徹な判断も、至極当然…とは思うのですが…。

そう考えますと、どの逸話も、まさに『戦国時代!!』という非情さに満ちておりますね…。

Re: ご教示ありがとうございます♪

> ナタ55様、こんばんは。
>
> 勝法師丸のこと、久隆公は助けてあげたかったのでは…と、今、ふと思いました。
> 聡明だからこそ、殺しておかなくてはならない…という小早川隆景の冷徹な判断も、至極当然…とは思うのですが…。
>
> 実は、勝法師丸はたすかっているのですよ。虎倉領の北の方で、伊賀三郎五郎(近藤若狭守)の保護の元、成人し、名前を入沢と母方を名乗り、帰農しました。

久隆公の申し入れに、隆景卿も譲ったものと思われます。表向きは、斬殺したようになっていますが、、。

良かったです!!

おはようございます。

勝法師丸が助けられた逸話があったのですね!!
『入沢と母方を名乗り、帰農』というほど詳細情報が伝わっているのならば、真実なのでござりましょうね♪

久隆公、名族の品格を備えた聡明な少年を生かしてあげたい…と隆景卿に必死に嘆願なさったのでしょうね…。
隆景卿も、伊賀家ならば、任せられる…と、助命を認めたのでござりましょう…。

「備前軍記」等には、勝法師丸、殺された話しか載っておりませなんだゆえ、心温まる気持ちとなりました。
良きお話、どうもありがとうございました!!♪

久隆公および虎倉城の存在

ナタ55様、こんにちは。

入沢氏はのち、「加茂十三流荘官」に名を連ねています。

久隆公および備前虎倉城は、今日、全国的知名度は薄いのですが
陸上交通の主要地のキー的存在として、大きな存在であり、当時は、かなりの知名度であったのであろうと思われます。


特に、毛利方にとっては、東上のための陸上交通の開発には避けられない城ですから、、。

ACTION COMICS の飯盛り侍(原作井川公彦 漫画 やまだ浩一)などにも少しだけ名は出ていますね。(悪者?)

久隆公は国人ではありますが、時代的に、昔は「家」を重視するところもあり、その立場は今日想像するよりはるかに強かったのではと思われます。

宇喜多にたいしても、配下のように思われますが、対等、それ以上であったであろうと思われます。なぜなら、宇喜多は無官ですが、伊賀氏及び虎倉の諸将は皆官職であり「守」でした。

久隆公をして
「器字宏大、名将たるの資を備え威風を望んで来たり投ずる一騎当千の士、その膝下に満ち、遠近の城砦ことごとく彼に雌伏した、、」
「宇喜多直家を凌ぎ遂に直家が嫉妬の毒にたをれるに至った、、」
といいます。

また、虎倉合戦では、終戦後、久隆公はその結果に満足せず、なんと下士官に蟄居を命じています。輝元そのものや隆景を逃した事を失敗ととらえているのです。

すなわち、今日の評価の目では、大国毛利に対して一地方国人の立場は、大国>国人の図式が当然と考えられますが、はたしてそうとばかりはいえないようです。

昔の書物では、名前は呼び捨てですので、皆、それから立場をはかる事はできませんが小早川に対しても、左衛門佐ではなく単なる隆景なのです。

どうしても、「備前軍記」は後に書かれた、読み物であり宇喜多本ですので、、。(備中兵乱記は毛利方、中島の自画自賛本)

歴史検証は難しいですね。やはり、口伝などの整理や各家所有の未公開資料が頼りとなりますね。

軍記物…

野楽人さま、こんにちは。
そちらの歴史を語る上で(学問上でなく、世間一般で語る上で)、必ず「備前軍記」が出て来てしまうのが、伊賀家の不幸の一つですね…。
伊賀家のみならず、宇喜多以外の名家のイメージが、ほぼ、あれを元にして語られてしまっておりますゆえ…。
かく申します私も、そちらの地域の歴史は全く知りませんでしたので、「備前軍記」、初読時は(恥ずかしながら)かなり鵜呑みにしてしまいました☆

ほんに、学術的な検証がどんどん為されて、伊賀家の歴史もきちんとした形で、もっと多くの人に知られるようになると良いですね!!

