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吉川 伊賀家 旧屋敷跡をめぐる



現在、森になりつつある丘の上に吉川伊賀家の旧屋敷跡があります。
この地ももはや森になりつつあり、昔の状態を探る事も難しくなっていますが、記憶のある間に少しでもとどめておきます。



屋敷跡地の最下段取り付き部。周囲は全て1~2メートルにて切り岸とされています。





屋敷へ上がる侵入路です(東南側)

P1000558.jpg

正面の木立は他家の若宮神社です。
この辺りに番屋があったのでは?

P1000563.jpg

屋敷などがあったのではないでしょうか?
一段の石積や平地がそれなりの様子を伺わせます。

P1000561.jpg

下段、周囲はこの場所に限らず、昔から(いつ頃からかわかりませんが、、)栗の木が大量に植えられています。
上の方は、椎の木と女御竹が沢山です。やはり、いざの時の食(しいのみ)と弓矢にする竹のためでしょう。

P1000553.jpg


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お写真Up、どうもありがとうございます♪

こんにちは。
こちらではお久しぶりにございます。
少し前に「わ♪FBでのお写真、Upしてくださってる~~♪♪」と拝見に参上していたのですが、諸般の事情でお礼コメントが遅くなってしまいました☆

判りやすいご解説、風情あるお写真、ほんにどうもありがとうございます!!♪
お屋敷、もっと虎倉城のふもと…と申しますか、背後にすぐ山の斜面が見えるような感じのところにあったようにイメージしておりましたので、想像以上に広々とした風景に驚きました。
明るい陽光の降り注ぐ広大なお屋敷で、名族の風格と華やかさをもって暮らしておられたことがうかがえるようです。

風景の素晴らしさと共に、貴重な遺構がより良い状態で保存されますよう、心よりお祈り申し上げております!!

コメントありがとうございます。

ナタ55様、コメントありがとうございます。

旧屋敷跡は八丁畷と呼ばれる準平原を見下ろすところの横の小高い丘(山)にあります。周囲は天然の濠のように山を取り囲み、周囲は現在は木が繁って視界を遮るところもありますが、四方を見渡せる処です。ここに櫓を組めば、吉川と言われるこの地域の南の入り口付近まで見渡せ、周囲の濠状の地形の外には、やはり虎倉より落ちてきた家々が囲むように点在しています。
 この丘は一番下の段は切り落とされ、中間にも数段の切り落としがあり、屋敷のあった場所は周囲を2段の切岸とし(一部石垣)、侵入路は馬出し道を除き、掘りきったようにつけられています。屋敷の周囲は150~200メートル位はあるでしょうか、相当広い敷地となっています。

5輪塔などがあったのですが、価値をしりませんでしたので、近年、全て排斥してしまっています。この辺りには、5輪塔が多いのですが、5輪塔は武士の墓(?)のような事も効いた事がありますが、如何なものでしょうか?

姿かたちは無残となっていますので、昔の面影はなく、徐々に知る人もいなくなりますので、今ここでまとめておこうと思った次第です。

お墓のかたち

野楽人さま、こんにちは。
うかがうほどに、素晴らしいお屋敷跡と拝察、しっかりとした史跡保存、行政にもお願いしたい気持ちです。
ほんに、遠からぬ日、見学にうかがいたいです♪

お墓のかたち、竹中半兵衛様墓所をお参りして以来、とても気になるようになりました。
陣没された三木市に、ぶどう畑の中にある(通常、書籍などで紹介されるほうの)お墓の他に、少し離れた集落のお寺の裏山に、もう一つのお墓がありまして、私はそちらのほうが最初に建立されたお墓なのでは…と思いました。
と、申しますのも、古いお墓のほう、崩れてしまって、パーツが散らばっている状態になってしまっているのですが、いわゆる宝篋印塔で、当時の有名武将のお墓でよく見られるものと同じだったから…であります。

お墓のかたち、時代によっても違うと思うのですが、家格や宗教の違いなどでも変わってくるのか、興味が出て参りました。
そちらには五輪塔がお有りだった由、お写真だけでも残っておりますれば…と、もったいなく思います。
幾つかの形の石をくみ上げているお墓というのは、やはり、かなりの家格でないと建立できないのでは…と思います。
お墓と供養塔でも、また違ってくると思いますが、その下で眠っておられるお方にご無礼とならない範囲で、勉強させていただければ…と。
『墓マイラー』という用語を知り、私こそ、そのお仲間かも…と思うのですが、とにかく、埋葬されているかたと、ご子孫の皆様に失礼がないように、気を付けてお参りさせていただきたい気持ちです。

