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岡山県御津郡誌(大正十二年十月発行 御津郡教育会著)二百七十頁

吉川の伊賀に関する記述の抜粋

虎倉城落城と共に伊賀氏の一族中城を捨てて備中に遁れ去り吉川に入り此処にその生を終えたるものあり。その後を継ぐものあり。

毎年三月と八月の十六日に伊賀氏は先祖の霊を弔うために供養に出かけていた。
吉川の伊賀氏一族が虎倉からの落人だといっているだけでなく、虎倉地元の人もそれを信じているようです。

岡山県御津郡誌(大正十二年十月発行 御津教育会著)二百七十頁虎倉城及虎倉合戦 に次の記載があります。

「毎年三月十六日上房郡吉川村伊賀氏来りて供養す」


しかし、地方誌の記載を観ると 相当わるいやっちゃなあ

 伊賀久隆については、
  「天道その無道を悪み、幾ばくならずして宇喜多直家の臣難波半次郎の饞悪にかかって直家の爲めに毒殺されました。
 その子、与次郎これに抗し防戦しましたけれど戦敗れ天正七年正月虎倉を捨てて備中に遁れ去りました。
この時、伊賀の一族中吉川御堂の奥、河内田原を経て西荘田、千木の民家に忍び入り、ここに生を終えたるものあり。
 現在吉川にその後を継ぐものありとか言い伝えられています。

と記載されています。

 ようは、久隆公は悪いことばっかりするので、天罰がくだり宇喜多直家に誅され、その子は戦に負けて吉川に逃げ込み、民家に押し入ってそこに住みついた。そしてその子孫はたしかではないがいるらしいと言い伝えられている  ということらしい。
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吉川と虎倉の距離

こんにちは。
こちらではお久しゅうござりまする。

前々から気になりつつ、よく調べていなかったのですが、検索して地図上で吉川と虎倉の位置関係を、ようやくきちんと把握いたしました。
エリアが微妙に違うのですね…。

毛利領へ…という混乱の中、故郷に近いところに隠れ住んだ一族…ということになるのでしょうか。
本能寺の変後の国境裁定が毛利の主張通りになっていれば、一族全体のその後も、またずいぶん変わったことでしょうね…。

Re: 吉川と虎倉の距離

> こんにちは。ナタ55様。
>
> 実は、毛利領、備中といってもすぐ隣、近くなのです。虎倉合戦などでは吉川のすぐ近くに河原越中1500騎を陣取らせていたりと、昔から吉川は備中でありながら虎倉領なのです。

> エリアが微妙に違うのですね…。
> 毛利領へ…という混乱の中、故郷に近いところに隠れ住んだ一族…ということになるのでしょうか。

>そうなのです。
なんだかたいそうな逃走劇のようですが、実は自領の内で伊賀家久が毛利を頼ったので自然と毛利領にくみこまれたのです。

> 本能寺の変後の国境裁定が毛利の主張通りになっていれば、一族全体のその後も、またずいぶん変わったことでしょうね…。

>それがベストで全く違いますよね。
それこそ、江戸を越えるまで家が続いていたかもと考えられます。

>しかし、伊賀は沈黙を守るなか、色々な記述がなされいろいろ想定されてきました。
かなりの規模であったにも関わらず、その詳細が不明となり、まさに歴史の闇に埋もれた形でその評価も存在も推測が先行し、あらためてみますと、こまかな解釈がかなり歪んできているようです。

家久は虎倉を捨て逃げ去ったので毛利が取り返したとの記載もありますが、それなら、毛利も家久の評価を下げ、所領を加増して与えたりはしないのでは?(= 仁堀などを毛利より与えられ、家久の時、最高21万石まで増えた)などと思ったりします。

お答え、どうもありがとうございました!

おはようございます。
詳細なるお答え、どうもありがとうございます!!
たいへん興味深く拝読仕りました!

伊賀一族の詳細な史実も、不明になってしまっているのですね…。
ひょっとして明石狩りの影響で(岡さんを匿ったという件で)キリシタン疑惑を抹消するために、あえて隠滅してしまった史料もあったのでは…という考えも浮かんでしまいました。

それはそうと、伊賀家が『松田の家老だった』という誤解、まだまだあるようで(Wikiもそう記載されたままですね…)、史実がもっと解明されて、正しく広まってゆくと良いですね。
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