>また、虎倉合戦では、終戦後、久隆公はその結果に満足せず、なんと下士官に蟄居を命じています。輝元そのものや隆景を逃した事を失敗ととらえているのです。

↑久隆公、真の武士(もののふ)!!という印象が深まりました!!
勝法師丸を、実は救っていた…というお話も素晴らしいですし…。
生真面目で慈悲の心を秘めたかただったからこそ、そこを宇喜多につけこまれてしまったのでしょうね…。
なりふりかまわない卑怯さも持っていないと、乱世で生き残るのは本当に難しかったのだと、改めて思いました。

Re: 軍記物…

>ナタ55様、おはようございます。

> 残された資料が表に出ない以上、どうしても「備前軍記」なんですよね。
あれは宇喜多の本ですから、どうしても宇喜多に偏りますね。併せて、備中兵乱記、陰徳太平記、等も読まれる事をお勧めしますが、どれも、後の記載なので、、。

宇喜多直家にとっては、自らの所業から「力を持ち過ぎた伊賀久隆をなんとかせねば」との想いであったのでしょうが、結果的に後の関ヶ原等ではもはや第一戦の兵を集められず、ここに宇喜多は憂き目を見たでしょう。

宇喜多の備前での戦の先陣、やはり伊賀久隆率いる虎倉勢によって戦果がなされたものは多かったはずです。

どうしても、強い宇喜多のイメージは実は虎倉勢の戦功によるものと思っています。

戸川も花房も長船も岡もいましたが、結構宇喜多のみの時は、足もとまで攻め込まれ(南ルートは沼城付近まで危なかった)ましたが、毛利は常に松山城から備中境、美作へ迂回しての侵攻でしたから、常に虎倉勢が矢面となったのでしょうが、、。

伊賀久隆公は、名君と伝えられていますが、私はあえて汚名を被った家久公のこころを思うとせつないものよ、と感慨にふけります。

戦国を生き抜く兵は、皆、逞しく単に「いい人」では生き残れなかったと思います。
しかし、詩を詠み書を書く文化人でもありました故、知性と教養も持ち合わせねば立場は守れなかったでしょう。家柄がおおきく左右する時代、「家柄」のバックボーンを有効に使い、立場を固め、人心を掌握して統治する、その手段として時には剛の戦も必要だったのでしょう。

虎倉勢、最強だったのですね

野楽人さま、こんにちは。
「陰徳太平記」は入手困難ゆえに未読なのですが、「備中兵乱記」はサッとですが一通り目を通しました。
同じ戦に関しても「備前軍記」とあまりに記述が違いましたので、軍記物のキケンさを改めて知る思いでありました。

虎倉勢は、宇喜多軍の中での、重要な戦力だったのですね…。
直家としては、有力な味方にもかかわらず、利用しきれなくなったときのデメリットのほうを重く見て、あの謀殺行為に及んでしまったのでしょうか…。

やはり明石サイドで考えてしまいますので、家久公に娘を嫁がせている景親としては、直家の陰謀をどこまで知っていたのかが、気になります。
知らされていなかったのだとしたら、後に、どういう感情を抱いて、どういう風に対処したのかも…。
天正6、7年は、あらゆる情勢がめまぐるしく動いておりますゆえ、誰もが目先のことでいっぱいいっぱいで、判断ミスも多かったろうと思われますが…。
伊賀事件はとりわけ謎が多いですので、ご無礼とは思いつつ、さまざまなことの真相が、とても気になります。

Re: 虎倉勢、最強だったのですね

> ナタ55様、こんにちは。
> 「備中兵乱記」は三村氏の反乱を描いた戦記であり、「中国兵乱記」は中島記といって、後年、自己の体験について中島元行が自画自賛して書き留めたものといわれますので、視点が違うのと、多少、自画自賛なので、中島の立場が大きく描かれています。
備中境を領有していたような記述ですが、中島は現総社市の北部を中心として、実際には中心は備中境とは少し南になると思います。(旧吉備郡は領有していたのかもしれませんが、、)

>気になる点は宇喜多直家は「中国兵乱記」では、宇喜多和泉守となっていますが、実際にはその頃には、直家はまだ叙爵されておらず、官位もありませんでした。

また、「中国兵乱記」は時間的にかなりのズレがあり、いくつかの出来事が混同されているようです。

宇喜多で強かったといえば、やはり能家。
これは、その実績に異論なし、のところです。

直家の戦いについては、知られるところであり、最初は少勢ながら、まともに戦っておりその頃は、徐々に人も集まり強くなっていた、と思いますが、三村の侵攻、毛利の東上の防備等を考えると策略に走る傾向がクローズアップされます。


> 対毛利、対三村等、宇喜多が圧倒的に強さをみせた戦いは常に備中境、または美作からの南下ですから、どうしても虎倉勢が矢面となるのでしょう!