No title

はじめまして
ネットでいろいろ検索していたらホームページにたどりつきました。
私自身伊賀性を名乗っており、
祖父は九折という場所で生活をしていました。
父は私が幼くしてなくなったために
伊賀のご先祖様について何一つ教えてもらうことができませんでした。
私の家の家紋は昇り藤ですが、
伊賀城主との関連性を示すものは何一つ出てきていません。
ですので明治の時に、勝手に伊賀性を名乗っていたのではないかと推測しますが・・・いかがなものでしょうか?
お暇なときにご連絡お待ちしています

上月城址

5月11日大阪からの帰りに、上月城址に登りました。大河ドラマの影響でたくさんの方がいましたが、城の規模としては加茂市の福山城みたい。籠城するにも水の確保をどうしたのか?本丸付近の下の平地を歩いてみると石垣や瓦の痕跡も無く、空き瓶空き缶だらけでした。虎倉は井戸跡や沢(20年ほど前えびね蘭が群生していた場所、今は分からなくなりました)もあり、瓦はたくさん現存している。なぜこんな場所に?とは思いますがとんでもない規模の要塞があったんだとツワモノの息吹を感じます。8日に行った大三島の大山祇神社に日本国総鎮守と記されているのを見てびっくりしましたが、昔は場所の概念が違っていたのでしょう。車でもしんどいのに本当に戦国武将たちはあちこち動き回っていたのでしょうか?

Re: 上月城址

> 5月11日大阪からの帰りに、上月城址に登りました。大河ドラマの影響でたくさんの方がいましたが、城の規模としては加茂市の福山城みたい。籠城するにも水の確保をどうしたのか?本丸付近の下の平地を歩いてみると石垣や瓦の痕跡も無く、空き瓶空き缶だらけでした。

> 虎倉は井戸跡や沢(20年ほど前えびね蘭が群生していた場所、今は分からなくなりました)もあり、瓦はたくさん現存している。なぜこんな場所に?とは思いますがとんでもない規模の要塞があったんだとツワモノの息吹を感じます。

 虎倉城はその現存を観ても大きな城ですが、その城地は虎倉山1つ丸々の事を考えると相当な規模ですよね。
 虎倉はこと水に関しては上のほうまで豊富な恵まれたところですね。

 しかし、山もある程度人間の手が入らないとあれますし保水力も失われるのでしょうか?
 数年前の鉄砲水で荒れ果て、いたるところが流水の傷跡を残し無残な姿をさらしています。
 
 その前の福山城もかなり大きな部類ですよね。
ただ、福山城は少し地形的に詰まっていますので、より広範囲を抑えることと出雲街道、津山街道(美作街道)を抑え備前、備中の要所をおさえる絶好の要害だったのでしょうね。
 やはり、備前勢が勢いをつけて戦国様相が深まる中、伊賀も対抗して、南の紙工辺りの防御も必要ですし、、、。
 松田とは、同盟関係とはいえ、気を許すといつ侵攻されるかもわからないので当然、牽制は必要でしょうしね。事実、松田は虎倉領の寺社の改宗を図ったりしてきてますね。

> 8日に行った大三島の大山祇神社に日本国総鎮守と記されているのを見てびっくりしましたが、昔は場所の概念が違っていたのでしょう。

私はまだ大山祇神社へ参ったことがありません。是非とも行ってみたいところです。
武門にとっては特に重要な社ですね。

 素戔鳴命由来とはいえ、現実的時代背景を考えると、「日本国総鎮守」は「文永、弘安の役」に対する後国安泰祈願等によって総鎮守されたのでしょうか?当然、武家の魂として源平藤橘 皆古来より崇める存在ではありましたでしょうが、、、。


> 車でもしんどいのに本当に戦国武将たちはあちこち動き回っていたのでしょうか?

 近代に車が発達するまでは、皆4~10キロぐらい歩くのは当たり前でしたよね。慣れは恐ろしいものです。
 当家の私の祖父などは、吉川から虎倉まで夜12時に家紋提灯に火を入れて虎倉詣りをしていたそうです。
 私らも、幼いころは、吉川から福谷まで歩いて猿見を下っていた記憶があります。

 ただ、戦国武将は、馬に乗って移動ですよね。だから、沼の城まで通ったりできていたんでしょうね。

 それと凄いのは、地質学にも精通していたであろう事。また自然を含むあらゆる知識に豊かであったことが伺えますことは、学ぶことが容易な今日の状況下にある者に比べて、能力の高さを感じさせますね。
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