南から直接攻めた侵攻は、沼城の麓まで押しこまれ直家危機の状況となりましたから、、。


実際には、虎倉合戦の勝利が直家に大きな衝撃を与えた、と言われます。
実際には、伊賀久隆は所領を守る事はしますが、あまり、自らが仕掛けて侵略する戦は少ないようです。
宇喜多の与力としてのちに宇喜多の意向にそって先陣を切って備中へ侵攻していますが、、。


石高や武器、戦闘力をみれば、もう少し自ら勢力拡大をはかる事もできたであろうと思われますが、、、。

固かったのでしょうね。
その時代の縦型社会構造を維持する立場側の考えに基づいた行動でしょうか。
信長の「うつけ」といわれる行動とは正反対ですね。

一部の言い伝えでは、信長と同時代を生き、姿、雰囲気は似ていたとも伝えられますが、、。


> 直家としては、有力な味方にもかかわらず、利用しきれなくなったときのデメリットのほうを重く見て、あの謀殺行為に及んでしまったのでしょうか…。
>

自らの体調不良と、虎倉合戦で毛利方に完勝したのをみて、危機感を持ったと言われます。
虎倉合戦によって世間の久隆に対する評価は大きく上がります。

まして、この時代は古くから「家」格が重要視され、すでにベースが創られています。

宇喜多としては、勢力を持ち過ぎて、よからずとの思いが湧いていたでしょうし、虎倉合戦で少し疲弊して勢力を落とすだろうと、あえて援軍もよこさなかったのに、「さにあらんや、完勝してしまった。これは以上勢いをつけてはならない。」「自分の体力があるうちはいいが、(自分のやって来た過程をみれば、、、)八郎ではとてもかなうまい。」
「家久(与三郎)、秀家(八郎)の時代となっても、勢力の持って生きようでは、常に危険が付きまとう」

この想いはあったでしょう。

> やはり明石サイドで考えてしまいますので、家久公に娘を嫁がせている景親としては、直家の陰謀をどこまで知っていたのかが、気になります。

> 知らされていなかったのだとしたら、後に、どういう感情を抱いて、どういう風に対処したのかも…。

その点は、不明ですね。
ただ、この件は直家の行った暗殺の内、他とは一線を画していますね。

そして、其の後、虎倉城を攻めたのか攻めなかったのかは、異論のあるところですが、大きな戦火は起こっていないようです。
直家もまた、勢力を縮小する事を目的として、侵略のため、とは考えていなかったのではないでしょうか?

久隆を暗殺し、代替わりをさせ、身内の与三郎(家久)に家督を継がせることにより、併合するとともに八郎の時代の礎を築こうとしたのではないか、と、、。

ところが、意に反し、与三郎は久隆に真髄しており、直家に対し、対決の姿勢をとった。
直家は予想に反して与三郎が反目したが、一応、妹の子であり、そのまま様子見として静観とした。

明石はほっとして安心したが、其の後、秀吉軍の高松戦の戦後処理で秀吉より、虎倉城について、家久を退城させ、退城にそわなければ攻めるようにきつく申しつけられたので、仕方なく、「名家の血筋を絶やしてはならない。このままでは、意地をとおしても、いつかは数で滅ぼされる。毛利方に逃げてでも、この場を凌ぎ、お家の再興の機会を伺い、種を継続すべき」と進言し、家久に毛利に下り様子をみる事を進言した。しかし、時代は関ヶ原へと、、。

これが一番自然な解釈ではないでしょうか?

三者、義理の兄弟でもあったのですよね

野楽人さま、おはようございます。
お忙しいところ、またお答えをどうもありがとうございます。

>身内の与三郎(家久)に家督を継がせることにより、併合するとともに八郎の時代の礎を築こうとしたのではないか、と、、。

『身内』というお言葉で、伊賀久隆公妻女が直家の妹であったことを失念していた己に気付きました。
家久公にとって直家は、父の仇でありながら、叔父さん(伯父さん?)でもあったのですよね…。
そういえば、以前よりうかがおうと思っていたのですが、家久公の『家』の字は、直家からの偏諱だったりしたのでしょうか??

明石景親の妻女も直家妹でござりまするゆえ、当時、三家当主は義兄弟の間柄でもあった訳で…。
『直家の妹』と申しても、親類を養女にして…というのもありますゆえ、実の兄弟姉妹ではなかったやもしれませぬが、血縁の絆がまったく無視されているところにも、当時の仁義無き乱世ぶりが伝わって来るようです。

関ヶ原の直前、家中騒動で戦力の大半を失ってからの執政を任されたとき、明石掃部様は「伊賀家の戦力があったら…」とお思いになられたことでしょうね…。
関ヶ原敗戦後、明石様は、黒田領から毛利領へ、『姉妹』(たぶん、家久公妻女となった姉)を訪ねていたとのことで、伊賀と明石は姉弟間で、わりと頻繁に連絡を取り合っていたのでは…と思いました。毛利側に何か史料が残っていないものか、調べに行ってみたいです…。

Re: 三者、義理の兄弟でもあったのですよね

> ナタ55さま、こんにちは。
>

> 家久公にとって直家は、父の仇でありながら、叔父さん(伯父さん?)でもあったのですよね…。
> そういえば、以前よりうかがおうと思っていたのですが、家久公の『家』の字は、直家からの偏諱だったりしたのでしょうか??
>
伊賀伊賀守家久は、もともと、伊賀与三郎隆家といいます。
叙爵の時は、父久隆が毒を盛られた後ですので、仲違いに近い状況であったろうと思われます。

宇喜多には浮田家久という者もいますよね?
その時代には、よくつけられた名前なのでしょうか?

>私は、前にも申しましたが、家久は宇喜多に対抗するためには、毛利方の力をかりようとしましたが、水面下では、明石の協力を得ようとしていたと考えています。
家久は仁掘庄を領有していますが、(現在の「ドイツの森」あたり)その南下したあたりは、明石のフィールドです。

横方向(東西)に境界をつくり、 明石景親と連携したかったのでは?

>
> 関ヶ原の直前、家中騒動で戦力の大半を失ってからの執政を任されたとき、明石掃部様は「伊賀家の戦力があったら…」とお思いになられたことでしょうね…。

>私も、そう思います。
関ヶ原戦の折は、宇喜多の猛将が皆、離れてしまい、本来の将はいませんでしたので、すでに強い宇喜多では無かったものを引き連れた明石は、辛かったかも、、。

関ヶ原敗戦後、黒田領から毛利領へ、『姉妹』(たぶん、家久公妻女となった姉)を訪ねていたとのことで、伊賀と明石は姉弟間で、わりと頻繁に連絡を取り合っていたのでは…と思いました。毛利側に何か史料が残っていないものか、調べに行ってみたいです…。

それはあると思いますね。自然ですね。ただ、歴史の表舞台に出ていないため、記録がないので判り兼ねますのが難点で、、。たしか、井原家の後孫の方は、東広島あたりで議員かなにかされているのでは?一度、お話をお伺いしたいものですが、、。

そちらの地理に詳しくなりたいです

野楽人さま
お祭りでお忙しいところ、またも詳細なるお答えをどうもありがとうございます。
おかげさまで、伊賀家、明石、宇喜多の、縁戚同士の距離感のようなものが推察できるような気持ちとなって参りました。

実力者ではあるものの、身分としては伊賀家に及ばない宇喜多の心境…。立場的には伊賀家と似ているものの、上手く立ち回ったのか、それとも別な理由があってのことか、宇喜多内で大身の外様として存在し続けた明石…。
毛利と織田の情勢の微妙さ、明石と黒田がどの程度連絡しあっていたのか…など、推し量れないことが有り過ぎて、知れば知るほどに、伊賀事件の謎が深まる気もします。

>家久は仁掘庄を領有していますが、(現在の「ドイツの森」あたり)その南下したあたりは、明石のフィールドです。

そちらの地理がわかると、伊賀家や宇喜多、明石のパワーバランスのようなものが、私にも、もっとピンと来る気が…。
岡山の地図とにらめっこして、少しでも地理感覚を養いたいです♪
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